シークレットなナブッコ

三澤洋史 

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湘南国際村の合宿
 東京バロック・スコラーズ(TBS)では、5月26日日曜日第一生命ホールで行われるバッハ作曲モテット全曲演奏会に向けて、4月27日、28日の週末に合宿を行った。合宿会場は、昨年のマタイ受難曲演奏会のための合宿と同じ湘南国際村。ここはロケーションが抜群だし、施設もきれいで、とても気に入っている。三浦半島の真ん中あたりに位置し、逗子から近く、合宿所の丘に登ると広大な海が広がり、その向こうに伊豆半島があり、富士山がくっきり浮かび上がっている。

 合宿では、練習の合間に3.11の被災地で手仕事支援として作られた様々なものが販売された。昨年は妻だけがその販売を手がけていたが、嬉しいことに、今年は、妻とは別ルートで団員の中にも被災地とコンタクトを取っている人達がいて、それらの品々も販売された。妻は、今回は合宿に泊まって夜の懇親会にも出席して楽しかったようだ。
合宿は、みんなの心が集まってひとつになるので、通常の練習をいくつか合わせたものとは根本的に質が違う。やはり、同じ釜のメシを食うというのは必要なのだ。

 1日目の夜の練習は、小アンサンブルの練習。指揮なし伴奏なしで、各パートひとりないしはふたりで歌わせ、アンサンブルの雑な点や音の過ち、テンポ感などを徹底的に直す。みんなにとっては辛い練習だろうが、それをやった後に全員で歌うと見違えるようになる。
 TBSでは、マタイ受難曲の練習期間あたりから、ひとりひとりの曲に対する関わりがとても積極的になってきた。指揮者の指示待ちではなく、むしろ各団員が持ち寄った表出性を整理すればいいようになってきたので、指揮者の僕自身が彼らから受けるものもあり、練習していてとても楽しい。特に、小アンサンブルの後では、自分を他の団員の前でさらけ出すので、ひとりひとりの躊躇や恥ずかしさが吹っ切れる。
 僕は、合宿の終わりにみんなに告げる。
「かなり面白くなってきた。でも、もっともっと僕が抱えきれないくらいの想いをふくらませ、練習でぶつけてもらいたい。そうして、演奏会では聴衆がびっくりするくらいの、どこにもないモテットを奏でて欲しい」
今のTBSなら出来ると僕は確信している。それどころか、今度の演奏会はとてつもないものになりそうだぞ!

 合宿が終わって、妻の車で逗子の海岸のはずれのカフェに入る。 外のテラスの席を取ると、陽ざしがやや強かったが、海風を受けて心地良い。遠くに江ノ島が見える。

湾の中ではウインド・サーフィンをしている人達が沢山いる。風がそれなりにあるので気持ちよさそうに進む。ああ、楽しそうだな。僕もやってみたいな。渚では、泳いでいる人はまださすがにいないが、人が溢れていて、それぞれ凧を揚げたりいろいろ楽しんでいる。

 妻とふたりでボーッと海を眺めてまったりと過ごした。時が止まったようで、なんだかちょっと恥ずかしいような素敵な午後のひとときだった。  


シークレットなナブッコ
 ナブッコの立ち稽古がいよいよ始まった。その様子をみなさんにお伝えしたいと思っていたけれど、この演出内容についての情報は一切公表しないで欲しいという要望が演出家グラハム・ヴィック氏から出され、劇場側もそれを承諾したので、残念ながらこの欄でそれを書くことは出来ない。
 まあ、通常のありきたりな伝統的演出だったら、そんなに過敏になる必要もないので、読者のみなさんは、こう書くことによって、
「一体どんな衝撃的な内容なんだろう?」
と想像力を無限にふくらませ、逆に、
「では、行ってみようかな」
と思うかも知れない。
 そこがまさに演出家のねらいでもあり劇場側の承諾の理由でもあるのか、と取られても仕方ない。ただ僕には、演出家ヴィック氏はもっと正直な気持ちで情報統制を望んでいるように思われる。彼は、むしろ噂によって中途半端な伝わり方をされて、観ない内に誤解が誤解を生んで先入観のかたまりで聴衆が劇場に足を運ぶのを心配しているようなのだ。
「ありのままで公演を観て欲しい。その上で判断して欲しい。その批判を受ける覚悟はある」
と言っていたからね。

 一方、音楽的には至極まっとうなナブッコ。今をときめくルチオ・ガッロのタイトル・ロールも健在だし、先日アムネリスで圧倒的な歌唱を聴かせてくれたマリアンネ・コルネッティも、アムネリス同様「キツイ女」を見事に演じている。しかし、なんだね。「ドン・カルロ」のエボリ姫もそうだけれど、ヴェルディのオペラには意地悪女の存在が欠かせないね。でも、その意地悪女はいつも最後に回心するのだ。
 ワーグナーでは、女性は崇拝の対象で、むしろ主人公をその身を捨てても救済してくれる存在なので、意地悪女は基本的には出て来ない。例外はリングでヴォータンの正妻フリッカで、これはこれで浮気三昧のワーグナーにとっては実に恐い存在としてリアルに描かれているけれど、その憎しみの矛先は甲斐性のない旦那であって、美しくやさしいヒロインではない。

ということで、ゴールデン・ウィークの間、ずっと「ナブッコ」立ち稽古が続く。

志保が結婚しました
 音楽家の生活って、一体どんな風なんだろうとみんな思っているみたいだが、日常生活なんて、そんなオペラのような大事件が毎日起こっているハズがない。僕だって、朝起きて散歩して、NHK連続テレビ小説を惰性で観ながら(とはいえ、今回の「あまちゃん」はなかなか面白い)朝食を食べて、それからいつものように譜面に向かうかパソコンに向かう。そして午後から外出して新国立劇場に通う。ほぼ毎日そんな繰り返し。きわめて淡々としている。

そんな淡々とした僕の日常生活の中にも、普通の家庭と同じくらいの頻度で、節目節目には変化も訪れるもの。たとえば、長女の志保が結婚した・・・・おっとっとっと、実にさりげなく淡々と言ってしまった。

 夫になった彼に会うのは、志保が我が家に連れてきた時初めてだったのだが、縁というものは不思議なもので、僕は彼のお父さんをよく知っていた。昔僕が二期会でオペラの副指揮者をしていた頃、イタリア語の言語指導で来ていた河原廣之氏である。
 僕はそれまで、
「イタリア語ってローマ字読みだし、日本語ととても似ているので簡単」
とみんなが言っている言葉をそのまま鵜呑みにしていたので、イタリア・オペラの稽古に言語指導が入ると聞いて最初不思議な気がしたのだが、河原氏のイタリア語指導を初めて受けて、まさに目から鱗(うろこ)であった。
 彼の指導は衝撃的であった。まるで格闘技でもするように体を激しく動かしながら発音指導するその姿に目を丸くしたが、その動きと相まって、イタリア語の表情やニュアンスが実に鮮やかに浮かび上がってくるのだ。
 僕は生まれて初めて、イタリア語というのはこんなにも日本語とかけ離れているのだということを知った。日本語と似ているのは、ひとつの子音にひとつの母音がペアとなっているというシステムだけ。イタリア語の母音は、日本語の平面的な母音のあり方とは正反対に、立体的に立ち上がり子音と相まって彫りの深い表情をたたえるので、その発音には体全体を使わないといけない。そして母音を歌うようによどみなく美しく響かせることによって初めてその根源的パワーが引き出されるのである。だから、イタリア語はそのままベルカント唱法に結びつくのである。
 そんなイタリア語の奥深さに気が付かせてくれた河原氏は、最初北京に中国語を習うために留学し、それからペルージャに行ってイタリア語を勉強したという。北京にいたのでペキーノと呼ばれている。一方、その息子さんはトミーノと呼ばれている。彼の呼び名は場所とは関係ない。
 ペキーノは、ペルージャ留学中に、やはり語学留学をしていた女性と知り合って結婚し、トミーノを授かる。トミーノのお母さんもイタリア語が専門の翻訳者。おびただしい数の対訳本を出しているイタリアオペラ出版・アウラマーニャの代表者とよしま洋(よう)氏である。
 家庭料理がイタリア料理という環境で育ったトミーノは、幼い頃からイタリアにあこがれていて、自分の意志で14歳の時にイタリアのパルマに渡り、多感な青春時代をずっとパルマで過ごしていた。このあたりの環境が志保と似ている。自分の意志でわざわざ親を説得してここまで来たのに、淋しくてよくひとりで泣いていたというが、17歳で単身パリに渡った志保も、トミーノよりは少し遅いが、全く同じ思いをしているのだ。名前が義(つとむ)というところから、イタリアではトムTomと呼ばれていたが、しだいに愛称でトミーノTominoと呼ばれるようになって今日に至っている。
 彼も志保と同じピアニスト。びわ湖ホール&二期会共同制作の「アイーダ」公演の練習ピアニストとして二人とも雇われて稽古場で知り合ったという。イタリア語がネイティヴのような感じなので、イタリア・オペラのコレペティトール(練習コーチ)が得意。通訳もする。僕が、ジェラールを初めとして再会を心待ちにしている、今秋のミラノのスカラ座引っ越し公演でも通訳で駆り出されているという。
 まだパルマに家があって、これまでは日本とイタリアの半々の生活であったが、志保とこういうことになったので、これからはむしろ日本に本拠を移す決心をした。彼は料理がとても上手。婚姻届を出してきた次の日に、僕の「ナブッコ」の晩の立ち稽古がトリになったこともあり、トミーノが我が家に来て僕達に作ってくれた。
 先日パルマから持ち帰ったパルマ・ハムやパルメザン・チーズによるオードブルから始まった結婚お祝いパーティーは、発泡性赤ワインのランブルスコの栓をポン!と開けることから始まった。それからprimo piatto(第1の皿)のパスタ、secondo piatto(第2の皿~主菜)と進んだが、一見シンプルに見えるイタリア料理でもトミーノの作るものはひと味もふた味も違う。彼のこだわりと心くばりがひしひしと伝わってくる。それを感じながら、僕は、こいつには志保を任せても大丈夫だと確信した。


 不思議に思うのは、僕がフランス語の勉強の必要性を感じ、パリに何度も子どもたちを連れて行っていたのが、後に志保や杏奈がパリ留学するきっかけとなったし、その後ミラノ短期留学のために伊語も含めてイタリアに僕の意識が接近していくと、後を追うように志保もイタリア語を習い、イタリアンなトミーノと結婚する。それを僕はこれまで、自分が彼らに影響を与えていたのだと思っていた。
 でもふと考える。それはもしかしたら逆なんじゃないだろうか。もしかして、その人生の初めから、志保はパリに留学しトミーノと結婚する運命にあったのではないだろうか。そして僕は、いつもそのために彼女のために道を切り開く役目を演じてきたのではないだろうか。ともあれ、それは僕にとってもためになったわけであるから、こうやってお互い与え合い受け合って人生は進んでいくのだろう。

 ということなので、みなさん、まだ未熟ではありますが、若い二人の前途を祝福し、折ある毎に叱咤激励してください。志保は、河原志保になりましたが、仕事はこれまで通り三澤志保ですると言ってます。
どうかよろしくお願いします!



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