石垣島で出遭った“うた”

三澤洋史 

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石垣島で出遭った“うた”
 素晴らしい“うた”に出逢うと、いつも我を忘れるくらい感動しながら、同時に不安にもなる。それは、ここまでコツコツと積み上げてきた僕の音楽へのアプローチをあざ笑うかのように、“うた”が、自分をある完結された「感動の世界」に一気に運んでいってしまうことに対する不安だ。
 音楽が、魂と魂とのコミュニケーションの手段だとすれば、歌い手の魂からほとばしり出た“うた”が、直接自分の魂に染みいり、自分のこれまでの人生において愛してきたものをより深く愛し、失ってしまったかけがえのないものや人を思い出し、忘れてしまった大切なものに思いを馳せ、明日の人生をよりよく生きていこうと自然に思えた時点で、全ての目的は達せられる。だが・・・本当にそれだけでいいのだろうか?
 これまで勉強してきた和声学や対位法、スコアリーディングや指揮者としての様々な知識や見識が、ひとりの歌手の美しい“うた”の前に無用のものと化し、ガラクタのようにさえ感じられ、もう“うた”さえあれば何もいらないと思うことは、なんとも危険な誘惑ではないか?
 それは、あたかも、石垣島の珊瑚礁の海と空の色や、御神崎(うがんざき)から見た海に沈む夕陽の静けさや、驚くほど近い満点の星々さえあれば、音楽家としてのキャリアも何もいらない、全てを忘れてこの地で暮らそうと思うのと似ている。
 そんな不安にここ数日かられている。それは勿論、嬉しい不安でもある。それほど深く、彼女の奏でる“うた”は僕の心を揺さぶった。それは、僕の音楽観、いや人生観そのものをも深く揺さぶった。僕は、その時からずっと自分に問い続けている。自分は本当の自分の“うた”を奏でているのか?本当に人の心を打つ音楽に向かっているのか?そうでなかったら、音楽をやっている意味があるのだろうか?今のままで果たしていいのか?
そうしたことを僕に突きつけている、その人の名は、夏川りみ。

運命に誘われるように
 この世に偶然なんてない。今回ほどそう思ったことはない。最初から話そう。東京バロック・スコラーズ(TBS)に本堂裕司さんという団員がいた。彼は東京で特許関係の会社に勤めていたが、3.11後、放射能の危険を逃れるため、東京を離れて石垣島に移住することを決めた。会社を突然辞め、TBSもとりあえず休団して彼は石垣島に渡った。あれから二年経った。
 先日のTBSのモテット全曲演奏会で、僕は彼と再会し、石垣島での生活のことを聞いた。彼は、沖縄本島を含む地域で再び特許申請の仕事を行い、生活しているという。とりあえず、現在の生活に満足していて、当面東京に戻ってくるつもりはない。
 一方僕は、元バイロイト大学教授のディーター・クラインが来日した時に、彼が僕たち夫婦に言った言葉が頭に残っていた。
「日本に居ながら、石垣島の珊瑚礁の海でシュノーケリングをしないで人生を終えるなんて、なんてもったいない!わざわざドイツからそれを体験するために来ている者がいるというのに」
 でも、僕の妻は海が嫌いで、これまで山にばかり行きたがっていたので、ディーターの言葉を聞いても心は動かないだろうと思っていた。ところが、どうした風の吹き回しか、石垣島に行ってシュノーケルしてもいいと突然言い出した。これには僕もビックリした。
 そこで、あれよあれよという間に話がまとまり、ホテル付きのパック旅行石垣島3泊4日の旅が決まった。飛行機のチケットは、なんと彼女が自分で取った。7月30日早朝6時半の直行便で石垣新空港に9時半に着く。当然本堂さんとも現地で再会することとなった。でも、彼は沖縄本島で特許関係のお話をする仕事を7月30、31日と頼まれているという。なので、僕たちは8月1日に会おうということになった。
 つまり、8月1日に会うしか僕たちには選択肢がなかったのだ。その彼に、よりによってその日に行われる夏川りみのライブの話が飛び込んできた。一般の人が入るべくもない超プライベートなお忍ブの話が・・・・。本堂さんは、そのコンサートでギターを弾いているミュージシャンと友達になっていた。そのギタリストが連絡してきてくれたそうだ。
 8月3日土曜日に開催される「南の島の星祭り・夕涼みライブ」に出演するために帰省している夏川りみが、ほとんど追っかけとファンのみを集めて、石垣市内の地下のライブハウスでコンサートを行うということ。欲しければ特別にチケットを予約してあげてもいいよという。本堂さんは、僕たちに確認する間もなく、即座に3枚分のチケットの予約をした。1年365日あるのに、よりによって、その日に!じぇじぇじぇ!

石垣島での日々
 さて、話を7月30日火曜日に戻す。午前中に石垣島に着いた僕たち夫婦は、予約していたレンタカー会社から借りた車で、まず有名な川平(カビラ)湾に行き、その反対側の底地(スクジ)ビーチに行った。それから海沿いの道を車で走ってホテルに向かう。僕は運転免許証を持っていないので、運転は勿論妻が行う。


石垣島の風景

 ところがその途中、かりほー商店から電話が入った。ボートのエンジンの調子がおかしくなって、午後に妻と二人で予定していたシュノーケリングをキャンセルせざるを得ないという。仕方ないので、明日予定していた僕一人の体験ダイビングの時間をシュノーケリングに変更することにした。ダイビングは・・・・ま、次にするか。
 さて、午後の時間が空いてしまった。僕はとりあえずホテルのプールで泳ぐ。こ、こんな海のきれいなところで、海に入らずにわざわざホテルのプールですかと思うでしょう。ところがね、こっちの海辺では、あまり人が泳いでいないのだよ。理由はいくつかある。一番大きな理由は、浜辺の砂がなめらかではなくて、素足で歩くと下手をすると足の裏を切ってしまうこと。それから遊泳区域がとても限られていること。毒のクラゲや毒のいそぎんちゃくなど危ない生き物がいるらしい。
 また、逗子の海岸のように海の家とかあるわけではなくて、浜辺だけが広がっていて、
「さあ、泳ぐならどうぞ!」
と言われても、なんかモチベーションが湧かない。それよりその美しさを眺めていた方がいい。ということで、泳ぐのはシャワーやロッカールームがきちんとついているホテルのプールということになってしまうわけだな。何度泳いでもタダだし、シャワーにはシャンプー、リンス、ボディシャンプーがついている。

 ホテルのエレベーターに「本日の日没時刻19:29」と出ている。そうかあ、では日没を見に行こう、ということで車を飛ばして御神崎(うがんざき)まで行く。海に沈む夕陽を見たことありますか?それは本当に神聖で荘厳で究極のしずけさに満ちた体験だ。まさに海に少しずつ沈んでいくんだ。
「海は沸騰してしまわないのかなあ?それとも太陽の火が消えてしまわないかなあ?」
などという子供のようなことを考える。そして太陽のてっぺんの最後の輝きがふと消える瞬間がやってくる。この世の全ての音という音が止む。神が通り過ぎる瞬間!神性が僕の肌を撫でていく瞬間!


御神崎に沈む夕日

 7月31日水曜日。今日は忙しかった。午前中に竹富島(たけとみじま)に船で渡る。レンタサイクルを借りて島を回る。僕はマウンテンバイク、妻は電動アシスト。伝統的な建物が残る異国の雰囲気満点の村を、馬車を曳いた水牛がのんびりと通り過ぎてゆく。星の砂があるというカイジ浜へ行く。僕はのんきにもそのビーチでは砂は全部星の形をしていると思っていたが、全然見つからない。
「みんな取っちゃったのであまりないです。最近の台風でまたなくなっちゃいました」
と売店のお兄さんが言う。仕方がないので、その売店で瓶詰めの星の砂を買ってきた。
 そのビーチから村に戻る近道の曲がり角で、レンタサイクルのお店がくれた地図を確認すると、
「草むらではハブに要注意」
と書いてある。ゲッ!やっぱりいるんか!それからは、ビクビクしながらの運転。砂利ばかりの狭い道。本当にハブなんか出てきたらその衝撃できっと転んでしまうだろう。やっと通り過ぎた。ふうっ、死ぬかと思ったぜ。

 さて、竹富島では全然ゆっくり出来なかったけれど、午後は「幻の島シュノーケリング・ツアー」に参加。ボートで西表島(いりおもてじま)方面に向かって約30分。あたりの海の色が淡い感じに変わって浅くなってきたなと思ったら、目の前に白い砂浜だけの島が現れてきた。これが幻の島。引き潮の時だけ現れてくるという。
 ここで写真を撮ったが、ウェットスーツの下だけ着ている格好はあまりイケてません。その遠浅の海でシュノーケルのやり方を学んでから再び船に戻る。あれれっ?さっきより島が小さくなってる。これから満潮に向かうところだとガイドのおねえさんが言う。


幻の島上陸

 その後、竹富島近海の珊瑚礁に向かう。そこでのシュノーケルは、たしかにディーターが「日本に住んでいてこれを見ないで死ぬとはもったいない」と言っただけある。息を呑むほど美しい珊瑚の陰から色とりどりの大小さまざまの魚が出てきたり引っ込んだりしている。向こうの方には青い魚たちの大群が・・・と思うと、海底にナマコなどの変な生き物が横たわっている。シュノーケルは怖いのかなと思っていたが、こんな快適なものはない。海面で脱力しながらプカプカプカプカ。息つぎの心配がないって何ていいんだろう。
 足ビレをうまく使うと力を入れないでも結構進む。ところで、この足ビレの力の使い方は、バタ足にかなり役立つ。というか、へえっ、こんなところに抵抗が生まれて、それを押し戻すとこんな風に水が反応して、結局、こんな風に進むのか・・・と眼からうろこがいろいろある。

 8月1日木曜日。朝起きたら喉が痛い。妻も同じ事を言っている。どうも外気と空調の効いたホテルの中との温度差が激しく、寝冷えしたらしい。そういえば夜中に寒くて起きたら布団を剥いでいたっけ。
 それなのに早朝散歩に出た。軽い時には、散歩する間に直ってしまうこともあるからだ。でも、その朝はとても暑くて、ホテルの部屋に戻ったら汗がダラダラ出ていた。体が熱くなり過ぎていた。さらにお馬鹿な僕は、午前中のドライブに出る前に、プールで30分ばかり泳いでしまった。シャワーを浴びている時、お湯の温かさが心地よかった。つまり今度は体が冷えていた。


本堂邸への道

 その日のプログラムは、島の北側にある有名な明石食堂で、お昼に本堂さんと再会し、一緒に八重山そばを食べてから彼の家に行く。それから夕食は街に戻ってきて、石垣市のはずれで郷土料理を食べ、それから冒頭で説明した夏川りみのライブに行く。結構フル・プログラム。それなのに体調が万全でないのは残念だ。喉の痛みを感じた時点で、朝の散歩もプールもやめておけばよかった。自分が58歳のおっさんだという自覚がなさ過ぎる。ああ、情けない!
 とはいえ、スケジュールに支障が出るほどの重症でもない。八重山そばはとてもおいしかったし、本堂邸への道は快適であった。僕達は、本堂さんの赤い車の後から付いて行く。青い海をバックに牛がのんびりと草を食む丘を見たりながら、石垣島最北端の平久保崎灯台の脇を通り抜け、さらにその先の平野と呼ばれる集落に入って左に折れ、赤い車は止まった。


本堂邸

 コンクリート打ちっ放しの、逆にとてもモダンに感じる素敵な家。一階建てだけれどかなり広い。窓から海が見える。これってもしかして究極的な夢の暮らし?不便と言えば不便かも知れない。でも本堂さんは言う。
「パソコンひとつあれば、どことでも連絡取れるし、Amazonなどで申し込めば、CDでも本でもすぐ来るし、住んでみれば案外不便は感じませんよ」
こうも言う。
「夕暮れ時に、ぼんやり窓から海を眺めていることがあります」
 うーん、これはとても危険な誘惑だ。本堂さんは賢かった。中途半端に石垣市の真ん中などに住まずに、こんな大自然の真っ只中にいるのだ。ここまで来れば、もうあきらめもつく。大自然の抗いがたい魅力に包まれて暮らす、これ以上の幸福があろうか!


部屋でくつろぐ本堂さん

 体調の万全でない僕は、一度ホテルに戻って一休みしてから夕食を共にすることに決めた。帰りがけに先ほど通り過ぎた平久保崎灯台に行く。石垣島のまさに最北端。三方に海が開けているその眺望に唖然とする。右手には本堂さんの集落が緑に包まれて見える。わずか20件くらいの集落。

そして夏川りみライブ~受け取ったメッセージ
 60人くらいしか入らない、閉所恐怖症になりそうな地下のライブハウス。椅子はビールなどのプラスチックのケース。僕達のような一見(いちげん)さんはほとんどいないようで、東京からわざわざ夏川りみを追っかけてここまで来た追っかけや、地元のファン、友人達で溢れているという感じだ。そのせいか、夏川りみの最初のひとことは、
「ふうっ、暑いね」
緊張していると言いながらも、とてもリラックスしているように見える。
 歌い出した。声を聴いて驚く。透き通った、どこまでも伸びる高音。オペラ歌手ではないかと思うほどメロディーをきちんと歌う。その中にしっかりとした陰影をつけ、素晴らしいフレージング。下手な声楽家に聴かせてやりたい。「歌っていうのはこういう風に歌うんだ!」とね。心に染みいる。胸をふるわせる。やさしさに満たされている。気が付いたら涙があふれていた。
 このライブでは、途中彼女は譜面を見ながら、普段歌わない曲をいろいろ歌っていた。
「あたし、この曲勉強中。まだ下手だと思うんだけど、ごめん、我慢して聴いてね」
と言って英語の歌を歌い、歌った後自分から、
「ふうっ、案外うまくいった」
と言う。それが全然嫌味でもなく、素顔のままがのぞかれて好感がもてた。
 子守歌を何曲か歌ったが、そんな時は志保のお腹の中にいる新しい命がすこやかに育つよう願っている自分がいた。終わり近くに歌った「涙そうそう」では、

さみしくて 恋しくて 君への想い 涙そうそう
会いたくて 会いたくて 君への想い 涙そうそう
の歌詞を聴いている内に、恥ずかしい話であるが、昨年死んだ愛犬タンタンのことを想って涙が止まらなくて困った。“うた”って、愛するものをもっと愛し、大切に想うものをもっと大切に想わせる効果がある。“うた”って祈りなのだ。
 ユーミンのレパートリーの「やさしさに包まれたなら」を聴いていた時、突然僕の全身を衝撃が走った。
やさしさに包まれたなら きっと
目にうつる全てのことは メッセージ
 これ、自分に向かって発せられている言葉だ、と思った。そうだ、自分が石垣島にいて、彼女の口から発せられるこの言葉を聞いているその瞬間、まさに僕は永遠の世界からのメッセージを受け取っているのだ。この世に偶然なんてない。このメッセージを受け取るために僕はここに来た。その意味で、僕の石垣島への旅は、このコンサートに全て集約される。
夏川りみさん、ありがとう!そしてこのライブに僕を呼んでくれた本堂さん、ありがとう!


本堂さんの住んでいる所

来週はお盆休みのため、一週間「今日この頃」をお休みします。みなさん、寝冷えなどしないようにお元気でお過ごし下さい。



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© HIROFUMI MISAWA