カンブルランのストラヴィンスキー

三澤洋史 


 名古屋の「パルジファル」演奏会の後、ずっと放心状態が続いている。同時に、これほどのフヌケ状態の理由はいったい何かということをずっと考えてもいる。ひとつのことが分かってきた。この作品はやはり舞台神聖祝祭劇なのだ。自分でプログラムに書いていた通り、「天使は舞い降り」「奇蹟が起きた」のである。少なくとも、指揮している自分にとっては、これまでに経験したことのない「高揚感」と同時に「静けさ」に包まれていて、自分が「絶対的な存在に守られている」のを感じていた。ワーグナーがバイロイト祝祭劇場以外での上演を禁じたのも分かる気がする。この作品に安易な気持ちで関わることは許されないのだ。この作品は、あらゆる芸術作品の中で、最も「天国に近い曲」なのかも知れない。

 ある夜、息苦しくて目が覚めた。僕の周りを闇が支配していた。気がつくと胸のあたりがザワザワしていて、どんどんマイナス指向が生まれてくる。
「お前は、先日の演奏会で天使が舞い降りたなどと大言壮語を吐いているが、そんなものは単なる幻想だ。あれはただアマチュアが集まって熱に浮かされて自己満足していただけだ。お前はただの凡庸な指揮者だし、これからもう歳をとっていくばかりだ。そのうち病気にもなるかも知れない・・・・」
 そのマイナス指向に耽溺していく自分がいる。いや、耽溺していきたい自分がいる。ハッと気がついてベッドから起き上がった。階下に水を飲みに行く。一度しっかり目を覚ました。いけない、いけない。魔が来ている。これは悪魔の誘いだ!
 真夜中にこうしたマイナス指向があなたを襲ったら、その中に身を置いてはいけない。それを断ち切るまで、あなたはベッドに横になってはいけない。深呼吸をして、気持ちをプラス指向に切り替えなくてはいけない。天使がいるように魔というものもこの世に存在するのだ。特に、闇の世界の彼らにとって困る状態を引き起す者に対しては、魔は容赦ない攻撃をかける。僕はそれを知っている。
 「パルジファル」と比べるのも恥ずかしいが、「おにころ」のような光の作品を上演する時には、必ず魔の邪魔が入る。もう何度も上演しているけれど、その都度形を変え執拗に魔はその上演を邪魔しようとするのである。だから「おにころ」でも「パルジファル」でも上演前には魔にすきを与えないよう「禊ぎ(みそぎ)」の状態を作り、身の回りに光のバリアを張っていた。

 ところが、今回のように上演後に魔が僕を襲ったのにはわけがある。僕はきっと、あそこまでの成功を期待していなかったのだと思う。アマチュアのオケがあそこまでワーグナーの神髄ともいえる素晴らしい演奏を繰り広げることも、ソリスト達があそこまでそれぞれの役を深いところで理解し演じてくれることも、そして聴衆がこの長大な作品をあそこまで集中して聴き入ってくれることも。
 だから、きっと僕は、演奏会終了後に、いつになく有頂天になってしまったのだろう。これぞまさに「パルジファル」の奇蹟そのものなんだろうけれど、それだけに、その高揚感が去ったあとのむなしさも格別で、それが虚無感に変わったのを見届けて魔が入ったのだ。これは初めての経験であった。
 魔は、面白いもので、我々が無意識に操作され攪乱されている内は力を発揮しているが、一度でも、
「さては魔のしわざだな。お前の正体見破ったり!」
と気がつくと、
「ムムム、バレたか・・・」
とすごすごと退散してしまう。だから、オーバーに見破った宣言をすることを勧める。

 これまで書いたすべての記述を「馬鹿馬鹿しい」と笑い飛ばす読者がいても構わないと思う。ただ、これだけは分かって欲しいけれど、「おにころ」のような作品を何もないところから創り出したり、「パルジファル」のような内容の作品を指揮する者は、そういうことを一度もしたことがない人には見えないものが見えるということだ。
 生意気な言い方するけれど、
「魔なんていないさ!」
と断言するのは、「パルジファル」全曲を指揮してからにしてください。

 で、僕のことだが、魔を見破ってからも演奏会終了後の弛緩状態は残るも、虚無感に関しては、あたりの霧が急に晴れたように一切消えてしまい、再びポジティヴ指向と光が僕を包み込んでいる。
 僕のような指導者は、常に元気でポジティヴでいないといけないのだ。でもそうしていられるのは、僕が強いからでも優秀だからでもない。ただ、心の針を上(天上界)に向けようと努力しているからである。この言葉を信じられる人は信じて下さい。

我々の心はその波長に同調するもの全てを引き寄せるのだ。良きものも悪しきものも。

カンブルランのストラヴィンスキー
 8月31日土曜日はダブル・マエストロ稽古であった。13時からマエストロ尾髙忠明によるウォルトン作曲「ベルシャザールの饗宴」の練習、17時からは、マエストロ・カンブルランによるストラヴィンスキー作曲「詩篇交響曲」の練習。この二人のマエストロの稽古に間に合わせるために、「パルジファル」本番前と本番後のウィークデイが全て使われていたので、ただでさえ暑い夏がもっと暑くなっていたわけだ。

 「ベルシャザール」の本番は10月1日で、まだかなり間があるが、「詩篇交響曲」は、9月3日火曜日サントリーホールにおける読売日本交響楽団定期演奏会である。だから、マエストロ稽古に続いて9月1日、2日とオケ合わせ。
 僕は詩篇交響曲が大好きだ。「火の鳥」や「春の祭典」からも匂ってくるが、特に詩篇交響曲のあちらこちらから異教の匂いがぷんぷんする。気がついてみると僕は合唱団にこんな指示を出している。
「モスラを呼び出す呪文のように!ここはピアノだから静かに歌うけれど、もの凄いEnthusiasmus(熱狂性)をもって!」
みんな、何のこっちゃと思うだろうが、さすが、こうした不可解な僕の発言に慣れている新国立劇場合唱団はエラい!彼らがどこまで「モスラを呼び出す呪文」を理解できたかは置いといて、少なくともEnthusiasmusはきちんと表現されてきたよ。

 そこへもってきて、鬼才シルヴァン・カンブルラン氏とのコラボレーションがまた絶妙。彼の音程へのこだわりと、オーケストラのバランス感覚が凄いのだ。この作品のオーケストレーションは変わっている。4本のフルートとピッコロ1本。4本のオーボエとイングリッシュ・ホルン1本。そして、なんとクラリネットがない!3本のファゴットとコントラ・ファゴット1本。ホルン4本。C管トランペット4本とD管ピッコロ・トランペットが1本。トロンボーン3本とチューバ。それから弦楽器だが、なんとヴァイオリンとヴィオラがない!だからチェロとコントラバスだけ。読響では10人のチェロと8人のコントラバスを使用していた。それと2台のピアノとハープ。そしてティンパニーと大太鼓。
 驚いたのは第3楽章後半20番という個所からのテンポだ。確かにストラヴィンスキーの表示するテンポは2分音符イコール48と遅い。さらに22番からはMolto meno mossoで4分音符イコール72とは不可能なテンポのように感じられる。だから通常はもっと速いテンポで演奏してしまうのが常だが、カンブルラン氏はストラヴィンスキーの指示に忠実に・・・というか、むしろもっと遅いテンポを要求する。このテンポで木管楽器などがずっと長い音を伸ばすのは、まるで潜水で25メートル泳げと言われているようなものだろう。合唱団も長い音をキープするのに必死の思いをしている。

 ところが・・・・ところがである。このテンポで演奏すると、僕が構築した「モスラ」とはまた違った意味で呪術的なサウンドとなることを発見した。特に、おしまい近く26番のOmnis spiritus laudet DOMINUMという箇所では、フルートとオーボエとトランペット達が、トーンクラスタのようなぶつかり合う音のかたまりを形成し、その上に乗って合唱団が再弱音で歌う。それらの音とその倍音達が繰り広げる音達は、精神に異常をきたすような特別な音響的空間を作り出し、僕の脳みそを引っかき回した。うわあ、なんだこのサウンドは?
 僕はハッと思った。この倍音効果による異次元体験をもし知っていたとすると、カンブルラン氏は天才だ!いや、それ以前にストラヴィンスキーが天才なのだ。そして・・・そうした現象を今日まで知らなかった僕は、悲しいことにただの凡才だ。トホホ。
 とにかく、それが成立するためには、読響の管楽器奏者のクオリティ、すなわち音色、音程感覚、そして呼吸法と肺活量と、新国立劇場合唱団の正確なピッチとまろやかな響きが不可欠なのである。それが達成出来ないと、あの倍音が鳴らないのである。

 このように、本当のハイレベルでなければ成し得ない演奏をカンブルラン氏は要求し、そして成功している。いやあ、いろんな意味で音楽って奥が深いですなあ。

 この原稿を皆さんが読む頃には、もう演奏会が始まってしまっているだろうか。9月3日火曜日の晩までにこの原稿をお読みになったあなた!騙されたと思ってサントリーホールに19時に行ってみて下さい。
きっとこんなオタッキーなプログラムだから満員になっていないと思うので、当日券を買うことが出来ると思うよ。この異次元体験は絶対にお約束します!

 

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