天才指揮者ドゥダメルとエル・システマ

三澤洋史 

写真 三澤洋史のプロフィール写真

ピンときました
 スカラ座合唱団のマエストロ稽古を観に行ってからというもの、何故か指揮者グスターヴォ・ドゥダメルのことが頭から離れない。あの南国の太陽のような明るい笑顔と、みんなが思わず乗せられて、気が付いたら言う事をきいてしまうような独特のオーラに圧倒されている。って、ゆーか、久々に僕の嗅覚が動いたのだ。ピンときたのだ!ひとりの天才を目の当たりにした衝撃が今日まで尾を引いているのである。

 ミラノ・スカラ座といえば世界の最高峰。その合唱団を相手にして、「ナブッコ」だの「椿姫」だの「アイーダ」全曲だのの練習をつけるといったら、30歳そこそこの若者指揮者だったら、たいてい二つのパターンに陥ってしまう。
 すなわち、妙にテンパッてぎこちなくなり、高飛車な態度で一同の反感を買うか、その反対にご機嫌取りに終始し、一同に馬鹿にされてしまうかである。ところがドゥダメルは不思議と自然体で全く「自然にそこにいる」のである。これは驚異的なことである。
 それどころか、先週も書いた通りスカラ座合唱団に向かってあっけらかんと、
「みなさんのイタリア語全然分かんないんですけど・・・」
なんて言ってのけたりしちゃうのである。イタリア人でもない彼がイタリア・オペラにおける百戦錬磨のスカラ座合唱団に対してだよ。しかもそれが全く嫌味もてらいもないので、彼等がうっかり「はいっ!」という感じで従ってしまうのである。
 練習は無駄なく、表現したいイメージは鮮明で少しのブレもない。棒は明解そのもの。文句の付けようがない。

ドゥダメルは100年に一度の天才か?
 彼のことを「100年に一度の天才」と最大限に持ち上げる人もいる。今言い切ってしまうのはどうかな。まだ分からないのだ。若い内はいい。でも、「若い割には」という言葉を取り去る年齢にさしかかると、人々の期待度のハードルはどんどん上がってくるから、指揮者の本当の価値を計るのは慎重にするべきなのだ。
でも、同時に僕は言いたい。32歳でああいう練習が出来る指揮者を、僕はこれまで誰一人として知らない。
「フルトヴェングラーやトスカニーニあるいはカラヤンを、人は20世紀最大の指揮者と言うが、ドゥダメルは、もしかしたら『21世紀最大の指揮者』のひとりに数えられるかも知れない。それだけの何かを彼は持っている」
とだけ僕はコメントしておこう。
 この「今日この頃」を30年後に誰かが読んで、
「三澤さんには先見の明があった」
と言われるようになったらさらに嬉しい。あっ、「100年に一度の天才」って言うのとほとんど一緒か・・・。
 誰かに似ているなとずっと思っていたが、映画「アマデウス」に出てくるモーツァルトだ。もしかしたらモーツァルトの生まれ変わりかも知れない(冗談です。でも本当に顔だけではなく表情も良く似ている)。

音楽の原点シモン・ボリバル・ユース・オーケストラ
 こいつは一体なにもの?ということでいろいろ調べてみた。すると、すでに御存知の方も多いだろうが、ドゥダメルの背後にはベネズエラの驚異的な教育システムであるエル・システマの存在があることが分かり、そこから派生した驚異的オーケストラであるシモン・ボリバル・ユース・オーケストラに行き当たった。

 まずは、この映像を観てもらいたい。


2008年の、シモン・ボリバル・ユース・オーケストラ日本公演による、ノリノリのアンコール映像である。150名近い若者達が、楽器を回したり、立ち上がったり、踊ったりしながら演奏する。まるで「のだめオーケストラ」のようである。しかもそのレベルたるや、とうてい20代の若者で構成されているとは思えない。テクニックも音楽性も申し分ない。なんだか観ていて涙が出てくるほどである。これこそが音楽の原点だ!
 これはアンコール・ピースであるが、勿論彼等の価値はこれだけではない。メイン・プログラムであるチャイコフスキー交響曲第5番なども、ユース・オーケストラからは考えられないほどの水準の高さと成熟したオトナの音楽を聴かせてくれる。それを率いるドゥダメルも、全くスキのない統率力を見せる。まさに驚異の演奏がここにある。

エル・システマ
 ドゥダメルの生まれ育ったベネズエラは、石油などの産業で表向き豊かだが、貧富の格差が激しく、犯罪率のとても高い国だ。特に少年の犯罪率が極端に高いので、政府はある独特の政策を取る。それがエル・システマである。
 その成立過程を書き出すと長くなるので細かい説明は省くが、要するに音楽を習いたい子どもたちに「無償でレッスンをつけさせ」、さらに「ヴァイオリンなどの楽器を無償で貸し与える」。そしてオーケストラを組織してその合奏に参加させるというものである。
 そこから選りすぐられた若者達で組織されているのが、シモン・ボリバル・ユース・オーケストラだが、よく勘違いされたり誤解して伝えられているのは、このオケのメンバーがみんな貧困家庭で育ったり犯罪者だったというような話だ。
 これは事実ではない。たしかにエル・システマは、少年院などのところでも行われていて大きな成果をもたらしているし、明日の食事にも困る家庭に育っている子どもたちが、放課後にぶらぶらと暇にまかせて窃盗や万引きなどを行う代わりに、
「暇だから音楽でも習うか」
というノリでヴァイオリンなどのレッスンを受けられる有り難いシステムである。でもシモン・ボリバル・ユース・オーケストラのメンバーに選抜されるほどの人材ともなれば、全員が貧困とは限らない。いや、実際には中流家庭以上がほとんどだろう。

 ドゥダメルに対する誤解はもっとひどい。これにはマスコミの意図的な力が働いているように僕には感じられる。ここに紹介している本のように「貧困社会から生まれた“奇跡の指揮者”」(ヤマハミュージックメディア)などというタイトルがつくと、あたかもドゥダメル自身が悲惨な生い立ちからエル・システマのお陰で指揮者にまで登り詰めたように感じられてしまうが、彼は、トロンボーン奏者の父親と声楽家の母親との間に生まれ、きわめて恵まれた音楽環境の中で育っているのだ。ただ5歳からエル・システマで教育を受け、18歳でシモン・ボリバル・ユース・オーケストラの音楽監督を任されるような環境は、エル・システマならではのものだ。


日本でエル・システマは可能か?
 日本では、ほとんどの国民が中流家庭以上だから、国が補助をしてレッスンをただで受けさせ、楽器をただで貸し与える必要がない。それどころかとても高価な楽器さえ親が子供に買い与えることが出来、高価なレッスン料を払って有名な先生にレッスンを受けさせることさえ出来る。ではエル・システマのような優秀な人材が大量に出てきているかというと決してそうではない。何故か?
 だってそうだろう。高価な楽器も安くないレッスン代も「親がそう望めば」の話である。親は、自分の興味のないものにはビタ一文払わない。何気なく子供にヴァイオリンを買ってやって何気なくレッスンに行かせる親なんてどこにもいない。
 それに子供のまわりにあるのは音楽だけではない。日本の子供は忙しいのだ。パソコンだのゲームだの塾だのサッカー・クラブだのスイミング・クラブだの、音楽の他にも数え切れないほどの興味深いものに囲まれている。クラシック音楽なんか子供にやらせる親はほんの一部の変わり者だ。
 もしかしたら、ボールの代わりにヴァイオリンを持たせたら、天才的に演奏する可能性を秘めた子供が日本にも五万と埋もれているかも知れない。今英語塾に通わされている子供の中に第二のドゥダメルになれる人材が隠れているかも知れない。

 じゃあ日本もエル・システマを取り入れようよと思うが、多分不可能であろう。きっと不当に高いレッスン代を取っている音楽教師達が真っ先に反対するだろうし、不当に高い楽器を売りつけて営利をむさぼっている商人達が徒党を組んで大反対するだろう。我が国では経済原理こそが宗教となっているから、国もそうした人達の言う事を聞くに違いない。
 では何故ベネズエラでは可能だったかというと、民族的事情、経済事情のわずかな隙間から思いがけなく生まれたのだ。これこそ現代の奇蹟である!分かりやすく言うと、ベネズエラには何もなかったから出来たのであり、日本には何でもあるから出来ないのである。世の中には、豊かさによって失うものも少なくないのである。

「あまちゃん」が終わっちゃった!
 惰性で観ているNHK朝の連続テレビ小説であるが、今回の「あまちゃん」は近年稀にみる大フィーバー番組になった。番組が始まってまだそんなに経たないのに、バリトンの黒田博さんが「夜叉ヶ池」の稽古場で「じぇじぇじぇ!」を連発していたのに驚いたが、それからいろんなところで「じぇじぇじぇ!」を聞いた。って、ゆーか、僕も合唱の練習で何度も言ってその都度ウケていた。
 思い返して見ると、僕は番組の初回で能年玲奈(のうねん れな)の演技を観て、
「この子、美人じゃないけど、なんだか可愛いなあ」
と妻に言ったのを思い出す。
 今、我が家では、早朝散歩の後、朝食を食べながらBSで7時半からの朝ドラを観るのが習慣となっているが、最近一度だけ散歩から帰るのが遅くなって地上波で8時から観た。朝食をぐずぐず食べていたらそのまま次の番組の「朝いち」に流れ込んだ。そしたら、たまたま能年玲奈が出演したので、仕事場に上がる足を止めて番組を観続けた。
 もっとズケズケとしゃべる普通の現代っ子かと思っていたら、いやあ、びっくり!この子、実に変わっているのだ。シャイで口べたでボーッとしていて有働由美子さんの質問などにもすぐに答えない。あれ?思考が止まっているのかな?おーい、大丈夫かこの子?もしもーし!どうやらめちゃめちゃ緊張しているらしい。ハイになっていて脳がパンク状態。つまりパソコンのフリーズ状態になっているようだ。
 と思うと、「例の白目ムキやって」なんて頼まれたらすぐにやる。シャイだけどギャグのセンス抜群。つまり、よくあるようなナルシストの女優などからはほど遠い。でありながら、全身からこぼれるような魅力を醸し出している。いやあ、不思議な娘だなあ。これが、この番組のヒットの原因の中心であるのは間違いない。

 でもそれだけじゃない。まず、往年のアイドル小泉今日子と薬師丸ひろ子の二人が、「アイドル時代」そのものを自嘲的に演じているのが何ともいえない。特に小泉今日子のヤサグレぶりは、かつてそんなソブリを一瞬でも見せたら大変な事になっていたであろう“隠蔽ブリッ子時代”にアッカンベーをしているようで痛快だ。
 小泉今日子の演じる天野春子は、アイドル歌手鈴鹿ひろみ(薬師丸ひろ子)が極端な音痴だったため、影武者として「潮騒のメモリー」を録音し、それが大ヒットする。こうした話はいかにもありそうだ。
 かつて一世を風靡したミュージカル映画「シェルブールの雨傘」で、カトリーヌ・ドヌーヴの影武者として映画の中で歌っているのが、「ふたりの天使」などでヒットしたダニエル・リカーリであるのは有名な話だ。これは今や特にシークレットではなくて、CDのジャケットなどにも堂々と書いているが、観ている者には潜在的に「カトリーヌ・ドヌーヴが歌っているということにして欲しい」という気持ちが働くので、案外バレないのかも知れない。
 たとえばAKB48のステージで、すでに歌が録音されている伴奏をバックに口パクで歌っていたって誰が分かろう。でなければ、踊りながらあのように整然と歌えるはずがない。もっと極端な例を出せば、初音ミクのように実在しないアンドロイドのライブ・コンサートに観客が興奮しているのだから世の中ワケ分からん。こうした怪しいまがいものの飛び交う魑魅魍魎な芸能界の姿を、テレビ番組自らが描いているのがいいなあ。
 登場人物はみんなキャラが立ってて無駄がない。特に僕が気に入っていたのは太巻きこと荒巻太一を演じる古田新太の演技。「朝いち」でプレイバックをやっていたが、映画「潮騒のメモリー」を太巻きが監督となって撮るシーンで、あきちゃんの走り方を指導するシーンは古田新太さんのアドリブだったそうである。足をブルブル震わせながら、
「ほら、生まれたての子鹿のように・・・」
という格好が爆笑もので、プレイバックを観ると、なんと床に伏している薬師丸ひろ子が吹き出してしまってるじゃないの。にもかかわらずこのカット採用だったのである。
 こんな風に、この番組の撮影は、なかなか「カット!」の声がかからないので、その間に役者達が勝手にアドリブ演技をやり出し、それを採用することが多かったと聞く。いやあ、楽しそうだなあ。いいもの楽しいものが生まれつつある現場のなんともいえないポジティヴな雰囲気は、テレビの画面を通してもビンビン伝わってきていたものね。

 僕にははっきり分かることがひとつある。この番組の成功は、脚本を書いた宮藤官九郎氏に起因する。間違いない!宮藤氏以外の誰が、北三陸で働く和気藹々とした海女さん達と琥珀堀りの勉さんと元アイドルとアイドルになりそこないとGMTや太巻きのような変なプロデューサーとを結びつけることが出来ようか?宮藤氏以外の誰が、こんな荒唐無稽なストーリーでありながら、妙に惹きつけられてしまうようなお話を書けるだろうか?
 やはり決め手は本なのだ。本から全てが始まるのだ。本から基本コンセプトが決まり、それに合ったキャスティングが決まり、場割りが決まり、各カットが決まっていく。オペラでもそうだよな。有名なオペラはやはり本が良い。といっても、小説のような意味で物語に完成度がある方がいいかというと、そんなことは全くなくて、各場面に矛盾や突っ込み処があってもいいのだ。いや、むしろ、どう展開するのか分からないくらいの本が理想的なのだ。結局「面白いものが生まれそうな可能性を秘めた本」こそが傑作を生み出すのだ。

ともあれ、「あまちゃん」終わってしまって淋しいな。



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