アカデミカ・コールの演奏会

三澤洋史 

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アカデミカ・コールの演奏会
 10月5日土曜日。ケルビーニ作曲「レクィエム」ニ短調のオケ合わせ。2時半から5時までオケ練習で、6時から東大アカデミカ・コールとの合わせ。東京ニューシティ管弦楽団とは久し振りだ。前にこの曲をやった時もニューシティ管弦楽団だった。でも、あれから随分経っているし、メンバー構成も変わっているので、大半のメンバーにとっては初めてだろう。でも音楽に対する真摯な想いは変わらないのが嬉しかった。

 練習を進めるごとにどんどん音が変わってくる。ルイージ・ケルビーニLuigi Cherubini: 1760-1842はフィレンツェに生まれてパリで活躍したイタリア人の作曲家だが、僕はむしろドイツ的な音をこのケルビーニに求めるので、弦楽器を主体として低音を重厚にしたサウンド作りをする。
 男声合唱とのバランスにも留意し、随所で管楽器の伸ばす音のダイナミックを変更するが、今日はまだあまりこだわらない。とにかくまず譜面を読んで、しっかりと音を出してもらってから、次の練習で突き詰めればいい。

 こうした事は、若い内には分からなかったが、年齢を重ね、指揮者としての経験を積む内にだんだん分かってくるのだ。「どの時点で、どういう注意をするのが最も効果的か?」ということや、「どういう時間配分で練習をするか?」、あるいは「どのくらいこだわり、どのくらいこだわらないのがいいか?」ということだ。
 「こだわらない」というと何かいい加減みたいだが、初日のオケ練習で直しておかないと後に響く事と、逆に、初日でしつこくやっても効果が得られない事との区別は、指揮者ならば習得しておくべきだ。

 たとえば、奏者が臨時記号の読み間違いをした時に、わざわざオケを止めて、鬼の首を取ったように指摘する人がいるけれど、それでは奏者を傷つけてしまう。そんな時は奏者をチラ見するだけでいい。奏者も、
「あっ、いっけねえ!」
と思っているからそれで充分。それどころか、
「あ、ちゃんと聴いてるな」
ということで信頼関係も成り立つ。本人同士で分かり合っていればいいのだ。それを、
「私分かってますよ!」
とデモンストレーションするのは野暮というもの。でも、次の時も同じ間違いをした時には、譜面が間違えている恐れがある。そんな時には止めて確認しなければいけない。
 ただ若い時にはそこまで冷静かつ自然体になれない。馬鹿にされたくないと思うし、少しでも良い所を見せたいという焦りがある。一方で楽員は、初日の練習の最初の10分くらいで指揮者の力量なんてみんな読んでしまうから、どうあがいたって仕方ない。僕の場合は、歳を取ってただ図々しくなっただけという話もあるが、初日にしてはオーケストラにかなり自分の想いは伝えられたと思う。

 さて、合唱とのオケ合わせの場合、気をつけなければいけないことがある。それは・・・・オケ合わせになると必ず豹変してしまう合唱団員がいるのだ。これまでピアノ伴奏で練習していたのと違って、オケの巨大な音に圧倒されてしまい、不安になって、普段よりも声を張り上げてしまうのだ。
 先ほども書いたけれど、オケのダイナミックスもまだ整理されているとはいえない。何ヶ月も前から練習している合唱団に比べて、オケはその日が初めてなのだ。pの個所でも、まず音を出してきちんと弾いてもらってから、次の練習で整理すればいいやと思っていると、合唱団員の側からすると、これでは聞こえないんじゃないかと不安になって大きく歌ってしまい、みんなでmfくらいになってしまう。
 こうした様々な事に留意しながらオケ合わせをしていくのは楽ではない。自分の理想が高ければ高いほど、一日目の練習ではそこに到達出来ないもどかしさが残る。でも、忍耐も指揮者に求められる重要な要素だ。大切な事は、本番に自分の理想に到達するためにはどのステップを踏んでいけばいいかを知っておく事。こうしたことは、それぞれの指揮者が自分で探していくしかないのだ。

 一日目のオケ合わせを終わって、結構素敵なケルビーニに仕上がりそうな予感がして、帰途につく足取りが軽かった。僕はこの曲を愛する。派手ではないけれど、ケルビーニの信仰心がふつふつと感じられるのだ。13日の日曜日にもう一度オケ合わせをして、本番の14日を迎える。

多田武彦の「富士山」
 ケルビーニのレクィエムの前に、多田武彦作曲男声合唱組曲「富士山」を演奏する。アカデミカ・コールでこの曲を指揮するのも、今回で二度目。以前やった時も、事前に妻の車で富士山を見に行ったが、今回もジェラールやガブリエッラと一緒に行った。やはり、その体験があるのとないのとでは全然違う。

存在を超えた無限なもの
存在に還へる無限なもの

その下に
ズーンと黙(もだ)す
黄銅色(くわうどうしょく)の大存在
 こうした言葉が心にビンビン響いてくるのだ。以前にも書いたけれど、富士山は、遠くで見ていると均整の取れた美しい山だけれど、近くに行けば行くほど、まるでちっぽけな人間をあざわらうかのような恐ろしい存在となっていく。あれだけの高さの山に、地上からマグマが一気に押し上げたのだから無理もないが、そうした思考よりも、地球の胎動を肌で感じるような本能的な恐怖が僕達を包み込む。

「多田武彦は好きなのだけれど『富士山』はどうも苦手で・・・」
という人は少なくない。でも僕は言いたい。この曲を「雨」や「柳河」のようにエモーショナルに捉えようとするから理解が難しいのだ。作曲家は、あえて情緒的な要素を排除して“絵画的”に作っているのだから。
  さくらんぼ色はだんだん沈み
 この部分は、まるでその前後から切り取られたように無関係に作られている。この歌詞が第1テノール、第2テノール、バリトン、バスへと受け継がれていく間に、調性は、フラット5つの変ニ長調からシャープ3つのイ長調を通り、嬰ヘ長調のドミナントに落ち着くが、微妙な和声の色彩感の移り変わりが、そのまま夕刻時の空の色の移り変わりを表現している。見事な作曲である。
平野すれすれ
雨雲屏風(びょうぶ)おもたくとざし
その絶端(ぜったん)に
いきなりガッと
夕映えの
富士
 この終曲の「いきなりガッと」から「夕映えの富士」に至る個所は天才的だ。これを絵画的と言わずして何と言おう!本当は「ガッと」の瞬間にもう「うわっ!」という感じで、いきなり夕陽に映えた山の圧倒的な姿が見えているはずだが、音楽では同時というわけにはいかない。でも、だからこそ「ガッ」と「と」との間の休符と「ゆうばえの」との間の休符にはもの凄い緊張感が漂い、これが瞬間的であることを聴衆に感じさせなければならない。

 多田武彦氏は、以前お会いした時に、
「夕映えの富士の音楽は、『展覧会の絵』からのパクリなんですよ」
と言っておられた。そういえば、あの「サムエル・ゴールデンベルクとシュムイレ」のミュートをつけたトランペットは、夕映えの妙にギラギラした情景に共通するものがある。つまり「ゆうばえの」の3連音符は決して叙情的に歌ってはならないのだ。

その後、次の歌詞の部分が来る。
降りそそぐそそぐ
翠藍(すいらん)ガラスの
大驟雨(だいしゅうう)
翠藍の翠は「みどり」の意味、藍は「あい色」で、つまり濃い青緑色のこと。話題がややそれるが、この言葉は、僕の母校の高崎高校の出身者だったら誰でも知っている。何故なら高崎高校応援歌の題名が翠藍であり、1番の歌詞は以下の通りなのだ。
翠藍影を浮かべては
流水長き思いあり
紫紺の霞打ちわたる
榛名の嶺の姿にて
碓氷の玉に身を照らす
「富士山」の詩を書いたのは草野心平である。高崎高校校歌の作詞をしたのも草野心平である。残念ながらこの応援歌を作ったのが草野心平だか確証はないが、高崎高校はこの翠藍という言葉を学校のシンボルとして使っている。たとえば学園祭は翠藍祭(すいらんさい)と呼ばれる。だから高崎高校の生徒は、もう嫌と言うほど翠藍という言葉を聞いて高校生活を送る。その度に、
「すいらんって濃い青緑だよね」
と確認し合うのだ。
 そういえば校歌の中にはこの言葉は出て来ないが、
セルリアンブルーの川は流れる
という言葉が出てくる。このように青や緑にこだわっているのも草野心平氏の特徴なのだ。

 話を「富士山」に戻すと、この「降りそそぐそそぐ」からのくだりは、妙に音楽が単純になってしまって、さらに前の「平野すれすれ」から「いきなりガッと」などの詩が再び登場してもお構いなしに、同じ長調のお気楽な音楽で進んでいく。これは一体どういうことなのか?毎回やる度に考えていたが、ある時ハッと気が付いた。
「そうか、これはもうお祭りなんだ!」
ということである。あの息を呑むような夕映えの富士の光景を見てしまった後は、もうお祭り気分になるしかないだろう。そして、先ほどの雨雲屏風が重たくあたりを閉ざしていた事もすでに回想となって、話の種になっているのだ。あははははは、なんだそうか!単純なことじゃないか!
そして曲はそのままAdagioになって終わる。

うーん、僕は多田武彦が大好き!何度やってもいい!僕の合唱人生の原点なのだ!

 アカデミカ・コールの演奏会は、10月14日体育の日の14時から東京オペラ・シティのコンサートホールで行われます。ケルビーニのレクィエムでは、清らかなカトリシズムを、タケミツメモリアルの柔らかい響きの中に感じさせてみせましょう。その前に「富士山」と、それから有村祐輔氏による指揮のトマス・タリス作曲「エレミア哀歌」が演奏されます。きっと良い演奏会になると確信しています。



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