アカデミカ・コール演奏会無事終了
演奏がうまくいっている時というのは、まわりの人達を自分の音楽に従わせているというのではなく、自分もオケや合唱と一緒になって音楽の流れに身を任せているという感覚が支配する。指揮をしているのは自分なので、きっかけは自分で出しているのだが、あとはみんなが自主的に動いていて、自分の想いと彼等の想いとが共鳴し共振し、ひとつの方向に向かって進んでいくのだ。
僕の中にはもはや、自我というものがあるのかないのか分からない。「もうすぐクラリネットにアインザッツを出そう」とか、「バスを3小節目の2拍目で切ろう」とか、具体的なことはいろいろ思っているのだが、それでいて「なんにも考えていない」のだ。言ってることが矛盾するようだが、分かる?この感覚?
ええとねえ・・・僕というものが消滅しているような感じなんだよ。ここで鳴っている美しい音楽のみが現実で真実で実在感を持っているので、僕個人なんてもうどうでもいいやって感じ・・・あはははは、やっぱ、分かんないよね!
ケルビーニのレクィエムにはカトリシズムが脈々と流れている。カトリシズムとは一体何か?それは僕的な勝手な解釈によれば、禅にも通じる無我の境地だ。祈りの境地とも言えようが、その場合の祈りとは、具体的な「神様、こうしてください!ああしてください!」ではなく、何も考えずにただ神に向かう無心の祈りを指す。それが、オケが沈黙したアカペラ合唱の中などに特に感じられる。
やっぱり僕は宗教作品をやっている時が一番しあわせだ。何故なら、音楽で表現し得るあらゆる感情の中で、宗教的感情を表現している時が一番自然だからだ。それに、宗教的感情を表現する行為そのものが自分を高めてくれる。自分が前よりももっと良い人間になれる気がするのだ。
先週も書いたけれど、真摯な気持ちで音楽に真っ直ぐ向かってくれた東京ニューシティ管弦楽団に最大の賛辞を送りたい。みなさん、ありがとう!
一方、多田武彦作曲、組曲「富士山」を振り終わっても、とうてい表現し切れたという気持ちにはならない。いや、アカデミカ・コールは本当に良く演奏してくれた。それどころか、ケルビーニもそうだけれど、この演奏会はこれまでで最良の出来であると断言するよ。でも、そういうことではない。僕が向かっている先は、草野心平の詩でも多田武彦の曲でもない。富士山そのものだ。
あの遠くから眺めた崇高なる姿や、近くで感じる黄銅色の大存在を「描き切る」などということがそう簡単に出来るものか。いや、永遠に出来ないだろう。でも、それでも、富士山に触れた者は、その気持ちを表現しないでは済まないだろう。だから僕は思った。この先、何度も何度も「富士山」を指揮したい。そして、その都度、僕の中には新しい富士山との出遭いが待ち構え、新しい表現が胸に芽生えるだろう。
同じ演奏会で指揮をされた有村祐輔氏が打ち上げの時の挨拶で、
「わたしも今度『富士山』を指揮するのですが、今日の三澤さんの曲の解釈はとても独創的で新鮮だったので、ちょっといただいてしまいますが、よろしいですか?」
と言って下さったのが嬉しかった。どうぞどうぞ好きなだけパクって下さい!
有村氏はまさに演奏会の10月14日が81歳のお誕生日だったというので、みんなでハッピバースデイを歌った。僕よりなんと二十ん?歳も上なのに実にかくしゃくとしておられお元気である。そうか、81歳になっても「富士山」を演奏するのか・・・・。
では、僕の81歳の「富士山」は一体どんな演奏になるのだろう?
僕の肉体今日この頃
「パルジファル」を振るために今年の夏は足繁くプールに通った。そのせいで上半身に筋肉がどんどんついてきたが、一緒に体重も増えてきた。プールに行くとお腹がすいて、特に肉が食べたくなる。喉が渇いてビールも飲みたくなる。水泳をしたということで気が大きくなって食事制限をする必要なしと思えてくるのがいけない。
痩せるなら自転車の方が確実に痩せられる。家から新国立劇場を1往復すると300グラム痩せる。たかが300グラムと思うなかれ。自転車の場合、水泳と違って特別お腹がすくこともないしその後のリバウンドがないから、2日で600グラム、3日で900グラムと単純計算で痩せられるのである。
ただ雨の日や雨が降りそうな日は乗れないし、新国立劇場から別の仕事場にハシゴするような日には乗れない。それに早く家を出ないといけないので、家での仕事や勉強が切羽詰まっている時には乗れない。夜の9時ジャストまで練習がかかりそうな時には、家に着くのが遅くなりそうなので、乗りたくない。なんだかんだで乗る日がかなり限られる。
自分が一番気に入っているのは、新国立劇場の仕事が午後だけの時など、自転車で行って、帰りに幡ヶ谷にある渋谷区スポーツセンターに行ってひと泳ぎして、また自転車で帰ってくるフルコース。泳いだ後は何故かペダルを漕ぐ足が軽くなって爽快そのもの!いろいろ裏道を通って神田川沿いの散歩道を進み、久我山近辺から東八道路に出て帰ってくる。そんな晩はビールが格別にうまい!食事も進む。あれれっ?で、体重はやっぱり減らない。
そんなわけで、「パルジファル」に合わせて体のチューンアップを行っていたけれど、「パルジファル」以降は、何をやっても物足りないくらい疲労感がない。そりゃあ、「パルジファル」に比べたら普通の演奏会は短くて楽々ですよね。でもその分音楽そのものに集中出来る。
あのさあ、汗ダラダラになってヘトヘトになりながら演奏し切って放心状態になりながら「オオーッ、俺はやり切ったぜ!」というのもいいけど、そうした達成感というものは今の僕には自己満足としか思えないね。お客にとってはそんなことどうでもいいんだよ。 むしろ肉体的制限から解放されてはじめて、音楽家は自ら語るべきものを語り、描くべきものを描き切れるのではないかな。ここが音楽家とアスリートとの違いだと思う。まあ、アスリートでも、速さやタイムを競う競技よりも、体操やフィギュアスケートのように演技を競うものは、音楽家に近いと思うけどね。フィギュアスケートのターンなどは、力を出し切れば出来るというものではないからね。
クロールの腕の動きは指揮者の振り方に直接影響を与える。腕を肩から回すから、意識しなくても肩からの動きがなめらかになってくる。さらに続けていると、肩甲骨(けんこうこつ)を意識するようになり、ますます動きがスムースになってくるのである。
一般に指揮法は肘の関節からしか教えない。特に“叩き”はむしろ肩の関節は止めて行うから、叩きを主体にした振り方をする人ほど肘だけで振っている。僕は断定するが、“叩き”ほど非音楽的な振り方はない。放物線運動を“叩き”で正しく学習することは、確かに指揮法の基本ではある。けれども、純粋な“叩き”は、実際にオケを振る時には、なるべく使わないに越したことはない。これはオケのアンサンブルが乱れた時のリカヴァリーのためにだけとっておくべき非常手段のテクニックだ。
通常の場合は、“叩き”とレガートの振り方とのブレンドの割合を曲想に応じて変えながら、フレージングやカンタービレを表現していく。その際に肩関節を使うことは不可欠なのだ。それなのに誰も教えようとしないし、奨励する人もいない。極端な話、
「オケが合いさえすれば、指揮法は目的達成」
と思っている人が大半ではないか。そうではない、実際に音楽を行うための様々な表現をテクニックと結びつけなければならない。僕は、指揮法の中にもっと正しい“肉体の運動原理”を導入するべきだと思っている。つまりスポーツ力学だ。
僕は指揮者の人全員が水泳をするべしと押しつけるつもりはないが、少なくとも指揮者のみなさんに奨励はします。正しいクロールの腕を学習し、それにふさわしい筋肉をつけてみて下さい。あなたの指揮の仕方は確実に変わります。キーワードは肩甲骨です。
ドゥダメルにちょっと失望
さて、10月13日の日曜日。東京ニューシティ管弦楽団でケルビーニ作曲「レクィエム」のオケ合わせをした後も、体力が余っているので1時間ほど泳いで家に帰って来た。その晩は9時からNHKでグスターヴォ・ドゥダメル指揮スカラ座管弦楽団の放映がある。ヴェルディのオペラから序曲やアリアや重唱を演奏するのだ。先日この欄でも、21世紀最大の指揮者の可能性が・・・なんて書いたばかりなので、とても期待して観た。
その結果は・・・うーん・・・よかったよ・・・よかったけど・・・やはりスカラ座に呑まれているね。指揮のテクニックは完璧だし、迷いもない。アリアや重唱におけるソリストとの連携や反応も、若いのにソツがない。つまり一流の指揮者であるという僕の評価は変わらない。
ただ・・・先日も書いたけれど・・・「若いのに」という言葉がはずせない。うーん・・・それを言うならむしろ「若いのだったら・・・」と言うべきか。つまり・・・これってドゥダメルの音楽じゃないんじゃない?つまりどの曲も、いわゆる普通のナブッコ序曲であり、運命の力序曲じゃない?もしかしたらスカラ座管弦楽団の音楽じゃない?
はっきり言おう。ここには何の独創性も感じられない。いや、なにも変わった音楽や突飛な解釈をしろと言っているのではない。でも、ドゥダメルが他の誰でもなくドゥダメルであることの証は、残念ながらどの場所においても感じられなかった。しかも、あのシモン・ボリバル・ユース・オーケストラの熱気は望むべくもない。ここにあったのはただのルーティン・ワークだった。
スカラ座管弦楽団は今後もドゥダメルを逃さないだろう。きちんとオーソドックスに振ってくれて分かり易いし、陽気なドゥダメルは生意気でもないし練習も心地良いし、出来上がりもソツがないし、人気があるから客も呼べるとなれば、マイナス要素など何もないではないか。しかし・・・しかしだよ・・・そのマイナス要素のないのが最大のマイナスではないか。
彼の音楽には、熟す前の青い果実の渋みや酸っぱさがない。あまりにもまともで、あまりにも普通だ。それにヴェルディを演奏しているのに、ときめくようなカンタービレが聴かれない。アンコールのカヴァレリア・ルスティカーナの間奏曲のなんと通り一遍な凡庸な演奏だったことか!彼がこの演奏会に満足しているなら、彼には未来はない。
それでも僕はドゥダメルに期待する。スカラ座管弦楽団とも、いつかきちんと対峙する時が来ると期待する。彼のこれまでの解釈を見る限り、オーソドックス路線の指揮者であるのは知っている。それがいけないわけではない。カラヤンだって、若い頃から「変なこと」はほとんどしなかったし、晩年まである意味中庸のオーソドックス路線を貫いた。ただ彼には誰にも真似の出来なかったあの夢見るような磨き抜かれたサウンドがあった。一瞬でも聴いたら即座に、
「ああ、カラヤンの音だ!」
という強烈な個性があった。
一方、ドゥダメルが円熟した際に僕達に見せてくれる個性ってなんだろう。それがまだ僕には見えないのだ・・・と、ここまで書いているうちにふと思った。指揮者ってなんて大変な職業なのだろう。これだけハイレベルな演奏をしているのに、僕みたいな人によってこんな書き方をされてしまうんだもの。なんてシビアな世界だろう。
でも・・・考えてみると僕も指揮者なんだよね。こんなシビアな世界に身を置きながら、これまで案外のほほんと生きて来たんだよね。ここまで偉そうに言う一方で自分はどうなのよ、と言われると・・・ヤベエ・・・また顔を洗って出直して、一生懸命精進します!
リゴレットと抑圧された社会
アンドレアス・クリーゲンブルク演出の「リゴレット」を見ていると不愉快になる。典型的な男社会の中での女性蔑視が随所で見られ、ウーキュン・キムの演じるマントヴァ公爵の横暴ぶりが強調されていて憎たらしいほどだ。何人も登場する下着姿の助演女性達は、瞬間的には目を楽しませてくれるけれども、あんな風に女性が扱われていると、男でもあまりいい気持ちはしない。
自分の妻を奪われようとも、娘を陵辱されようとも逆らえない閉鎖的社会。その公爵のタイコ持ちを努めていた道化のリゴレットは、ジルダがその毒牙にかかったのを知り、とうとう主人を殺害しようともくろむ。
殺し屋から渡された袋に入った遺体を公爵だと思って喜ぶのもつかの間、当の公爵が、鼻歌を歌いながら女達を両脇にかかえてエレベーターの中に消えていく。袋の中にいたのは娘のジルダだった。彼女は、公爵のために身代わりになって死んでゆく。
「なんであんな奴のために身代わりになるのだ!」
と観ている者はみんな思う。公爵は罰せられることなく、その後ものうのうと生きていくだろう。だとするならば、ジルダの死は全く無駄な犬死ににしか過ぎない。見終わった後の後味が悪い。釈然としない。カタルシスがない。美しくない!
だが、それこそがヴェルディのねらいなのだ。美しくないもの、いやむしろ醜いものをヴェルディはあえて描こうとしたのだ。抑圧された社会や、その中でねじ曲げられていく理性や、幸福であろうとする人間の持つ根源的な欲求を妨げるもの、羨望、嫉妬、疑惑、奸計、嘲笑といったあらゆる悪意や悪徳がヴェルディのオペラにはある。
そうした人間の赤裸々な姿を表現することにヴェルディの独創性があり、それが最初に結晶したのが「リゴレット」である。彼は、不条理なものを解決させることなく不条理なままで残したかったのであり、それによって聴衆に芽生えるであろうもやもやした閉塞感をねらったのである。
その意味ではクリーゲンブルクの意図は達成されたと言えよう。男達によって弄ばれる女性達を舞台上に登場させるのは、必ずしも必要ではないかもしれない。でも公爵は始まってから数分もしない最初のアリアで、彼はこう歌う。
この女もあの女も
まわりの他の女達と一緒
(中略)
今日この女が好ましければ
明日は別の女がそうなるだろう
(中略)
亭主どもの嫉妬の怒り
愛人達の逆上を
俺は笑っちゃうね
(訳:三澤洋史)