目から鱗のパウロ講演会

三澤洋史 

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杏奈の引っ越し
 日々の生活に追われているうちに、僕たちはこの日常の状態が永遠に続いていくような錯覚に陥っている。ところがその間にいろいろが水面下で確実に変化していて、ある日突然明るみに出る。今年の三澤家は、明るみに出た連続だった。長女志保の結婚と妊娠、それに伴う引っ越しはその典型だが、次女杏奈にも大きな変化が訪れた。
 杏奈は今年の7月、長年住み慣れたパリのアパルトマンを引き払い、帰国した。しばらく我が家で一緒に住んでいたけれど、10月25日金曜日、引っ越しをしてこの家から出て行った。台風が近づいている雨の中であった。
 引っ越しまでは別段特別な感情を持たなかった僕なのだが、いざ杏奈が出て行ってみると、かつては志保と杏奈がひしめき合いながら使っていた娘達の部屋が、妙に閑散として淋しい。もう娘達はふたりともこの部屋には戻っては来ないという事実が妙に現実味を帯びてきた。

 杏奈が引っ越したいと言い出した時、最初は妻の方が反対した。
「もっときちんと食べられるようになってから、落ち着いて家を出ればいいじゃないの」
と言うのを、僕が間に入って、
「でもそれでは最初の一歩がバーンと踏み出せないんだろう。仕事というのは、回り出す時が肝心なので、このタイミングで引っ越すのもアリかも知れないよ」
と彼女を説得した。

 7月に帰国しても、なかなかメイクの仕事が軌道に乗らなかった。デパートの1階でメイクをする仕事とか、なんでもやる気になればいろいろあるのだけれど、彼女は本当にやりたいもの以外には興味がないので、そう簡単に道が開けるわけではない。でも親とすると心配だ。しかも全然知らない世界だから、相談にも乗れないし力にもなってあげられない。僕は普段あまり何かを願いするお祈りってしたことないんだけど、杏奈のためには結構本気で神様にお願いしていた。
 ところが9月の後半になってパリコレのアシスタントをするためにパリに出掛けていって、帰ってきてみたら、出ているオーラが違う。なんだか輝いている。あれえ?と思っていたら、一気にいろいろが回り出した。人生そんなもんだ。全てのことにおいてタイミングというものがあるのだ。
 雑誌の撮影のためのメイクのアシスタントをやり始めてみると、朝5時半都内集合などというのが当たり前の世界だ。確かに国立のしかも谷保村から出掛けて行くのはしんどい。一方で、都心にアパートを借りても、まだその家賃を払いながら自活するにはほど遠い。ちょうど難しいところだ。でもというか、だからこそというべきか、身動きが自由に出来るようにしてあげて、一刻も早く自分の夢が叶うように導いてあげるのが親の仕事だろう。
 志保の時もそうだったけれど、引っ越しが決まるやいなや、ガス台も必要だ、やれ冷蔵庫だ洗濯機だ、テーブルは?椅子は?などとあわただしくなる。こんな時の妻はなんだかとても楽しそうだ。杏奈の場合、パリから船便で送った荷物がやっと届いたばかりで、衣類などは、段ボールの紐解いてないものもあったのでかえって楽だった。

 25日金曜日に引っ越し屋さんが来た。妻は自分の車に小物を乗せてついて行き、そのまま一晩杏奈のところに泊まった。僕は、新国立劇場合唱団の練習が終わって家に帰ると、がらんとした家で、ひとりでパスタを茹で、ルッコラやトマト、オリーブ、モッツァレッラのサラダと一緒に食べた。
 アマゾンから取り寄せたキャンティを空けて飲みながら、なんとなくケンプの弾くベートーヴェンが聴きたくなって、久し振りに聴く。悲愴ソナタの第2楽章は、包み込むような響きで、ちょっと孤独な僕の心に優しく優しく染みこんできた。人はこんな時に音楽を欲するのだなと思った。そして、こんな時に聴きたい音楽って、やっぱりケンプのような音楽なのだとも思った。
 ベートーヴェンが雨音と混じる。夜は更けていく。ほろ酔い加減になりながら、僕もこんな音楽を紡ぎ出す人になろうとあらためて決心した。

 志保も結婚し、トミーノという新しい息子も増えた。もうすぐ孫も生まれておじいちゃんになる。人生長く生きていると楽しいことも多い。でも人生って、過ぎ去ってみるとなんて速く駆け抜けて行くのだろう。
 若い時は、家族3人を食わせなくてはと必死で働いて、わいわい4人一緒にひとつ屋根の下で過ごして、気がついたらまた新婚時代のふたりっきりの生活に戻った。これからは妻と仲良くしていかなければ。これで妻にも出て行かれたら目も当てられないからな。

目から鱗のパウロ講演会
 10月26日土曜日。お昼頃まで台風の影響で雨や風があったが、夕方になるとすっかりおさまった。心配していた佐藤研(さとう みがく)先生のパウロの講演会も、無事開催することができた。
 志木第九の会では、来年の7月にメンデルスゾーン作曲オラトリオ「聖パウロ」をやることになっていて、目下のところ練習の真っ最中。せっかくだからその主人公であるパウロというのはどんな人物なのか研究するのもよかろう、ということで、この講演会が企画された。って、ゆーか、企画したのは僕なんだけどね。

 聖書学者の佐藤先生は、「旅のパウロ」(岩波書店)という本を出していて、その内容は読んで知っていた。先生は、なんとパウロの伝道の旅の経路をほとんど全てご自分で辿ったという。立教大学の教授で多忙な日々を送っているが、秋休みなどを利用して何年もかけて、レンタカーで現代のトルコやギリシャなどを回ったのだ。本でもそうした息吹は伝わってくるが、僕はどうしても、具体的な話を本人の口から直接聞きたかったのである。


 そして・・・やっぱり本人をお呼びした甲斐はあった。僕の中でパウロという人が生きた存在となったのだ。きっかけは佐藤先生の次のような言葉だ。
「パウロの異邦人への伝道は大都市を中心に行われていました。でも、私が自分で辿ってみて感じたことがあります。それは、たとえばひとつの都市から次の都市まで150kmもあるんですよ。そこをパウロは間違いなく何日もかけて歩いて行ったわけです。その間にはのどかな牧草地が果てしなく広がっているだけで何もない。恐らく水や食べ物や野宿するための最低限の衣類、それにお金などを持ってトボトボと歩いて行ったに違いない。これが私が感じたパウロの原風景です」
これには意表を突かれた。勿論、佐藤先生が「パウロは大都市指向である」と本に書かれていても、さすがの僕だって、東京から新幹線に乗って名古屋で伝道し、次に大阪、さらに博多、という風にスイスイと伝道したとは思っていない。でも、「パウロが何日もかけてトボトボと歩いて・・・」というイメージには到らなかった。まずその点において目から鱗。

 そうすると次に出てくる疑問がある。それは、どうしてパウロはそこまでして伝道活動をしたのかということである。
「キリストの教えを、ユダヤ人のみに独占させないで、広く異邦人にのべ伝えたい」
というモチベーションはよく分かる。でも、なにもそんな遠くまで行かなくてもいいじゃないか。もっと近くの街から伝道して、それを少しずつ広げていけば事足りたではないか。何故、いきなりあんな遠くの街から始めたのか?そしてあんなにも広範囲に渡って夢中になってキリスト教を広めたのか?いったい何がパウロをそこまで駆り立てたのか?
「罪ほろぼしです」
と佐藤先生は言う。
「パリサイ派(最右翼派)であったパウロは、外国人にキリストの教えを無条件で広めていく人達が我慢ならなかったのです。だから容赦なく迫害した。でも、自分自身がキリストに出逢ってしまってからは、迫害した相手に対して『取り返しのつかないことをしてしまった。申し訳ない』という気持ちが生涯においてずっと付きまとっていたと思われます。それが彼をして最も左翼的指向の行動に走らせた。そうしないと自分で自分が許せなかったのだと思われます」
なあるほど。

 それと、(これも本に書いてあるにはあるが)あらためて目から鱗だったことに、佐藤先生は、パウロが見たイエスの幻影が、十字架に架かって苦しみ死ぬイエスの姿だったと主張している。
 イエスを生前から知っていた弟子であれば、自分の師の最期の姿から決して離れられないであろう。そこには師を見棄てて逃げたことへの強烈な良心の呵責もある。だから福音書はイエスの処刑の場面から書かれたと言われている。
 でもパウロは生前のイエスを全然知らない。彼には本来十字架で苦しむイエスへの思い入れが生まれる理由はない。そこへもってきて、彼が見た幻影が、もし天国的な安らぎに満ちたイエスであったならば、たとえば以下のような言葉をパウロが発するモチベーションは生まれようがない。
わたしは、キリストと共に十字架につけられています。生きているのはもはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。
(ガラテヤの信徒への手紙2章19-20)

目の前に、イエス・キリストが十字架につけられた姿ではっきり示されたではないか。
(ガラテヤの信徒への手紙3章1)
 佐藤先生は、十字架につけられて死んでゆくイエスのリアリティがパウロの自己を崩壊させ、それまでのパウロの生き方を一新したと解く。だから、その後のパウロの神学、すなわち(ローマの信徒への手紙などで示されているように)罪の結果は死であり、我々は罪から逃れられないけれども、罪はキリストの十字架と共に死に、我々はキリストを内に宿らせることによって生きる、という考え方が生まれたわけである。生前の生身のイエスを知らなかったパウロが、ここまで十字架にこだわるためには、確かにある種の「十字架体験」が不可欠だったであろう。

 「パウロはしたたかな人」というのが、これまでの一般的なパウロ像だった。けれども、佐藤先生の描くパウロ像はそれとは全く異なる。エルサレムで裁判にかけられた時、彼は自分のローマ市民権を行使し、ローマ皇帝に上訴した。その事で彼はローマに送られる。
 一般的には、彼がそのことでまんまとローマ行きを成し遂げ、ローマでの伝道を自由に行ったと思われている。使徒言行録の最後はこのように締めくくられているからだ。
パウロは、自費で借りた家に丸二年間住んで、訪問する者はだれかれとなく歓迎し、全く自由に何の妨げもなく、神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストについて教え続けた。
(使徒言行録第28章30-31)
ところが佐藤先生は、その事にも異を唱える。次の文章は「旅のパウロ」からの引用である。
裏を返せば、彼は自分から出て歩くことはできなかったということです。この間パウロは、「実に大胆に、妨げられることなく」宣教した、と記して使徒行伝は終わっています。しかし逆にそれは、二年以上は続かなかった、ということでもあります。二年以上はパウロにそれができなかった。つまり、おそらく二年後に―そしてそれは当時、誰にでも判っていたことだったでしょう―彼は処刑され、別の世に旅立って行ったのです。伝説によれば斬首刑だったと言われます。
(佐藤研著「旅のパウロ」220頁)
 使徒言行録を執筆したのは、ルカの福音書を書いたルカだ。佐藤先生は、
「ルカは上手に書きましたね。パウロをできるだけ肯定的に描いたわけです」
と言う。間違ったことは書いてはいない。でも、当時の人達はパウロの死に様も知っていただろうから、この文章を読んでも真実の姿は理解したに違いない。

 こうした悲劇的なパウロ像は、奇しくもメンデルゾーンの描く「聖パウロ」にそこはかとなく漂う悲劇的イメージともマッチする。オラトリオ「聖パウロ」は、第3次伝道旅行の終わりで、エルサレムに帰る直前の場面で終わるが、メンデルゾーンの描き方だと、その後のパウロの暗い運命が暗示されているのだ。
 一般に、裕福で何の悩みもなさそうな作曲家のように思われているメンデルスゾーンは、実はユダヤ人であることで幼い頃から様々な差別を受けていた。彼は、迫害という逆風に立ち向かっていくふたりの英雄エリアとパウロの中に、自分の運命を投影したのであろう。

「エルサレムに帰る時、恐らくパウロは自分のやっていることは報われないだろうなということを分かっていたのではないでしょうか。さらにローマへ送られる時、自分がその地で死ぬだろうなということも予感していたでしょう。それでも彼が行ったのは、まさに大石内蔵助のような境地でしょうね」
と佐藤先生は締めくくった。

僕は、パウロという人がこれまで以上にとても好きになった。それにしても、パウロは熱い人だなあ。



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