バッハ自由自在講演会~パロディ再考

三澤洋史 

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バッハ自由自在講演会~パロディ再考
 バッハ学者礒山雅(いそやま ただし)先生は、あのお歳になっても(失礼!)まだ進化し続けている。以前「バッハとパロディ」というタイトルでお話いただいた時よりも、バッハのパロディに対する見解がいっそう深くなっている。
 またその進化は、期せずして僕が自分の演奏会を「バッハ自由自在」と名付けるに至った一連の思考回路と一致している。ということで、今回の講演会は実に有意義なものとなった。

 バッハは、かつて自分が作曲した音楽を頻繁に使い回しする。これを「手抜き」であるとか「その場しのぎ」であるとか言って軽蔑することも出来ようが、それが使い回しかどうかを考慮に入れずに出来上がった作品のクォリティだけ吟味すると、あたかもそのために作曲されたかのような驚くべきレベルに仕上がっているのである。
 礒山氏は、今度の東京バロック・スコラーズで演奏するミサ曲ヘ長調のソプラノとアルトのアリアを取りあげ、パロディの元になった曲との歌詞の違いなどを指摘しながら、同じ素材でいかに異なった内容の楽曲が出来上がるかを説明する。
 しかしながら、その変更というのは実にミニマムなものである。にもかかわらず、全く別の曲として生まれ変わっているのだ。まるで魔法使いである。バッハの音の扱いはそれだけ“自由自在”なのである。

 バッハのパロディは晩年になるに従って多くなる。それは当たり前の話である。若い時には全て初めて作曲するものばかりだ。でも、だんだん自分の手元にストックがたまってくる。その中には、一回限りでお蔵入りになっているものも少なからずある。気に入った曲、うまく出来た音楽をどこかでまた使いたいと思うのは人情だ。CDなどない時代なのだから。そこまでは、前回の礒山先生のお話にもあった。
 でも今回新しいのはこういう話だ。バッハがパロディを使用するにあたって、前の素材を使ってすでに相当高いレベルから新たな創作に入れるのだ。それを題材にして再構築する中で、さらに磨きをかけて完成していく。
 ここまで聞いた時に、僕の頭の中に浮かんだ事がある。たとえば講演会を頼まれた時、この世界で長く活動していると、同じテーマで、あるいは似たようなテーマで頼まれることがある。その際に、最初から資料を全て探すために図書館に通う必要はない、何故なら、すでにその資料をまとめたものが自分のパソコンの中に入っていたりするのだ。すると、もうそのレベルから準備が始められる。すなわち、手抜きどころか、そのレベルに至るまでの労力を省くことが出来、さらにそこから、初回には考えられなかったはるかな高みをめざすことが出来るのである。
 現に、この講演会の次の日の2月2日日曜日、僕は新国立劇場の「蝶々夫人」公演の前に初心者を対象とした「蝶々夫人」の講演を行った。その準備は実に簡単であったと同時に、これまでにないレベルでのお話が出来たと自負している。
 というのは、みなさん!このホームページの中のオペラPlatzを覗いてみてください。「蝶々夫人」だけですでに4つの原稿をここに載せているのだ。この4つの原稿を書くために、僕にはさらに資料を調べた歴史があるのだ。それに僕は、「蝶々夫人」をすでに東フィルで18回も指揮している。
 これを「狡い」とか「軽薄だ」とか言うことは出来ないだろう。つまり「継続は力なり」というか、長い年月の蓄積というものはあなどれないのである。バッハの場合は、それにプラスして作曲技術の熟練という要素が加わっているのだ。比類なき高みに到達して不思議はない。
 また、こうしたことをお話出来る背景には、礒山先生自身も長いキャリアの間の様々な蓄積を実感しているからだと思う。とにかく、実に知的に充実したひとときで、2時間半があっという間に過ぎてしまった。

さて、これからは僕達がそれを演奏において聴衆に納得してもらう番だ。頑張らねば!

2ヶ月目の杏樹
 済みません!ジジ馬鹿通信です。1月28日で初孫の杏樹ちゃんが2ヶ月のお誕生日を迎えた。体重はなんと倍近くに増えている。わずか2ヶ月だけれど、その間にはいろいろあった。最初に志保がピアニストとしての仕事を再開した後、いきなり杏樹が夕方になると淋しげに泣き始めて、どうやっても止まなかった。それが何日も続いた。やはり仕事と両立するのは難しいのか?という、ありきたりではあるがどの母親も直面する問題に早くも突き当たった。
 しかし結果的に言うと、それが志保のピアニストとしての覚悟を確認することにつながった。杏樹が生まれてからずっと一緒にいた志保は、仕事の数時間といえども我が子から離れることに後ろ髪を引かれる思いでいた。心を鬼にして離れなければいけないのに、鬼になり切れなかった。その中途半端な思いが杏樹に伝染した。
 志保は自問自答を繰りかえした。そしてやはり何があっても自分がピアノから離れられないことを自覚し、やはり仕事を続けることを再び決心する。それは、サポートする我々の自覚をも促す。そして我々一同がはっきり腹を決めた時から、杏樹の気持ちも穏やかになっていった。
 赤ん坊だからといって馬鹿にするなかれ。この子は全部知っている。まあ、そこまで買いかぶらなくとも、赤ん坊とは感性のかたまりのようなものである。我々の心のあり方を鮮やかに反映するのだ。

 最初は、笑ったような気がするけど気のせいかなと思っていたのが、やっぱりこれは笑っているのだと思えるようになり、そのうち声を出して笑うようになる。手足の力がどんどん強くなる。お風呂に入れると自分の蹴った足の反動で角に頭をぶつけて泣く。子供用のバスタブではもう小さすぎてダメなので、大人のお風呂に一緒に入れている。
 短期間の間に子供の発育には目覚ましいものがある。その成長を親は喜び、一挙一動を決して見逃さない。そうした健気(けなげ)な若い両親を見ているだけで、胸に込み上げるものがある。僕達もかつてはああだったんだな。

 妻はかいがいしく面倒を見ている。杏樹も、妻と一緒だと安心するようで、気持ちが安定している。志保と波動が似ているからかな。それともすでに二人の娘を育て上げた余裕が全身から溢れているからかな。まあ、もともと保育士だったから、いずれにしても子供の扱いには慣れている。とにかく頼もしい限りだ。志保も母性溢れる立派な母親を務めている。
 それに比べると・・・・いやあ、男とはなんと無用の長物。妻は実際の役に立っているけれど、僕は・・・・可愛いから仕事の合間に見に行くだけ。まあ、温かく見守るってことで・・・・後方支援に徹しましょう。その内、
「ジージ、これ買って!」
なんて言われたら、
「ハイハイ!」
と何でも言うこと聞いて、挙げ句の果てに、
「何でもすぐ買い与えないでよ!全く甘いんだから!」
なんて怒られるんでしょうなあ。


2ヶ月目の杏樹

なつかしい旅情
 1月31日金曜日。高崎線新町駅を早朝6時45分に出発。高崎駅で7時10分の上越線に乗り換える。ここから水上(みなかみ)までの景色が僕は好きだ。赤城山と榛名山がだんだん迫ってきて、気がつくと両方の山のちょうど谷の部分を電車が走っていて、囲まれている状態になる。裾野の長い赤城山は不思議で、すでに裾野の部分を走っているわけであるから、近づいていくにつれて山がだんだん小さくなってくる感じがするのである。
 渋川を過ぎると右手に利根川の源流が迫ってくる。幅広く穏やかな下流と違って、深く水をたたえ、切り立った崖や高低差のある変化に富んだ地形を作り出している。雪が地面にちらつきはじめ、やがて雪国らしい風景にだんだんなってくる。水上駅に到着する寸前の温泉街は、かつての賑わいは見る影もなくすたれている。倒産したであろう旅館の建物が荒んでいて見るも無惨だ。
 子供の頃、よく新町商店街の旅行で水上温泉に連れて行かれた。断崖の上に建つ豪華なホテル。その下に流れる谷川の轟音を聞きながら、
「ああ、温泉に来たんだな」
と子供心に思った。お風呂に7回も入ってふらふらになり、親に馬鹿にされたのが昨日のようだ。僕にとって温泉の原風景は水上温泉なのだ。
 水上駅で列車を乗り換える。ここから本数がめっきり減る。水上の次は土合(どあい)駅。トンネルの中の駅で谷川岳登山をする人達の根拠地である。天神平スキー場に直結している。
 そのトンネルを抜けると雪国である。まさに川端康成の小説「雪国」冒頭のセリフが生まれたいわれのある線である。そして越後中里、岩原(いわっぱら)スキー場前と、それぞれの駅がスキー場を抱えている。僕の向かう先は越後湯沢。そこから無料送迎バスに乗って、結局はいつものガーラ湯沢に行く。
 
 スキーに懲り始めた数年前、まだ親父が死んだばかりで、群馬の実家にはお袋がひとりぽっちで住んでいた。そこで僕は、休日があると前の晩の仕事の後深夜に実家に帰り、次の日、早朝に実家を出て一日スキーに行く。夕方、帰ってきてからお袋と一緒にいろんな話をしながら過ごし、もう一泊して次の日の仕事に間に合うよう東京に帰って行った。
 今は、姉がお袋の面倒を見ているので、僕は東京から直接新幹線で往復して日帰りスキーをしてしまう。お袋のところには、新町歌劇団の練習以外に特に時間を割いて行く必要がなくなった。
 今日日帰りスキーをしなかったのには理由がある。実は、今日のメインはスキーではない。夕方高崎で行われるある会議であり、スキーはむしろそれに合わせたのだ。会議は・・・まあ早い話・・・飲みながらやるので、その晩はもう覚悟を決めて群馬に泊まることにした。
 高崎からガーラ湯沢までは、新幹線に乗りさえすれば、わずか30分で行く。一方、在来線を使うと約2時間かかる。それでも、トンネルばかりの新幹線の味気なさに比べて、在来線の景色の素晴らしさと掻き立てられる旅情は、時間のロスを補ってあまりある。でも帰りは、ギリギリまで滑っていたかったし、どうせ景色は暗くて見えないので、割り切って新幹線を使ってしまったよ(笑)。

吹雪の中
 今日のガーラ湯沢の天気は最低だった。最近吹雪ばっかだ。しかも今日はなんと強風で途中リフトが止まってしまった。ウォーミングアップのために初級中級コースを滑って、
「さあ、コブ斜面に行くぞう!」
と思った矢先、出鼻をくじかれてしまった。仕方なく珈琲を飲んで待つが、さらに動かないので、お昼を食べていたら動き出した。なのでまともに滑ったのは午後になってから。
 でもね、雪質は結構良かったし、ゲレンデも前回のように荒れ放題でもなかった。それらの条件が重なって、結構滑りやすかった。それにね、コブ斜面では先週、新雪で極端に難しい状態になっていたけれど、そこで何度も転んで苦労したのが功を奏して、今日は驚くほどスムースに滑れた。ほとんど一度も転ばなかったし、知らないうちに上手になっていたんだ。
「転ぶのを厭わない」
なんて書いたけれど、まあ、転ばないで済むならそれに越したことはないからね。でも先週転びながら学んだ事が、今週で生きたってことだな。

イメージ出来るものは必ず実現する
 整地でターンをしながら、いつもスピード・コントロールしている位置でふと思った。
「ここでちょっと我慢してみようかな」
ズラさないでそのままカーヴィングで押し切った。予想したようにゲレンデのでこぼこや圧力がいつもにも増して自分を圧迫してくる。しかし出来ないわけではない。逆に出来てみると、今までどうしてこうしなかったのかと不思議なくらいだ。自分で勝手に、ここではスピード・コントロールしないと危ない、と決めつけていただけなのだ。
 こうして自分は、自分をちょっとだけ超えた。これまで引き受ける覚悟のなかったものを引き受けたに過ぎないのであるが・・・。そう考えると、自分の実力を決めるのは自分自身なのだという結論に至る。
 筋力の限界というものは立ちはだかる。しかし、それも練習でなんとでもなる。恐怖心は、克服しさえすれば体が前に出る。こうやって少しずつ自分の意識を変えて殻を破っていけば、どこまでも上手になっていくことは出来るのだ。勿論、理屈の上でだけど・・・。

 数年前、テレビで上村愛子のモーグルを見ながら、
「あんな風に滑れるようになりたい!」
と思って、コブに挑み始めた。「あんな風」にはまだなれてはいないが、あの時実際に今コブを滑っているように本当に滑れるようになると思っていただろうか?いや・・・・思っていた!というか、僕の中ですでにイメージが出来ていた。

 今さら皆さんは信じないだろうが、僕が生まれて初めてピアノのレッスンというものを受けたのは、なんと高校1年生の時だ。でも、その時にも僕にはイメージがあった。
「自分は両手を使って自由にピアノを弾けるようになる」
そしてそのイメージ通りになった。
 はっきり言う。全てのことについて、何かが出来るようになりたいと思った時、それが出来ている自分をイメージ出来るならば、あなたは必ずいつの日かそれを実現出来る。そのイメージが現実味をもってはっきりしていればしているほど、その実現の可能性は高く、その実現までの時間は短い。

 昨晩、ソチ・オリンピックの練習をする上村愛子の映像をテレビで見た。上からモーグル用のゲレンデを映していたが、あのコブ斜面を自分が滑ることを自分はイメージ出来た。だからいつか実現出来ると思うし、そのための努力も出来ると信じている。どのスピードで滑るかは置いといて・・・・。
 けれど、その先にあるジャンプ台はおっかなくて、それをジャンプする自分は決してイメージ出来なかった。だから出来ない。って、ゆーか、別にジャンプはしなくていいと思っている。

こんなおっさんがあんなところから飛び出したら、どうなるか分かったものではない。くわばらくわばら!



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