冷たい雪の日の熱い合宿

三澤洋史 

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冷たい雪の日の熱い合宿
 2月8日土曜日。朝起きたら東京中が雪国になっていた。しかも止む様子もなく、どんどん降り積もっていく。その内、風も出てきてまるで吹雪のように吹き荒れている。今日は、新国立劇場で「蝶々夫人」の千秋楽。その後田園都市線の鷺沼(さぎぬま)にある合宿所で東京バロック・スコラーズの合宿。まあ、大雪の中でも、合宿所まで辿り着きさえすれば、逆に家に帰らなくていい。でも合宿自体を中止することは出来ない。
 午前中に、
「どうしましょう?」
というメールが来たが、
「この合宿に賭けているので、みんな絶対来るように!」
と返事を書いておいた。この合宿をしないと、2月23日日曜日の「バッハ自由自在1」演奏会の出来は、音楽監督としては保証出来ない。なにがなんでもやるぞう!
 結果から言うと、僕は案外苦労しないで合宿所まで辿り着いた。初台から新宿に出て山手線に乗ろうとしたら、間引き運転をしていて多少待たされたけど、渋谷から田園都市線に乗ったらすぐ急行が来た。
「電車が30分も遅れて申し訳ございませんでした」
とアナウンスしていたが、別に僕にとっては来た電車に乗れたので、30分遅れようが関係なかった。鷺沼からは車で来ていた団員が迎えに来てくれた。
 ただこんな風にラッキーでなかった人もいた。ある団員は、夕方家を出て合宿所に電車で向かったが、電車が立ち往生し、さらに寒いホームで延々待たされ、結局行くことが出来ない事が分かって、家に帰ろうとしたら今度は家にも帰れない。延々6時間もさ迷ったあげくやっと家に11時頃着いて、次の朝の練習から来たということだった。本当にお気の毒だ。

 さて、僕が来てからの、東京バロック・スコラーズの夜の練習というのはこんな風である。たとえば、「フーガの技法」の最終フーガを、各パートひとりづつによるカルテットでみんなの前で歌う。最初にキーボードで音を取って始めたら、終わりまで完全無伴奏。しかも僕は振らない。自分達で始めて、自分達でテンポを取りながらアンサンブルをしていく。
 フーガだから、それぞれのパートの入りは簡単ではないが、入り損ね、あるいは歌い損ねても、僕がいいと言うまでやめてはいけない。途中で崩壊しそうになっても、なんとか自力でリカバリーする。みんな案外音程は良いので全体のピッチは崩れない。でも、伸ばしている音が待てないとか、あるパッセージになると急ぐ人や、細かい音が遅れてくる人や、それぞれの感じ方が様々だ。
 リカバリーの仕方を教える。まず、歌うのと同じ割合だけ聴くこと。そのために声が小さくなるのだったら、それでもよい。そして自分が正しく歌うだけではなく、アンサンブル全体に常に気を配ること。
 もし、アンサンブルの内部の異変に気がついたら、全力を尽くして何が起こっているのか把握すること。自分の歌が誰と合っているか、誰とずれているかを把握し、あとの2人と合っていたらそのまま続行。逆に、自分ひとりが他のみんなとズレていたら、自分が正しいと思おうが、いちど止めること。そして次のタイミングを計って歌い出すこと。
 勿論、本番でこんなレベルでの崩壊が起こってしまうことはないし、あったら大変だ。でも、そうした危機管理の練習というのはとても効果があるし、実は・・・案外楽しい!普通はこう思うだろう。指揮者なんだから、そんな崩壊状態なんて耐えられないでしょうし、そんな状態を創り出すべきではないでしょう、と。
 でもさ、たとえばアポロ11号が月に行ったのも凄いけれど、もっと凄いのはアポロ13号ではないか。あれだけの事故と危機を抱えながら、全員地球に生還したんだぜ。その科学技術たるや、ある意味普通に月に行って帰ってくるよりも凄いだろう。
 というのと一緒で、危機からのリカバリーは、完璧な演奏をするのと同じくらい、あるいはそれ以上のエネルギーと集中力とを必要とする。現に、次の日に僕が指揮して、全員合唱で歌ったら、まるで別の合唱団かとおもうほど見違えるようになったのだ。これが僕のやり方なのだ。

 僕の尊敬しているジャズ・トランペッターのマイルス・デイビスは、偉大なる教育者でもあった。彼は決して相手に答えを教えたりしない。問題提起だけして各プレイヤーに考えさせる。だって答えはその人によって違うかも知れないからだ。
 その結果、ジョン・コルトレーンやハービーハンコック、チック・コリア、キース・ジェレットなどの巨人達が次々と生まれた。彼らはみんなマイルスの言葉に驚き、悩み、反対にインスピレーションを与えられ、考えて考えて、自分のスタイルを確立していった。
 マイルスの教え方こそ、トップレベルの教師のやり方だ。自分の思い通りの型にはめようと強要し、お山の大将でいるのとは正反対で、相手の中から最大限のものを引き出す天才なのだ。マイルスは、相手が自分にとって尊敬出来る存在になるまで成長しないと満足出来ない。相手が自分を超えてもいい。いや、むしろ超えないと教えた甲斐がないと思っている。その無私無欲というか、教師としての悟りの高さが凄い。尊大に見えるマイルスであるが、謙虚でないとこんな芸当は出来ない。このような教師のもとでは、才能のある生徒は、どこまでも無限に伸びていけるだろう。

 僕も、マイルスに習ってこんな指導者になりたい。東京バロック・スコラーズは潜在的能力のとても高い団体だ。この能力を最大限に生かしてあげないといけない。今度の演奏会を僕は飛び切りエキサイティングなものに仕上げてみたい。
 まさに「バッハ自由自在」というタイトルにふさわしいものになるように頑張りたい。これが僕の58歳最後の挑戦。キーワードは自主性と団員ひとりひとりのモチベーションにある。

上村愛子のこと
 「上村愛子メダル届かず」なんていろんな新聞に書いてある。メダル、メダルってうるせえな。あれだけ頑張ったんだからもういいじゃないか。愛子をみんなで讃えよう!

 4年前の今頃、上村愛子のモーグルの滑りを見て、
「あれをやりたい!」
と思った。それからコブ斜面を滑ることを夢見て研鑽を重ね、今日までに至っている。ま、レベルに関しては触れないことにして・・・・でも、今回女子のモーグルを見ていて、随分いろんなことが分かってきた。
 モーグルにはいろいろなルールとそれに伴った採点基準がある。基本、ひとコブひとターンで滑ること。なるべく直線的に滑ること。採点はタイムを考慮に入れながら、ターンとジャンプの2つの項目で行う。ターンは安定性と美観、ジャンプは技の難易度だの高さだの着地の状態などで点数が決まる。タイムだけで競うアルペンの大回転などと違って、要するに全てジャッジの主観が入る余地がある。

 今回、ネット上で愛子の記事を見て驚いた。愛子の4位に不満を訴えている意見のなんと多いことか。しかも日本人だけではない。彼らの意見はこうである。
「アメリカ人ジャッジの点数の付け方がおかしい。愛子にはジャッジ達の中で最低点をつけている一方で、3位のハナ・カーニーHannah Kearneyに最高点をつけている。愛子は本当は3位になるはずであった」
 アメリカ人のジャッジがえこひいきしたという趣旨のものがほとんどだ。ただ、アメリカ人ジャッジ以外の人達の合計でも、残念ながら愛子の4位をくつがえすことは出来なかったので、問題はひとりのえこひいきの問題だけではないようだ。

 あの時、テレビの前で決勝を見ていた僕を含む全ての者が、ハナ・カーニーの滑りを見た瞬間、
「これはだめだ」
と思っただろう。スタート直後から、誰が見ても分かるほどバランスを崩し、両足は大きく開いてリカバリーもままならない。こんな状態で入賞など出来るはずはないと誰しもが思っただろう。それでもあの高得点だ。恐らく愛子自身も、
「えっ?」
と思っただろう。
 こういうの見るのヤだねえ。スポーツの世界だけはフェアーにやって欲しいのに・・・サッカーのファールの取り方とかでもよくあるけれど・・・そんな時、アジア人に優位に働くえこひいきってついぞないね。たいてい白人中心に世界が回っているんだよな。「蝶々夫人」の中に様々な日本蔑視の表現があるのが嫌だなと思っていただけに、最近はよけい感じるよ。

 まあいいや。愛子は頑張った!悔いはない。それでいいことにしよう。それよりも、愛子の滑り方は、女子としては唯一といえるほど、ズラしのない徹底したカーヴィング・ターンだ。これは基本的に男子の滑りで、スピードが出て攻撃的に滑れるのだけれど、腰と膝に決定的なダメージを与える怖い滑りだ。
 分かりやすく言うと、コブの上でターンしたあと、たいていの女子はコブの腹ではズラしてブレーキをかける。しかし愛子はそのまま真っ直ぐ下に滑って、次のコブの上にスキー板をぶつけることでスピード・コントロールをする。ま、ぶつけるといっても板の先端から入って、板をコブのくぼみでたわませることで多少は直接的な衝撃をまぬがれはする。でもいずれにしても、その衝撃に腰と膝で耐えないといけないのだ。つまりもの凄く体に負担のかかるリスクの高い滑りなのである。
 だから愛子の34歳という年齢を考えると、このまま続けると本当に体がガタガタになるので、もう無理なのだ。もったいないなあ。これが音楽家なら違う道があるのだ。つまり、あんな滑り方などしないで、ズラしながら美しく優雅に滑ればそこに上村愛子の味が出るんだ。そうすれば60歳になったって滑っていられる。エルンスト・ヘフリガーが70歳になっても80歳になっても立派に歌って深い芸術性を僕たちに伝えてくれたように・・・・でもスポーツの世界は勝たなければならないから無理なんだな。
 スポーツって、健康的で体に良いはずなんだけど、トップ・アスリートの世界になると、もうギリギリのところでやるから、不健康だし体に悪いな。トップ・アスリートにならなくてよかった。

白馬にいます
 実は、今僕は白馬でこの原稿を書いている。今日(月曜日)から水曜日まで滞在し、水曜日のお昼の高速バスに乗って帰り、夜の東京バロック・スコラーズのオケ合わせ前の最終練習に出る予定だ。高速バスがちゃんと動けばね・・・。
 というのは、今朝も中央道日野停留所8:03発の高速バスに乗って来るはずだったのが、なんと大雪で運休になってしまい、急遽電車に切り替えてここまで来たのだ。急いで立川8:25発のスーパーあずさに乗り、松本で乗り換えて神城(かみしろ)に着いたのは12時半過ぎ。
 今回は、いつも定宿にしていたペンション・ウルルが合宿でいっぱいなので、やはり五竜スキー場から徒歩3分のカーサ・ビアンカというペンションに泊まっている。そのマスターがわざわざ神城駅まで迎えに来てくれたおかげで、午後いっぱい滑ることが出来た。
 明日は、親友の角皆君を一日拘束してマンツーマンのレッスン。今日の午後はそのためのウォーミング・アップ。角皆君とは、普段はため口をきいているが、ちゃんとレッスンになると僕は従順でおりこうな生徒になるんだよ。

残念ながら今日の時点ではまだあまり話すことはない。明日以降のことは来週の「今日この頃」また書こう。

追伸
 ひとつだけ。電車の中で、ずっと楽譜を見ながらi-Podでチェンバロの演奏する「フーガの技法」を聴いていた。本当に素晴らしい曲だ。僕はバッハのことを、以前から「音楽家として人類の最も進化した姿」だと、最大限のリスペクトを捧げている。
 その彼の全ての創作物の中でも間違いなく最高傑作であるこの作品では、その比類なき高さは音楽的レベルにとどまらない。ひとりの人間の悟りとして、あるいはその境地を音楽という媒体に表現し得た作品として、この作品は希有なるものなのだ。
 こういうことを言ってしまって良いものかどうか分からないけれど、「カルメン」も「蝶々夫人」もやっていると夢中になるし楽しいのだが、「フーガの技法」のような崇高なる作品を前にすると、ストーカーが元カノを刺し殺した話とか、ヤンキーにだまされた女が自害した話とか、どうでもよくなってくる。
 今の僕は、もっと研ぎ澄まされた精神のきらめきが欲しい。大いなる覚醒が欲しい。その今の僕に最もふさわしい作品は、この「フーガの技法」をおいて他にない。全ての情念を超越した絶対的な精神の秩序。これから比べたら、「マタイ受難曲」でさえ俗っぽい。「バッハ自由自在」で演奏する曲は、その最終フーガだけであるが、それだけでも、こうして関わっている時間はかけがえのないものであり、しあわせに溢れている。

この世に生まれて、この作品に出遭ってよかった!



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© HIROFUMI MISAWA