「バッハ自由自在Ⅰ」演奏会無事終了

三澤洋史 

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ああ「フーガの技法」!
 声楽によるフーガの技法が淡々と進んでいく。いつもなら頭の中で楽譜を追い、ページをめくるほど「眼」で暗譜しているが、今回は違う。僕なりのささやかな挑戦。音そのものを暗譜する時はハ音記号の4段譜を用い、家でクラビノーバを弾く時は2段の鍵盤譜を用い、そして合唱の練習を練習する時は、自分で編曲した合唱譜を用いていた。
 つまり僕は、眼からの情報を意図的に拒否して、純粋に音の運動性そのものを暗譜した。これは簡単ではなかった。でも一度頭の中で音が鳴り出すと、バッハの創作の世界にどっぷりと浸かり、仕事の行き帰りの電車では、何度も最寄りの駅を乗り過ごしそうになった。
 別に誰からも暗譜を強要されてもいないし、譜面を見ながら演奏したら初見でも振れるほど指揮するのが簡単な曲だ。でも僕は、この作品にずっと関わり続けていたかったし、一音一音を体に染みこませたかった。これは僕のバッハに対するリスペクトの表明。こんな崇高な作品を聴衆の前で演奏出来る機会なんてめったになかったのだから。
 この作品全体に流れる気高さをなんと表現し得よう。絶対音楽の極み!具体的に何を表現するというのでもないけれど、全てを表現している。モチーフの発展性と構成美だけで構築された世界。そこに晩年のバッハの辿り着いた清冽なる境地がある。
 バッハが筆を折った未完成の部分に来た。曲は、まるで当然スイッチを切ったように中断されて終わる。僕は後ろを向き、聴衆に向かってこう言った。
「ここでバッハは筆を置き、そして亡くなりました」
感無量であった。しあわせだった。ちょっとウルウルしてしまって、すぐその後のスピーチの声が震えていた。

一番楽しんでいたのは?
 続くカンタータ40番、ブランデンブルク協奏曲第1番、そして小ミサ曲ヘ長調。どれもが生命力に満ちた曲だ。指揮をしていてこんな楽しい演奏会もない。
「三澤さんが一番楽しそうでしたね」
といろんな人から言われた。
 ただ、いつも辛口の礒山雅(いそやま ただし)先生に忌憚のない意見を求めたところ、とても褒めて頂いた後で、
「バッハの影の部分も感じさせて欲しかった」
とちょっと釘を刺されてしまった。
 それはそうかも知れない。でも言い訳すると、このプログラミングで影の部分を表現するのは難しい。フーガの技法以外はホルンが入っているので、「狩りの楽器」の特性を生かした愉悦感溢れる曲ばかりが並んでしまった。
 というより、あまりに僕が調子に乗って指揮したり話をしたりしていたので、礒山先生から見たらアホっぽく映ったのだろう。僕としては、今回は割り切ってバッハの「光の部分」を強調したわけであるが・・・。

育っていくバッハ初心者達
 今回のソリストに関しては、超絶技巧を披露したベテランの畑儀文(はた よしふみ)さん以外は、全て僕がバッハの世界に無理矢理引き入れた歌手達ばかりである。ソプラノの國光(くにみつ)ともこさんは、「マタイ受難曲」で初めてバッハ・デビューをさせ、その後も浜松バッハ研究会で「ロ短調ミサ曲」を歌ってもらっている。「マタイ受難曲」でも礒山先生は絶賛してくれたが、今回の演奏会後も、
「今や我が国を代表するバッハ歌手です」
と太鼓判を押してくれた。僕は我が事のように嬉しい。
 塩入功司(しおいり こうじ)君は、2006年の東京バロック・スコラーズ立ち上げ演奏会の時に初めてバッハを歌ってもらった。それまで僕は彼のヴェルディしか知らなかったが、バッハへの適正をヴェルディの歌唱から予感し、いきなり超上級者用の「ロ短調ミサ曲」を与えてみたら見事に当たった。バリトンは、ペーター・コーイなどに見られるように、バロック歌唱だからといって特別な声を出す必要がほとんどない。それでも「バッハだけは歌えない」という人は少なくないので、抜擢にはリスクが伴う。今回も実に端正で確実な歌唱が見事であった。
 アルトの松浦麗(まつうら れい)さんこそ、子供の頃のインベンション以来、バッハへの苦手意識をずっと持ち続けていたという人なので、僕が声を掛けた時、彼女は心底びっくりしていた。
「あたしなんかでいいんですか?」
と言うのを、
「いいからいいから、悪いようにはしないから」
と、まるで「あまちゃん」の太巻きさんのようなセリフで説き伏せた。「あまちゃん」では、たしか喫茶店のマスターだったと思うが、
「悪いようにしないから、というセリフを言う人って、たいてい悪人ですよね」
と言っていたなあ。
 でも悪いようにはならなかったよ。何故僕が松浦さんを起用したかというと、僕は新国立劇場合唱団員の彼女のロッシーニの歌唱を知っていたからだ。ロッシーニを歌える人は、ほぼ間違いなくバッハも歌える。アジリタのテクニックが似ているし、長いフレーズでも支えがしっかりしているからだ。
 初めてなので何度もレッスンをしたが、彼女は僕の様々なサジェスチョンを、その勘の良さで確実に自分のものにし、本番ではあたかもバッハのスペシャリストのように安定して歌った。

 このように、新しい人材を育てるのも、バッハの場合、大きな歓びにつながる。バッハは、他の作曲家と違った独特の文法を持っている。でもその文法を習いさえすれば、誰でもバッハは歌えるようになる。
 勿論プロの歌手が最高の演奏するレベルになると、先ほども言ったような先天的な適正というのを無視は出来ないけれど、一般レベルだったら、その道は万人に開かれているといえよう。いつか、機会があったら、「初心者のためのバッハ歌唱の文法」という講座を企画してもいいな。

初めましての秀逸なプレイヤー達
 さて、今回この東京バロック・スコラーズ・アンサンブルに初めてお招きした方達の中で、特に紹介したい人を3人挙げる。まずホルンの安部麿(あべ まろ)さん。この究極的な難曲3曲を見事に吹き切ってくれました!凄いガッツ!
 一方、チェロの豊原さやかさんは、安定したテンポ感で、アンサンブル全体の牽引役を務めてくれたし、ファゴットの河村幹子(かわむら もとこ)さんの音が光っていた。特に、ミサ曲の國光さんのアリアにおける河村さんの伴奏は見事という他ない。この豊原さんと河村さんは、オルガンの浅井美紀(あさい みき)さんやチェンバロの土居瑞穂(どい みずほ)さんと共に通奏低音のポジションをガッチリ守り抜いてくれた。

大好きな凝り性のベーシスト
 そして、いつもはずせないのは、コントラバスの高山健児(たかやま けんじ)さん。凝り性の彼は、特別注文で作らせた楽器を持参した。やや小ぶりで、普通のコントラバスの形と違って、下の部分が大きくない。
「バイオリンの形をしているんですよ」
と高山さんは言う。
 今回、塩入さんのアリア「地獄の蛇よ」や、畑儀文さんのアリア「キリスト者の子らよ、喜べ!」など、低音の細かいパッセージが多い。僕は、コントラバスだけは、小節の頭だけ弾いてあとはチェロに任せようと思っていた。でも彼は軽々と弾く。この楽器だと、実に小回りが効き、それでいてきちんと大きな音が出るのだ。弓も今回の演奏会にはピッタリのものを使っていた。こういうこだわりが僕は大好きだな。
 打ち上げのスピーチで、
「ポリフォニーでは本気で殴り合いをし、そして最後では本気で抱き合うような、そんな演奏会をしましょう」
と彼が言った時、感動でウルウルときたよ。こういう熱い人達と交わることが出来るのもバッハならではのもの。バッハに取り組んでいると、なんて幸せな出遭いが沢山あるのだろう!

合唱!
 そして何といっても僕が愛するのは、東京バロック・スコラーズのひとりひとり。本番近くになって、「フーガの技法」にみんながどんどんのめり込んできてくれるのを感じ、毎回胸が熱くなっていた。僕が一番大切に守っているものを、ようやく胸を開いて共有出来るような団体に育ってきてくれた。
 ミサ曲ヘ長調のGloriaでは、光の音楽全開で、みんなから発するオーラが四方八方に飛び散っていた。バッハのビート感が炸裂して、トニー・ウィリアムス、ロン・カーター、ハービー・ハンコックの奇蹟のコンビネーションのようであった。みんな、ありがとう!君たちは素晴らしい仲間だ!僕の人生における真の財産だ!
 21世紀のバッハは、着々と世界にその位置を占めるための足場を固めつつある。そのために僕ももっともっと精進しよう。差し当たっては、明日2月25日にガーラ湯沢に行って、白銀世界で瞑想してきます(あれっ?)。
 東京バロック・スコラーズのみんなも、いいかい、その内みんなで月に行くのだ!うわっはっはっはっは!

ソチ・オリンピックを終えて

マスコミがつぶした沙羅ちゃん
 正直言って、様々な疑問の残る冬季オリンピックであった。一番感じたのはマスコミの報道姿勢。高梨沙羅ちゃんに対する事前の報道フィーバーには異常なものがあった。しかも、それが沙羅ちゃんから好成績を引き出してあげるような愛情に満ちたものではなく、かえって彼女を追い詰めるような性格のものに危惧を覚えたのは僕だけであっただろうか?
 彼女だったら大丈夫~絶対に金~金以外あり得ない、とどんどん発展していき、誰も言葉では言っていないものの、「金取らなかったら承知しないぞ」的な雰囲気が漂っていた。その重圧を、わずか17歳の彼女に背負わせるのは酷というもの。今さら「そっとしておいて欲しい」と言っても無理なのは分かっている。だからといって、
「ズバリ!金取れますか?」
とアスリートに直接マイクを突きつけるのは、お願いだからやめて欲しい。
 こんな時、自信満々な選手なんて、この地上に誰もいない。
「絶対、取って見せます!」
と選手が言ったとしたら、その選手は嘘をついている。あるいは、その瞬間“魔”が入る。そして自分の言った言葉の罠に自分がハマる。「金取らなくっちゃ」と思って、筋肉のどこかがわずかに緊張し、ぎこちなくなる。
 素晴らしい結果を出している時の選手は、その瞬間にメダルのことなんか忘れている。自己を見つめ、自己の内部に沈潜し、自己との戦いを成し遂げる。自己が自己を超える瞬間。これこそがアスリートのエクスタシーだ。そうした世界を垣間見せてくれるからこそ、スポーツは美しいのだ。
そんな世界にマスコミが全く無関心なのが悲しい。

一番エンジョイ出来る者を賞賛せよ
「負けて楽しかったという選手がけしからん」
という意見を言う人がいる。
「国費を使っておいて」
とも言う。そういう人がそれなりの立場にいたりする。実に、精神的レベルの低い、悲しい我が国の状況だ。選手は「お国のために」戦争に行くのか?アメリカに勝ちに行くのか?負けたら腹を切れとでも言うのか?いつの時代の話だ。

 一番エンジョイ出来た者が一番素晴らしい結果を出すのだ。限りなくストイックに自分を追い詰めていく「辛くて辛くて辛くて!」の連続の選手生活。その真っ只中に、たとえば「スキーが楽しくて仕方がない」とか「ジャンプするあの瞬間は何にもかえがたい」という歓びがなかったら、誰が好きこのんでやるか。どうせやったって、その歓びを持っていない人は、絶対にあるレベルから上には行けないのだ。我慢だけでは人間は本当の高みには到達出来ないのだ。
 音楽家でも、根気の良さでテクニックだけを磨いてきた真面目な人の演奏は面白くない。若い時にコンクールに入賞したりしても、もともとそんなに音楽を好きでもないので、入賞後どうやって自分を磨いていったらいいか分からない。その一方で、内部に強烈な音楽を持っている人は、常にそれを実現するためのテクニックの不足を抱えているため、自分の音楽に突き動かされるように、何歳になっても上昇を続ける。その人の演奏は、聴衆に決して忘れ得ぬ感動を与える。何より、本人が一番感動を手にしている。
 こうした「本当の歓びを得ている人」を讃え敬うという精神が、我が国には完全に欠如している。というか、みんなスポーツを観て得られる感動の正体を知らない。いや、そうでもないな。心の底では分かっているのかも知れない。でもマスコミが巧みに、「日本が勝った」とか、「メダルを獲った」とかいう事に置き換えてしまうので、みんなも乗せられてしまうのだ。
 僕は強調したい。オリンピックでは、誰も「勝って」いないし、誰も「負けて」いない。勝ち負けなんて本当はないのだ。だってジャンプだってモーグルだって回転だってハーフパイプだって、みんな自分との戦いなんじゃないか。
 だから誰も「負けちゃいました」と言う必要ないし、ましてや「申し訳ありませんでした」と謝る必要もない。一体、誰に向かって謝ってるんだ。誰に向かって「悪いことをした」のだ?
 選手が「楽しかったです」と言って何が悪い?誰も最初から手を抜いてオリンピックに臨んでいる選手なんかいないし、誰だってうまく演技したいに決まっている。そして自分の弱さとも向き合いながら全力で競技に立ち向かっている。当たり前じゃないか!それだけで美しいし、讃えるに値するではないか。
「けしからん!」
と言って良いのは、そうした経験を自分でした人に限られる。ところがね、そうした経験を一度でもした人は、決して「けしからん」とは言わないのだ。

キム・ヨナ
 さて、浅田真央ちゃんの話をしたい。最初に断っておくが、僕はフリーを滑り終わった時の真央ちゃんの表情を観て涙を禁じ得なかった者のひとりだ。真央ちゃんを応援し、真央ちゃんの偉業を讃えたい気持ちにかけては誰にも負けない。メダルよりも大事なものを真央ちゃんは僕達に与えてくれた。
 それを前提にしてひとつのことを述べたい。実は、フィギュア・スケート競技の始まる前に「今日この頃」にある記事を書きかけて、やめていた。それは「真央ちゃんはキム・ヨナを決して超えられない」という内容だった。これは僕の全く個人的意見なので、みなさんに賛同して欲しいと思っているわけではない。僕は職業柄、フィギュア・スケート競技というものに対しても、どうしてもひとつの芸術作品としてしか観られない。これが僕の問題点かも知れない。

 ソチの本番前、ライバルであるはずのキム・ヨナの映像が流れることはほとんどなかった。これは意図的なのかなとも思った。僕がテレビを観る時間は、一日の中でもとても限られているから、この意見は正しくないかも知れないが、ある時、たまたまキム・ヨナの映像が目に飛び込んできた。
圧倒的だった。魅せられた。感動した。何に一番感動したかというと、キム・ヨナにとっては、フィギュア・スケートそのものが芸術なのだ。滑り初めから最後のポーズに至るまで全てつながっていて、ターンを含む個々の演技がひとつの作品を作り上げるために奉仕されている。恐らく、キム・ヨナにとっては、そもそもフィギュア・スケートをやるというモチベーションの源泉が、「芸術をやる」という事なのだと思う。つまり彼女は、スケート選手である前に芸術家なのだ。

その一方で、真央ちゃんの表現力は昔に比べると格段に上がったが、彼女の滑りを観ていると、やはりジャンプの直前に演技が止まる。だから誰しもが「これからジャンプするのだな」と分かる。それは、コンクールに出場したピアニストでいうと、ショパンのスケルツォなどで速いパッセージが始まる前に音楽が止まるに等しいし、テノール歌手でいえばハイBを出す前のフレーズの表情が死んでしまっているに等しい。
では何故そのテノール歌手は、ハイBの前で表情が死んでしまうのかというと、コンクールでは所詮ハイBが決まらないと駄目なのだと思っているからである。つまり「勝つための」音楽をやっているのである。しかしながら、音楽の場合は、まさにそのことによって、たとえハイBが決まったとしても得点が伸びないのだ。最高得点を獲得するのは、全体に音楽的説得力があり、かつハイBもその中に含まれているような演奏でないといけないのだ。

 こうした音楽のコンクールとフィギュア・スケートが違うのは分かっている。それに、最近では競技のジャッジの方向性も、どんどんジャンプ重視に傾いている。だから、
「真央ちゃんはトリプル・アクセルをやるのに、キム・ヨナは出来ないんだ」
という評価に疑問をはさむつもりもない。
 でも僕は、どうしても感じてしまうんだなあ。キム・ヨナに比べると、まだ真央ちゃんは「勝つためのスケート」をやっているということを・・・。つまりそれは、ジャンプするために滑っている、ということであり、所詮ジャンプが決まらないと駄目だと思っている、ということだ。勿論それは悪いことではない。
ただ、真央ちゃんがそのことによって、逆に、
「最初のトリプル・アクセルを失敗するともう駄目」
という精神状態に追い詰められていたのは事実だろう。そして、ショート・プログラムでは、まさに危惧していた通りの結果になってしまった。残酷な言い方をすると、トリプル・アクセルに失敗した瞬間に、真央ちゃんの中で金メダルが終わってしまった感がある。

 キム・ヨナが最高難易度のジャンプをしないことを「勝負から逃げている」と批判する人がいるようだが、これはもう価値観の問題だ。キム・ヨナは、最初から「勝負」などしていないのだ。それでも結果的に2位を獲得したわけだから、ジャッジもキム・ヨナの芸術性と全体の安定度を高く評価しているのだ。これが音楽コンクールだったら、間違いなく彼女は金メダルだと思う。

やはり恐るべしキム・ヨナなのだ。あなどってはいけない。



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