59歳の悟り

三澤洋史 

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59歳の悟り
 こんな風に書いたけど、自慢じゃないが全く悟ってはおらん!そう簡単に悟れるわけないではないか。って、ゆーか、何をどう悟るのだ?何をもって悟ったというのか?二十歳(はたち)くらいの時に59歳の人を見たら、一体どんな高尚な事を考えているのかと思っていたが、若者達よ、誓って言うが、何も進歩してはおらん。そのまんまだ。そのまんま歳だけ取るのだ。
 とはいえ、進歩ではないが変わってきた事もある。昔は、頑張れば何でも出来る気がしていた。自分の前に無限の可能性が開けていた。でも今は自分の出来る事と出来ない事が分かる。そして出来ないことを無理矢理やろうとはしない。その一方で、出来る事がどんどん深まってきているのを感じている。
 先日の東京バロック・スコラーズの演奏会もそう。自分のやりたいバッハがはっきりしている。もうこの歳になって迷いはない。そして自分は、どうあがいても結局は自分のバッハしか出来ないことを知っている。この先何年バッハを演奏しようが、それが深まっていくだけだ。古楽、モダン演奏が何だ。結局は自分の感性しかないのだ。

 昔、夢で守護霊が現れて、
「お前の人生は53歳までだ」
と言ったという話は以前にした。今となって、それが真実だったのを感じる。何故なら、54歳からの僕は、それまで生きて来た自分と全く別の人生を送っているからだ。
 54歳の誕生日に、妻が僕に内緒で病院の検査の予約を取ったのがきっかけで、血糖値が高いのが発覚し、ダイエットと運動の日々が始まった。それは新しい人生のほんの序奏でしかなかった。僕はスポーツの楽しさに目覚めた。それをきっかけに、何故かそれまでのデジタル生活から一気にアナログ生活に戻ってしまった。パソコンは使っているし、譜面も譜面作成ソフトで作ってはいる。でも、以前のように新しいパーツを求めて秋葉原をさまようこともなくなったし、自作パソコンも興味を失った。第一まだXPを使っている。携帯もガラ携使用であるし、i-Padも興味ない。
 ヴァーチャルな世界よりも、よりリアルな世界に興味が移った。自分のどこの筋肉をどう動かしたら、より体が抵抗なく水の中を進むか、とか、どこに重心を乗せたらスキー板がどう動くかとかいう事が面白くて仕方ない。水にしても雪にしても、各々の物質の持つ様々な性質には驚かされるばかりだ。またそれら物質をとりまく重力、浮力、遠心力、慣性の法則など、目に見えないけれど宇宙を支配している力に圧倒される。全ての現象の裏には神の存在を感じる。最も祈りから遠そうに見える物理的法則が僕の精神性を高め、僕はゲレンデや水中で瞑想する。
 コブを滑るのは難しい。でも、だからこそ楽しい。体が「三次元」を体感出来るからだ。たて、よこ、高さ。その三つの座標軸に重力と遠心力が殴り込みをかけ、せめぎ合う。それは複雑きわまりない計算。でも体そのものは一瞬で把握し、無意識にバランスを取っていく。自分の体なのに意識の方が後からついて行くのだ。一体何が自分の中に住んでいるのか?

 人生がすっきりと澄み切ってきた。雑念がない。スキーをする時はスキーの事のみを考える。ゲレンデに行って可愛い女の子を探そうとも思わない。若い時、音楽家になった動機の一部に、
「女の子にモテそうだったから」
というのがあったが、何という雑念!そんな気持ちで音楽なんかやってもらったら困る!今は音楽をやっている瞬間、音楽以外のことを考えるのは不可能だ。自分でも驚くほど音楽にのみ集中している。
 それは僕の精神性が深まったからではない。別に特別な修行をして自分の欲望を押し殺したわけではない。何の事はない、単にホルモンが分泌しなくなったからに過ぎない。でも、今だから思う。若い時は、なんて無駄なことにエネルギーを費やしていたんだろう。ホルモンというものは、なんて人生の真の目的にとって邪魔なものだったのだろう。
 でも、これだけは声を大にして言いたい。それは歳を取って体が衰えたからではない。体からエネルギーがなくなってきたからではない。誓って言うが現在の僕の肉体のポテンシャルは、恐らくこれまでの人生の中で最大である。子供の頃から、大きな病気はしなかったものの病弱だったし、スポーツに対してはずっと苦手意識を持っていた。
 先日、白馬でコブを滑っている僕を見ながら、親友でスキー教師でもある角皆優人(つのかい まさひと)君がつぶやいていた。
「体育の授業が嫌いで、いつも音楽室に逃げ込んでピアノを弾いていたあの三澤君が、こんなコブ斜面を滑り降りてくるようになっちゃうんだもの。世の中分からないね」
肉体的には絶好調。なのに若い頃に自分を悩ませていたある種の欲望のみがきれいに抜け落ちている。代わりに僕を支配しているのは、穏やかで暖かい愛情。

 特に女の人が好き。こうあっけらかんと言っちゃえるのも下心が消えたから。たとえば新国立劇場合唱団の女性団員は、誰の顔を思い浮かべても全員可愛くて大好き。どちらかというと父親目線。その他、自分が関わっている全ての合唱団や団体の女性達もみんな大好き。年齢的に父親目線とは言えない人もいるけれど(笑)、女性は赤ちゃんからお年寄りまでみんな可愛い。
 男の人に対しては、可愛いとは思わないけれど、僕って要するに誰をも嫌いにならないのだ。嫌いになれないと言った方がいい。勿論、特に気が合う人や、反対にあまり話さない人はいる。また、その人の生き方には賛同出来ないなあと思う人もいる。でもその賛同出来ない人が生きる権利を剥奪されそうになったら、僕は自分の命を賭けてでも守りたい。僕は、全ての人がこの世に存在するのを基本的に“認めている”し“受け容れている”。それも理屈としてではなく、心情として。

 指揮をしている時や、無心でスキーをしている時など、エゴイスティックな意味での自我が無になっているのを感じることがある。そんな時には、自分が限りなく透明で風のようでもあるし、自分がそもそもこの世にいないんじゃないかとも感じられる。この無我の瞬間をどんどん増やしていったならば、悟りになるのか?うーん、だとしたなら、悟りって、たまねぎの皮をどんどんむいていった果てのように、要するになんにもないのではないか。でも、そのなんにもないところにも、“在る”という存在のエッセンスのみは残る事を僕は知っている。
 でもそれだけじゃつまんないな。それを体験したら悟りへの中級に到達したって感じがするけれど、上級の悟りはそんなものではないような気がする。もっと高揚感があって、幸福感に溢れていて、宇宙の流れと一体となるような、素晴らしいもの。
 それを垣間見ることはある。たとえば先日の演奏会で、ミサ曲ヘ長調のGloriaを演奏していた時、Pax(平和)という歌詞が出てきた瞬間、突然僕の中に平和のイメージが広がった。それは言葉で言えない絶対的平和の輝きであった。バッハはPax,Pax,Paxと3回繰り返す。一回ごとに平和が輝きを増す。もうあたりが見えなくなるほど、僕の全身が平和のイメージで満たされた。
 ただ僕の場合、音楽が終わるとその輝きも終わってしまう。そうすると、後に残されたのは・・・ただの一匹のおっさんだ。それが悲しい。Paxの輝きは“悟りのひとしずく”のようなもの。チラ見させてもらった悟りの「お試し版」のようなもの。僕には分かっている。本当の悟りとは、永遠に続く究極のエクスタシーに違いない。
 僕が自分の生涯を賭けて欲しているのはこの究極のエクスタシーだ。僕はすでにデジャヴも知っているし、共時性も至る所で見出す。演奏している最中に“なにかが降りて来ている”体験は、ほとんど毎回のようにしている。
 でも、もうそろそろ本来の世界への扉を開けたい。扉の向こう側には、まばゆい光の世界があるのをすでに知っているのだ。永遠に続く、決して消えることのない法悦感。「吾が大宇宙そのものであり、大宇宙が吾である」という時空を超えた宇宙意識。それはすでに自分からそう遠くないところにある気がするのだ。

「59歳の僕の悟り」とは、本物の悟りを得る旅の決意!
死ぬまでに必ず手にしたい。
もう僕は自分の人生でそれしか欲しくない!



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