大阪なう
今(3月10日月曜日夜)この原稿を大阪梅田のホテルの一室で書いている。手元には、ウィスキーのソーダ割りとスルメがある。今日は朝早く家を出て新幹線に乗り、大阪音大に行ってきた。カレッジ・オペラハウスと新国立劇場が提携して演奏会が開かれる。その練習だ。
学内でソプラノの並河寿美(なみかわ ひさみ)さんやテノールの西垣俊郎(にしがき としろう)さんに会った。彼らにとって自分のホームグランドなのだなと思った。
カレッジ・オペラハウスのメンバーは、みんな真摯な態度で音楽に向かい、一日の練習で随分声もハーモニーも、そして意識も変わった。これはきっと良い演奏会になると思う。新国立劇場合唱団とのコラボレーションが今から楽しみになってきた。
切ない「死の都」
妻が死ぬ。ひとり残された夫パウルは妻マリーのことが忘れられない。マリーと生活したブルージュの街を離れられないし、マリーとの思い出が詰まっている部屋には、誰も入れないで、その中にずっと浸っている。喪は未来永劫決して明けないように見える。
ところがある日、パウルは街でマリーにそっくりな女性を見かける。彼はその女性に声をかけ、家に来るように誘う。彼は我を忘れて驚喜する。彼の中で妻が蘇った!しかしながらマリエッタは妻のマリーではない。敬虔で慎み深かった妻とは打って変わって、マリエッタは自由奔放な踊り子である。親友フランクと彼女を奪い合うなど様々な行き違いが起こり、逆上したパウルはマリエッタを殺してしまう・・・が、それはパウルの幻想。それに気付いたパウルは、ついにこの街を去る決心をする。新しい人生の扉を開くために。
というのが今度初日の幕が開くコルンゴルド作曲「死の都」のストーリーだ。この結末は切ない。この街を去るということは、すなわち自分の中で妻との思い出を精算することを意味する。僕は通し稽古を見ていてウルウルきてしまった。
話はやや離れるが、僕の携帯電話の待受画面は相変わらず亡くなった愛犬タンタンの写真だ。この間ふと長女志保のi-Phoneを覗いたら、なんと彼女もタンタンの別の写真をいまだに使っている。
「志保はもうとっくに、杏樹の写真にしているのかと思っていたけど・・・」
「ううん。だって杏樹にしちゃったら、自分の中でタンタンが終わってしまうじゃない。それに杏樹は生きていていつでも見れるもの」
そうなのだ。待受画面を変えられない僕も志保も、パウルと同じで、いつまでも「死の都」ブルージュに留まっているのだ。タンタンが忘れられなくて苦しんでいるくせに、忘れてしまう自分も許せないのだ。タンタンとの生活が自分の中でだんだん薄れていき、タンタンのいない日常がしだいに自然になってくることを肌で感じているくせに・・・いや、だからこそ、僕は心の中でタンタンと「訣別」することを激しく拒否している。
パウルがマリエッタに夢中になったように、タンタンに似た犬を飼うことも考えた。でも、それは逆に喪をいつまでも引きずることを意味する。つまり、その犬は何かにつけてタンタンと比べられてしまうだろう。そして、その違いが許せないだろう。パウルが何故マリエッタを殺したかという理由も、マリーとの相違を許せなかったからだ。パウルはマリエッタを殺した直後、死体を見つめながらこう言う。
Jetzt-gleicht sie ihr ganz-
「今や、ふたりは全く同一になった」
そして叫ぶ。
「マリー!」
パウルは、マリエッタと出遭った時自分の喪が明けたと思ったが、依然彼は「死の都」の内側に生きていたのだ。人は愛する者を失っても生きていかなければならないし、体は生を欲し続ける。マリエッタという存在は、パウルが行き続けるための通過儀礼だったのだろう。こうしてパウルはマリーを「卒業」した。しかし、それは何と悲しい卒業だろう。
いつの日か、僕の携帯電話の待受画面からタンタンが消える日が来るのだろうか。その日を僕は恐れる。「死の都」の終幕の妙に晴れやかな音楽に浸りながら、僕にこんな日は来ないでくれと祈っていた。タンタンでさえこうなのだから、もしこの物語のように妻が旅立ってしまったらどうなるのだろう・・・・?
僕は断言する。僕は妻を失ったらもう生きてはいけない。仕事なんて全く出来なくなるだろう。それで飢え死にするんだったらそれでもいいだろう。自殺は決してしないが、そんなことしなくても体から生命力が抜け落ちていき、ゆっくりと自然に還っていくだろう。それでいいのだ。僕には妻の愛が日ごとの食事のように、あるいは空気のように必要なのだ。それが全ての音楽生活のエネルギーの源泉だ。
断っておくが、それは厳密に言うと「妻への愛」であって「妻からの愛」ではない。僕は愛することによって自分の中にエネルギーを創り出す人間だ。いやいや勿論妻には「愛されて」いますよ。とにかく妻に死なれては困るのだ。
こんな風に「死の都」は、自分の愛するものを再確認させ、愛するものをもっと愛するように導いてくれる。ワーグナーとは全く違うけれど、ある意味とても精神性のある作品だと思う。
このオペラを作曲したエーリッヒ・ヴォルフガング・コルンゴルドは、早熟の天才で、9歳の時に作曲したカンタータを聴いたマーラーは「天才だ!」と叫び、12歳の時に書いた「ピアノ・ソナタ第1番」にリヒャルト・シュトラウスが驚愕したといわれる。
オペラ「死の都」は23歳の時に初演されて大成功をおさめ、これによってコルンゴルドの世界的名声が確立されたかに見えた。こんな深い作品を20代前半に書いたんだよ。これを天才と言わずして何を天才と言うか!しかしながら、その後の彼はハリウッドに渡って映画音楽を書くなどして、晩年は不遇な生涯を送ったようだ。
コルンゴルドの音楽は、リヒャルト・シュトラウスの影響を濃厚に受けている。センチメンタルな甘い音楽と、異なった和声を同時に響かせる「複調」と呼ばれる手法などを用いて無調に限りなく近づく前衛的な部分とが交差する。それが、どこか現実離れしたこの台本とマッチしていて、生の世界と死の世界の境界線が曖昧になっているような怪しく不思議な空間を舞台上に作り出している。
「カルメン」や「椿姫」のように有名ではないけれど、一度は触れてみる価値のある作品だと思う。新国立劇場で3月12日水曜日が初日。15日土曜日、18日火曜日、21日金曜日(春分の日)24日月曜日の5回公演。
雪国
これまでに一体何度川端康成の「雪国」を読んだのだろう。そして最近は読む度に腹が立ってしまう。今回もそう。1月の終わり、在来線に乗ってガーラ湯沢に滑りに行った時の、電車から見える風景があまりに印象的だったので、東京に帰ってきてからKindleに「雪国」を入れて読み始めた。文庫本も同時進行で読みやすい方を代わる代わる読んでいる。このやり方を最近の僕は結構気に入っている。
調べてみたら、「雪国」で主人公の湯治のモデルになっていたといわれる高半旅館(現在はホテル高半)は、ガーラ湯沢スキー場の目と鼻の先にあるではないか。
新幹線で行っても、越後湯沢駅に着く直前にトンネルから出ると、真っ白な雪景色が目にまぶしいくらいに飛び込んできてある種の感動は覚える。しかし、新幹線のガーラ湯沢駅は、降りるとそのままスキー・ステーションに直結しているし、大きな建物のカワバンガは暖かく、何でも揃っているので、ゲレンデに出るまでは都会の延長のように感じられ、およそ雪国の風情という言葉からは遠い。
それにひきかえ、上越線の谷川岳の地下トンネルを越えた土樽あたりの景色は、雪に深く閉ざされ隔離された山間の村そのものだ。また、越後湯沢駅前から広がる昔ながらの温泉街の風情は、さびれているだけに余計、どこか遠くの国にいるような“現実社会からの遊離感”を覚えさせる。
だから再び「雪国」を紐解いたのだ。それなのに、小説の中に見いだされるのは、無為徒食な男の自堕落な生活ぶりばかり。いろいろな書評には、そうした男だからこそ、彼の目を通して駒子の一途な生き方が逆にあぶり出されてくるなどと書かれている。しかしながら、この小説にはモラルもなければ生きる指針もないし、描かれた女の美しさが我々をどこに持って行こうとするのか見当がつかない。
と思って怒りながら、一度はこの小説を放り出した。ところが、何日か経ってから、ふとまた読みたくなった。何故なんだろう?
読み始めると、いくつかの文章が目に飛び込んでくる。はっとして、何度も読み直す。凄い!天才というのはこういうのを言うのか。恥ずかしながら、文章を書くというのはこういうことなのか、というのを初めて知ったような気分。
遙かの山の空はまだ夕焼の名残の色がほのかだったから、窓ガラス越しに見る風景は遠くの方までものの形が消えていなかった。しかし色はもう失われてしまっていて、どこまで行っても平凡な野山の姿が尚更平凡に見え、なにものも際立って注意を惹きようがないゆえに、反ってなにかぼうっと大きい感情の流れであった。この文章の最後が「感情の流れであった」に落ち着くのにびっくりする。全く論理的でない。文法的にも成立していない。しかしながら、その後にすぐに次の文章が続くのに気づいて納得する。
無論それは娘の顔をそのなかに浮かべていたからである。主人公は、列車の窓ガラスに映る向かい側の娘の顔を見ていた。それが窓の外の景色と二重写しになっているのである。ベートーヴェンが前のフレーズを放り出したように中断し、次のフレーズで意表を突くようなフォローでそのエネルギーをひろいながら先を続けていくように、ここでも危ういアンバランスのバランスというものが見られる。
蛾(が)が卵を産みつける季節だから、洋服を衣桁(いこう)や壁にかけて出しっぱなしにしておかぬようにと、東京の家を出掛けに細君が言った。なんにも感じない人は何気なく読むのだろうが、僕にはこの奥さんのことがとても可愛そうに感じられる。おそらく奥さんは知っているのだろうな。そして主人に対して不信感を持ちながら、それでも精一杯自分の生活のスタイルを崩さぬように努めて主人を送り出すのだろう。主人公の留守中にはいいようのない孤独感を感じていることだろう。