大爆笑のワークショップ

三澤洋史 

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4月になる
 「ごちそうさん」も無事終わりましたね。木曜日から土曜日の午前中まで大阪にいたので、最終回も阪急梅田駅前のホテルで観た。悠太郎さんが帰って来てよかったね。まあ、帰ってくるとは思ったけれど。あの飛び出してきた豚が食われるのかと思うと悲しかったけれど、無事逃げてよかったね。って、ゆーか、僕達って、あんな可愛い豚を日々食っているんだよね。人間って残酷だね。でも豚肉ってうまいんだよね。どうしよう、この矛盾。
 カフェの「うま介」に行くと、いつでも作家の室井さんとかいて、桜子さんの尻に敷かれながらピントのはずれたことを言ってみんなから総スカン食ってるんだろうなあ。こんな風に何十年もドラマに関係する職業に就いていながら、いつも一番先に騙されて、作り話と真実との境界線がうやむやになるんだ。
 イカれた建築家の竹元さんや、食い道楽の倉田さん、それにイケズの和枝お姉さんなど、みんないい味出していた。でも、ちょっと残念なのは、目に見える世界の陰で働いている見えない力に惹かれているふ久がもっと活躍するかと思っていたんだけど、再び学問を志すところで終わってしまった事だ。あとは僕の想像力で補っていくしかないなあ。
 ふ久みたいな人間にはとても興味ある。取り憑かれたように何かひとつのことに夢中になる人間を見ているだけで、僕には切ないような感情が湧くし、そうした人間を美しいと思うんだ。それとは全然関係ないんだけど、ふ久の役の子は美人だ。この子、派手じゃないけど、女優として何か持ってる。目がいい。それはともかく、め以子さんの作ったカレーライス、一度食べてみたいなあ。

 桜も、咲き始めはちょっと遅めだったけど、ここ数日でどんどん開花してきた。いったんつぼみがほころびはじめると、気持ちがワサワサしてくる。まだ満開ではないので散る心配はないけれど、間に風が吹いたり雨が降ったりしているのでこの先が心配だ。なるべく長く見ていたい。諸行無常の代名詞のような桜。
 いよいよ 明日から(3月31日現在)4月になる。消費税も上がる。みんな血眼になって買いだめをしているのは滑稽に映るが、
「おい、ガソリンはちゃんと入ってるか?」
と妻に訊いている自分に気が付いて、自虐的に笑う。

 東京でも大阪でも、花粉はまだまだ盛大に飛んでいる。梅田駅前の薬局でアレグラ2週間分と点鼻薬を買った。点鼻薬は、つけ過ぎるとかえって粘膜がやられて効かないけれど、カレッジオペラハウスの演奏会では、とても役に立った。後半のワークショップでは、舞台から降りてお客様の近くで指揮し、稽古をつけながらいろいろしゃべらなければならなかったからね。アレグラは僕には合うようで、穏やかだが眠くなったりしないのでいい。これでなんとか乗り切れるような気がする。

 ジュンク堂は丸善と一緒になったんだね。茶屋町のジュンク堂は、前にも書いたけれど、僕のお気に入りの本屋。広くてゆったりしていて、東京では置いてないような本が沢山置いてある。ここでドイツ語の「ジークフリートの死」という本を買った。ワーグナーのものではなく北方神話である。
 これは単に、英雄ジークフリートが、ハーゲンの策略で背中に槍を受けて倒れるまでのシンプルな英雄伝説だ。グンターがブリュンヒルデを得るために、ジークフリートが一役買って、隠れ頭巾を使うことなどは一緒だが、ジークフリートはそもそもブリュンヒルデと愛し合ってなどいない。また、ラインの黄金から作った指環をラインの乙女に返さなかったから死んだわけではない。話の展開は僕達が知っているものとは随分違う。
 この物語では、ヴォータンの権力闘争や世界の没落などは全く語られていない。それらを結びつけて、話を大袈裟にしたのはワーグナーである。だからワーグナーの「ニーベルングの指環」はややこしくなったんだ。ジークフリートの死とワルハラの炎上や大洪水は、本来全然別のもので、ジークフリートの死が世界の終焉を引き起こしたわけではないのだ。
 しかしながら、こうしたテーマを盛り込むことによって、「リング」は人類にとって偉大なる遺産になり得たのだともいえる。ここのところイタリア語の文章ばかり読んでいたので、久々のドイツ語はかえって新鮮だった。

 3月28日で、生まれてから4ヶ月経った孫の杏樹ちゃんは、手足をばたばた動かして、大きな声で笑い、目を輝かしながら何やらワケの分からないことをしきりにしゃべっている。僕がオペラチックな声を出して、カロ・ミオ・ベンなどを歌うと、真似して声を伸ばそうとするんだ。大きく息を吸ってなるべく大きな声を出そうとするのだが、それが「ギャー」と、まるで怪獣のような声なのでウケる。将来はオペラ歌手か?とにかく可愛くて食べちゃいたい。
「いっそのことウチの子になるか?」
というと、志保は本気で取られるんじゃないかと心配する。

 春だ!ものみな萌え出ずる時。命の季節!杏樹ちゃんも、ベビーカーに乗って満開の桜の下、国立の街を堂々と闊歩するんだ。Walking under Cherry Blossomsという洒落た曲でも創ってやるか。

大爆笑のワークショップ
 演出家岩田達宗(いわた たつじ)さんとの仕事はいつも楽しいが、今回は特別お互いの絆が深まった気がする。彼が考えていることやめざしているものがとても僕に近いのだ。3月28日に催された大阪音大カレッジオペラハウスの演奏会の、練習の合間や、終演後主催者が用意してくれたスタッフの打ち上げでも、彼と話せば話すほど意気投合して嬉しくなる。
 なによりもこの演奏会が、想像していたものをはるかに超えて、有意義かつ楽しいものになり、聴衆も大満足で帰ってくれたことが、このコラボレーションの大成功を証明している。この演奏会だけは、恐らく僕だけでも岩田さんだけでも、あるいはどちらかが別の人であったら、決して出来なかったものなのだ。

 演奏会の第1部は、通常の演奏会のように「ナブッコ」や「さまよえるオランダ人」などから合唱場面を演奏した。しかし第2部は、ワークショップといって、「オペラ場面の立ち稽古の現場を聴衆に見せる」という企画になっていた。題材は「カヴァレリア・ルスティカーナ」第二部の乾杯の場面と、椿姫の「乾杯の歌」。飲んべえの考えそうなプログラミングだ。勿論僕と岩田さんの二人で考えた。一方は南イタリアの素朴な田舎の復活祭のお祝い。もう一方は、打って変わって華やかなパリの社交界。同じ乾杯でも身のこなし方ひとつをとっても全く違うものが要求される。

 演奏会前日の立ち稽古。「ヤラセの戦略を練る稽古」と呼んでいたけれど、とりあえず普通の立ち稽古として練習を始めた。でも、僕と岩田さんのふたりになると、これが普通でなくなるんだなあ。僕はいつものように指揮者でありながら演技に口出しをし、岩田さんも演出家でありながら音楽に口出しをしてくる。そのクロスオーバーぶりが、僕達の場合、尋常ではないのだ。
「いっけねえ、練習に夢中になっている間に、明日どうすればいいかの相談、忘れちゃった」
と、休み時間に岩田さんが僕に言ってきた。
「このまんまでいいじゃない。もう充分面白いよ」
主催者の人も、
「これ、凄くいいですよ。前代未聞の楽しさです」
と言ってくれている。
「問題は、明日同じように面白く出来るかってことですね」
と岩田さん。
「ま、なんとかなるでしょう。明日は明日の風が吹く。あははははは」
と、どこまでも楽観的な僕。

 そして本番を迎えた。これがまた予想を上回る楽しさだったのだよ。今回の演奏会では、新国とカレッジの両合唱団の他に特別に受講生を募集した。彼らも一緒にワークショップで舞台に乗って演技した。その受講生に対して、さすが岩田さん。なかなか手厳しい。
「新国やカレッジの人達の所作を見てごらんよ。彼らに比べて、君たちはお辞儀の仕方ひとつなってないんだよ。グラスを持つ手は、もっと体から離して美しく見せないと駄目。こういうことが舞台上を日常空間と切り離すんだ」
受講生達の目がきらきら輝いている。

 「カヴァレリア・ルスティカーナ」は、南イタリアの復活祭の日の物語。遠く離れた家族が復活祭休暇で帰って来て家族で過ごす“家族の日”でもある。岩田さんは即興で、
「もっと家族というものをはっきりと出すために・・・そうだねえ・・・君!若いお母さんになろう。スタッフの人、この子に赤ちゃんの人形を渡してあげて!」
と受講生に人形を渡す。
「君はその夫だ」
と男性をつかまえてカップルにする。それから新国立劇場のテノール団員の阿瀬見貴光(あせみ たかみつ)君をつかまえて、
「君はおじいちゃんになりなさい」
「お、おじいちゃんですか?」
 それからもう一度最初から音楽をつけて演技させる。急に老け役を命じられた阿瀬見君は、背中を丸めていかにも老人風に歩きながら出てきた。さすが、新国立劇場合唱団員の中でもピカイチの演技達者の阿瀬見君!聴衆もそれを見て大いにウケている。
「家へ帰ろう、家へ帰ろう!」
と歌が始まった。僕は突然音楽を止める。
「阿瀬見君、ちょっと前に出て来て!えー、みなさん、彼は阿瀬見君といってとても芸達者な人です。いいおじいちゃんを演じてますよね」
聴衆から大きな拍手。阿瀬見君も得意そう。
「でもね、阿瀬見君。君、最初のくだり、歌ってなかったよね」
「あっ!す・・・すいません!」
「歌いながら演じるのがオペラ歌手というもの。でもね、僕には長年の勘で予測がついていたんだよ。阿瀬見君のおじいちゃんぶりがお客さんにウケたでしょう。そんな時は嬉しくなってもっと演技に夢中になり、きっと歌い出すことを忘れるに違いないだろうってね」
聴衆は爆笑。
「私事なんですが、最近僕には孫が生まれておじいちゃんになったんですよ。だからおじいちゃんには厳しいの」
さらなる笑いと拍手。
「そこの赤ちゃん抱いている女の子!抱き方が違うんだよ!それじゃあどっちが頭だか分からないじゃないか」
またまた大爆笑。

 場面転換して、豪華なソファと椅子が並び、椿姫のセットになった。乾杯の歌が始まるまでのソリスト達のやり取りに、僕と岩田さんの両方からメスが入る。
「ガストン役の君!ヴィオレッタのパトロンの男爵をもっとはっきり見て、挑発するように『一曲歌いませんか?』と訊ね、男爵がノーの合図をしたのをきちんと見届けてから、アルフレードに向き直って、『じゃあ君やれよ』と歌うんだ。それらの演技は、自分が分かっているだけでは足りなくて、お客様に確実に届くように演じなければいけない」
すると客席からいきなり大きな声の叫びが飛んだ。
「ガンバレー!」
一同びっくりしたが、後で聞くとガストン役の彼のお父さんだったそうである。受講生の中に彼のお姉ちゃんもいたが、父親の余計な行動にかんかんに怒っていたそうである。うーん、実に大阪的でいいね。
「アルフレードは、ガストンにそそのかされて一度は躊躇する。『詩想が湧かない』と言っておきながら、ヴィオレッタが望んでいることが分かると、『実はもう考えてあるんだ』としゃあしゃあと言う。それに対して合唱団はなんらかしらのリアクションを伴って『じゃあ、注意して聴こう』と歌わなければならない。言葉が出る前には、必ずその言葉を出すモチベーションがあるんだ」
 こうした単語レベルでの緻密な表情づけを、岩田さんと二人で行っていった。岩田さんは聴衆に、椿姫という物語が生まれた時代的背景や、そこから導き出される世代ギャップについて語る。ヴィオレッタを抱えるパトロンの男爵の世代と、アルフレードやガストン達のよりリベラルな若者世代とのギャップだ。オペラを漠然と観ていたら分からないが、とても有意義な知識だ。
 乾杯の歌の後半のヴィオレッタの表情がもうひとつしっくりこない。僕が注文をつける。
「いいかい、ヴィオレッタはねえ『人生は歓楽の中にあるのよ』とアルフレードに上から目線で諭すように言うだろう。でもアルフレードはすぐに『それは、あなたが愛を知らないからです』と言い返すんだ。男に対して百戦錬磨のヴィオレッタに向かって、ひとりの田舎男が言うんだぜ。愛の素晴らしさを知ったら、こんな歓楽など捨ててもいいと思うでしょうってことだよ。なんと生意気なって感じだろう。ところが物語が進んでいくと、ヴィオレッタはアルフレードとの愛に生きようと決心して、本当に何の未練もなくあっさりとこの歓楽の生活を捨てるんだ。その最初の伏線がこの会話の中にある。ヴィオレッタさん、あなたはね、このアルフレードの言葉を背中で聞きながら、ときめかなければいけない。男を知り尽くしたあなたが純愛にときめくんだ。これこそ最高のエロチシズムだよ。どうしろってことじゃない。大袈裟になってもいけない。もしかしたら、ほんの小さな筋肉のひとつがピクッて動くだけでもいいかも知れないし、ほんの少し息を飲み込むだけでもいいかも知れない。でも、あなたが全身でそれを感じたら、必ずお客さんには届くから」
と自分の思いを言うだけ言って、僕は岩田さんにフッてしまう。
「こう言ったら、あとは岩田さんがうまくやってくれるんだよね。あははははは!」
でも岩田さんは、待ってましたとばかり舞台に駆け上がり、助け船を出す。
「アルフレードはこの瞬間にシャンパングラスを置いて、後ろからヴィオレッタに向かって真っ直ぐ視線を向けよう。ヴィオレッタはアルフレードの視線を背中で受けるが、アルフレードの声が大好きで、ずっと聞いていたいという気持ちで表情を作るんだ」

 こうしたことを通して、ただの「乾杯の歌」で通り過ぎてしまうこの場面が、なんてときめきに満ちた魔法のような空間に変貌したことだろう。僕は久し振りに魂の充実感を味わっていた。今は大学にも教えに行ってないし、こうしたひとつひとつの動作にまで踏み込んで、オペラのシーンを吟味研究する生活とは縁遠くなっている。
 新国立劇場では、勿論オペラ制作の現場に携わってはいるが、主役はみんな外国から一流の歌手が来て、チャチャチャっと作ってしまう。そこは出来上がった芸術家同士が集まって仕事する場であって、学習の場ではない。こんな練習なんてしていたら、時間がいくらあっても足りないからね。
 でもね、そうした一流の歌手達も、本当に優れた人は、必ずいつかどこかでこういう息の吸い方ひとつまで突き詰めるようなことをしているのだ。ちょうど語学の専門家や翻訳者が、学生の時に、この単語がどこにかかって、この構文の意味上の主語はどこに?なんていう風にひとつの文章にとても時間をかけて研究するようにね。
 若い時には、いくつかの大学で非常勤講師としてオペラを教えていた。でも、もしかしたら今こそ、こうしたことが人に教えられるように自分の知識や感性が成長してきたということなのかも知れない。だとしたら、昔僕に教わった学生達には申し訳ないなあ。若気の至りってことで許してください!



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