アスリートを身体表現する「ファスター」

三澤洋史 

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アスリートを身体表現する「ファスター」
 またまた新国立劇場バレエ公演の話題で恐縮だが、結局5回公演すべて、前半の「ファスター」を客席で堪能した。観ながらこの公演って本当に凄いと思った。何が凄いかというと、振り付け師デビッド・ビントレー氏が、バレエという狭い枠にこだわっていないことだ。そうした自由な視点を持ってみると、バレエダンサーとアスリートって、とても近いところにいるのが分かる。

 この作品では、バスケット・ボールをやる4人組とか、フェンシングの4人組とか、それぞれの種目のコスチュームに身を包んだダンサー達が「競技の踊り」を披露する。競技をやるのではない。競技のエッセンスをバレエに昇華させたものなのだ。
 それは時に競技そのものをカリカチュアしたものであったり、ユーモアを織り交ぜたものであったりするし、いくつかの競技を混ぜ合わせたり(たとえば槍投げに砲丸投げを混ぜるとか、走り高跳びに走り幅跳びを混ぜるとか)、レスリングだか柔道だか分からないけれど要するに「格闘技」というもの全体を表現したりしている。その「格闘技」では、競技中の激しさと裏腹に、お辞儀の仕方がやけに行儀が良くて笑える。
 体操の床運動では、そのまま宙返りでもバク転でも出来そうだけれど、バレエだからそういうのはやらないんだね。でもダンサー達の基本的身体能力が著しく高いので、時にオリンピックそのものを観ているような錯覚を覚える。この人達、方向転換して鍛え直せば、そのままオリンピックのナショナル・チームに入れるんじゃね?
 とはいえ、これはあくまで踊りだ。タイムも点数も計られないし、順位もつかない。その代わり表現している。このへんの境界線に気が付くと、ハッとする。ビントレー氏も、きっとそこを分かっているに違いない。

 浅田真央ちゃんや、高橋大輔さんや、モーグルの上村愛子さんなどが、あの歳で引退とか言っているだろう。何故なのか?それは、いくら芸術的なスポーツと言っても、スポーツである限り、点数がついて順位が決まり、いわゆる「勝ち」と「負け」という結果が出てくるのだ。
 どんなに美しい表現が出来ても、ジャッジが良い点をつけてくれなければ無価値に等しいスポーツの世界。3位のハナ・カーニーよりも、どう見たって愛子の方が良かったろうと思ったって、4位という結果がついてしまったら、「メダルを逃した愛子」というレッテルを貼られてしまうアスリートの世界。勝ち続けることが出来ないと自分で悟った時点で、まだまだこれから人生始まると思われる歳でも引退していくのだなあ。
 一方こちらでは、そんな厳しいスポーツの世界をバレエで表現しているわけだが、こちらはタイムとか点数とか勝ちとか負けの世界ではないんだ。あくまで表現の世界。勿論、良くなかったら次から主役をはずされるとかいろいろシビアな面はある。ジャッジよりも聴衆の反応や評論家の批評が価値を決定するとも言える。その辺が近くて遠い。遠くて近い。スポーツとて身体表現だし、バレエだってスポーツの一種。

 心に重くのしかかってくるのは、アスリートが怪我をする場面だ。不快な不協和音が鳴り渡る。体がボロ切れのように宙を舞う。激しく叩きつけられる肉体。耐え難い苦痛。引き裂かれる希望。それはやがてにぶい不安を通って深い苦悩と絶望とに変わっていく。そうした心の襞に、ビントレー氏の振り付けが触れようと挑んでいる。
 健康であれば人並み外れた能力を発揮出来る選手も、ひとたび怪我に見舞われ、立つことも出来ない状態になったら、タダの人だ。いや、タダの人以下だ。全てを犠牲にしてここまでストイックにやってきたのに、もし完全復帰出来なかったら、自分には何も残らない。空しい。経済的に困窮しても、働くことすら出来なかったら、どうやって明日への希望を持てばいいというのだろうか?そんなどん底の精神状態にまで、このバレエは肉薄しようとしている。バレエにも怪我は付き物だという。だからリアリティがあるのか。

 そして後半。再びアスリートの挑戦が始まる。ここではダンサー達は踊るというより走る、走る、走る!こんなに走りまくるバレエなんて見たことない。途中で、いきなり舞台を横切る競歩の選手にウケる。ここの音楽のユーモラスな響きに感心して、副指揮者にスコアを見せてもらったが、ピアノとクラリネットだけのあっけにとられるくらいシンプルなオーケストレーション。まさに熟練した技だ。
 オーストラリアの作曲家マシュー・ハインドソンが作った「ファスター」は、「春の祭典」や「ペトルーシュカ」などのように、演奏会ピースとして音楽だけ独立して演奏されることには向かないかも知れない。でも、それはこの作品の欠点ではない。この作品は、ビントレー氏の振り付けと一体となってこそ100パーセント生きる作品だ。
 果てしなく続くオスティナートの中に、様々なアイデアや、オーケストレーションによる色彩感の変化が盛り込まれ、驚くべきパワーが炸裂する。その全ての音楽とバレエが連動し融合して、ひとつの舞台芸術を作り上げている。そのコラボレーションそのものが「ファスター」という作品だ。
 曲の最後の盛り上げ方も秀逸。金管楽器のリズムのズラしに群舞が見事に対応する。そしてみんな走り去り、ひとりの選手だけ残って、短距離走のスタート体勢を取ったところで、なだれ打つ最強音で終わる。

 これを見ながらあらためて思った。僕が今実際に行っているスポーツへの関わり方なんて、所詮「なんちゃって」に過ぎないんだけど、それでも今の僕の意識は、なんてアスリート達に近いところにあるのだろう、と。
 でも、考えてみると、僕は昔から、自分のミュージカルで必ずダンス・シーンを作ったし、自分の心の中には潜在的に肉体の躍動感に惹きつけられるものが宿っているに違いない。そして、そんな僕だから、これほどまでに「ファスター」に惹きつけられているのだろう。
 この作品をトップ・アスリートの人達に見せてみたい。一体、彼らはどう反応し、どんな意見を述べるんだろう?

要するに「女の勝ち」か「カルミナ・ブラーナ」
 さて、後半の「カルミナ・ブラーナ」は、もう僕達にとっても3度目の公演なので、内容はやる前から知っていたが、これも毎回新鮮な驚きがある。

 第3曲の「うつくしき春」では、妊婦の踊りが見られる。妊婦とバレエを結びつけるところが意表を突くが、春といえば萌え出ずる新しいいのちだ。そういえば、長女の志保も昨年の今頃は、まだ豆粒ほどの杏樹をお腹の中に宿していて、日に日に大きく育っていった。今回はその記憶があるので、この踊りの発想の豊かさにあらためて敬服する。ちなみに杏樹は今日(4月28日月曜日)で丸5ヶ月になった。
 第6曲の「踊り」では、アイルランド民族舞踏風の足のダンスが見られる。変拍子になると次の利き足が変わるのが楽しい。
 第22曲「楽しい季節」では、男性チームと女性チームとに分かれて争う。最初は男の勝ち、次は女の勝ち。考えてみると、恋とは男と女との間に繰り広げられる戦いのようなもの。そして最後には男が勝つ・・・・かに見える。
 ところが終曲の「おお、運命よ」の冒頭で、女性が男性を小突き、男性は床に倒れ、尻尾を巻いて逃げ去る。「運命」という単語はFortunaという女性名詞。すなわち「運命の女神」というわけだから、我々人間はみんな運命の女神に振り回されているのであるという結論。これはビントレー氏の、
「所詮、男は女には勝てないのだ。女に翻弄されるしかないのだ」
という人生哲学の表れか?第1曲で一人だった女神は、終曲では増殖されて女神のクローンのように同じ踊りをする。

 合唱指揮者の僕とすれば、合唱団をオケ・ピットから出してあげて、一生懸命作りあげた「テキストの明晰さやニュアンス」をもっと聴衆にアピールしたい気持ちもあるが、一方で、こうしたバレエとのコラボレーションという機会がどれだけ重要かが分かっているので、これはこれでいいのだ。今度またコンサートで「カルミナ・ブラーナ」を歌う機会を待とう。 


オペラの読み方
 「カヴァレリア・ルスティカーナ」ってどうして「田舎の騎士道」と訳すか、La traviataを「椿姫」としたように別のタイトルを考えないで、こんな長ったらしいカタカナのタイトルを使い続けているのだろうか?それに、本当はCavalleria(騎士道)の読み方はカヴァッレリーアなのにな。

 このオペラの台本は突っ込み処満載である。美しい間奏曲の後の、後半「家に帰ろう」の合唱。復活祭のミサが終わって、教会から人々が出てくる。最初に男声合唱が、ついで女声合唱が歌う。それから混声合唱になる。

男達  
家に帰ろう、家に帰ろう友よ 
そこでは女達が俺らを待っている 
さあ行こう! 
歓びが魂を癒してくれるこの時 
ぐずぐずせずに走っていこうぜ! 
 
女達  
家に帰りましょう、帰りましょう友達よ 
そこでは夫達があたしたちを待ってるわ 
さあ行きましょう! 
歓びが魂を癒してくれるこの時 
ぐずぐずしないで走っていきましょう! 
(訳 三澤洋史) 

 この歌詞を読んで、おかしいと思わないだろうか。男達が教会にいる間、彼らの妻達は家で夫の帰りを待っているし、女達がミサを受けている間、彼女たちの夫は一緒に教会に行かずに家にいるのか?歌詞を読むだけでなく、これが最初男声合唱で歌われ、ついで女声合唱で歌われるのを聴くと、余計奇異に感じる。
 たとえば東京カテドラル関口教会でも立川教会でも、ミサは8時と10時と2回あるから、この街では、半分の女は8時のミサに出ないといけなくて、その夫は10時のミサに出ないといけない風に決まっているのかも知れない。後の半分はその反対だ。だから、一緒にミサを受けている男女に夫婦は一組もないというわけか。あっそうか!なるほどな・・・・なことあるわけねーだろう。

 その後、みんなが家に帰ろうとしているところを、トゥリッドゥが呼び止める。
Intanto amici, qua,
Beviamone un bicchiere.
「さあ、みんなこっちで一杯飲もうぜ!」
と言うのだが、なんとこのたった一言だけで、教会前広場にいる全員が即座に同意して、家に帰るのをやめるのだ。
 一同は居酒屋のテーブルにつき、グラスにワインをなみなみと注ぎ、
Viva il vino spumeggiante,
Nel bicchiere scintillante.
「輝くグラスの中の泡立つワインよ、万歳!」
と歌い始める。そして朝っぱらからワインを飲み干すのだ。
どんだけ飲んべえなんだ!すぐ前に「ぐずぐずせずに走っていこうぜ!」と言ってたくせに。
まあね、こうしないと乾杯の場面が作れないから仕方ないんだけど、台本が稚拙だねえ。

 と思えば、逆にいろいろ配慮しているところもある。たとえばサントゥッツァはトゥリッドゥの母親のルチアに対してvoi(敬称のあなた)で言うが、ルチアは彼女に対してtu(お前)で呼んでいる。日本では目上と目下があるので、こうした関係は当たり前だけれど、ヨーロッパ、特にイタリアでは、ドイツなんかよりずっとtuを使う世界だから、一般的に息子の彼女を母親が認めていた場合は、彼女にも自分をtuで呼ばせると思う。
 このvoiとtuの関係を日本人はよく勘違いする。tuはそもそも目下に使う言葉ではないし、voiは目上に使う言葉ではない。確かにtuを使おうと決めるのは目上からということはある。でも(よく聞いて下さいね)、これらは互いの距離感を決める言葉なのだ。
 つまり、母親が息子の彼女に距離感を置きたい場合は、彼女に対してvoiというだろうし(現代イタリア語ではむしろlei)、より近い関係を望んだ場合は、自分が彼女に対してtuというだけではなく、相手からもtuと呼ばせるのであろう。つまり、ヨーロッパ世界では、「互いに」voiで呼び合う関係か、tuで呼び合う関係かという二者択一なのである。

 としてみると、この場合のように母親がサントゥッツァをtuで呼び、彼女の方がvoiで呼ぶ関係はおかしいのである。要するに、どこか曲がっている関係なのである。
台本では、Entra「お入り」と言うルチアに対し、サントゥッツァは、
「あなたの家には入れません。あたしはscomunicataだから」
と言う。イタリア語は、単語の前にsが入るだけで意味が正反対になる。scomunicataもcomunicataの反対である。comunicataはcomunicareという動詞の過去分詞だ。comunicareは「コミュニケーションを取る」という意味でもあるし、「コミュニティ(共同体)に加わる」という意味もある。その反対の過去分詞だから「共同体から追放された」あるいは「破門された」という意味である。
だからサントゥッツァは、復活祭なのにミサを受けるために教会に入ることを許されていない。それどころかルチアの家にも入れないと言っているのだから、この村では教会の支配が村の共同体にまで及んでいるのだろう。
 では何故サントゥッツァはscomunicataされているのか?よくある説明では、結婚していないのに内縁関係にあるからだ、というのだが、そんなこといったら、ローラなんか、アルフィオと結婚しているのにトゥリッドゥと関係を結んでいるのを村の人達みんなが知っているし、若い人達の間ではいくらでも起こり得る事ではないか。いちいち破門にしていたら、誰も教会に行く人がいなくなってしまうではないか(笑)。
 だから、内縁関係どころか、もっと深刻な事態でないと破門されているというのが不自然なので、多くの演出では(特に台本では何も触れていないが)、サントゥッツァがトゥリッドゥの子供を妊娠していることにしている。それだって、現代社会ではどうということはないし、昔の閉鎖的社会でも、破門にしたかなという感じだが・・・・タンホイザーのように「ヴェーヌスベルク」に行けば別だ。
 ああっ、そうか!サントゥッツァは、もしかしたらホストクラブのような美形の男ばかりいる「逆ヴェーヌスベルク」に行ったのかも知れない。そしてローマ法王の怒りを買ったのかも知れない・・・すみません!つまらない冗談をいいました。誰も本気にしないで下さい!

 こうした破門という背景があるから、ルチアはサントゥッツァに対して上から目線でtuと呼び、一方、サントゥッツァはルチアをvoiと呼ぶ「一方的で不公平な」関係が見られるのである。ルチアはサントゥッツァを、息子トゥリッドゥにふさわしい相手として認めていないのだ。
 だからルチアは、物語の前半ではサントゥッツァに対してあくまで距離感を保ちつつ、言ってみれば冷たく接するべきなのである。それが、この物語の最後で、決闘による死を覚悟したトゥリッドゥに、
「俺はあの娘に妻にしてやると誓ったから、もし俺が帰ってこなかったらサントゥッツァのお母さんになってくれ」
と言われて初めて、ルチアはサントゥッツァへの見方が変わるのだ。

こんな風に、ちょっと言葉のニュアンスが分かるだけで、オペラは3倍面白くなるのである。



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