カリスマ神父

三澤洋史 

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カリスマ神父
 5月11日日曜日はカテドラルをお休みしてカトリック多摩教会に行った。9時に家を出て自転車を飛ばす。関戸橋を渡り、聖蹟桜ヶ丘駅周辺のビル街を右手に見ながら鎌倉街道を直進する。抜けるような青空。ちょっと暑いくらいの5月の朝。
 こちらから行って左手に道路と平行に走っているのは乞田川(こったがわ)。その両脇に遊歩道がある。ちょっと行って川の向こう側を見るともう白い多摩教会の建物が見えて来た。なんと家から20分で着いてしまった。10時からミサが始まるのにまだ時間があるので、川のほとりのベンチでちょっとだけ休んでから教会に入った。

 多摩教会には一度行ってみたかった。何故ならここで主任司祭を務める晴佐久昌英(はれさく まさひで)神父は、カリスマ神父であるという噂なのだ。晴佐久神父は2009年に多摩教会に赴任してきたが、その前から、行く教会行く教会で洗礼を受ける人が急増し、信者が増え続けてきたそうだ。ミサでは、彼の説教を聞こうと人が押しかけるという噂である。それを一度自分の目で確かめてみたかった。
 僕が聖堂の席に着いたのは結局9時35分くらいだったが、それからどんどん人が来て、そんなに大きくない聖堂内はたちまち人で一杯になった。それだけで晴佐久神父が授けるミサの人気が尋常でないことが分かる。

 10時になった。入祭唱に乗って晴佐久神父が入場。やや細身で精悍な感じ。少年のように見えるが、見かけより歳はいっているのだろう(後で調べたら1957年生まれだというので、僕より2歳若いだけだ!)。ミサが始まった。
「主はみなさんと共に」
といういつもの決まり文句が全く違って響いたのに軽い驚きを感じた。晴佐久神父の言葉に力があるのだ。
 今日は復活祭第4主日。福音朗読のテーマは「羊と羊飼い」。ヨハネによる福音書第10章の1節から10節までが読まれた。その一部を紹介する。

  門番は羊飼いには門を開き、羊はその声を聞き分ける。羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。自分の羊をすべて連れ出すと
、先頭に立って行く。羊はその声を知っているので、ついて行く。
  (中略)
  わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。
 晴佐久神父の説教も、それを受けて行われたが、開口一番、
「みなさん、(群馬県)伊香保のグリーン牧場に行って下さい!」
と言うのには笑った。
 グリーン牧場では、様々な羊の生態を見る事が出来る。僕も昔家族と一緒に行ったことがある。群馬だからね。当時のユダヤでは、こうした羊と羊飼いのたとえを全員が日常のこととして理解出来たであろうが、現代の日本ではなかなかピンと来ないだろうから、こういう所に行ってまずは体験するべしと、神父は言いたかったわけである。
 こうして晴佐久神父は、説教の初めから笑いを誘い、会衆を自分の方へ引き込んでいく。というか、それ以前に、会衆みんなが晴佐久神父の事を大好きなのが伝わってくる。いいなあ。こういう雰囲気が出来上がっていれば、どんな話をしても聞いてくれるだろう。
 さらに話は続く。良き羊飼いは、一頭一頭の羊のことを分かっている。調子の悪い羊がいれば即座に気が付く。時にはその羊自身よりももっと深く分かっている。羊は、だから羊飼いの声を知っている。羊飼いと羊たちの間には絶対的な信頼関係がある。そして、わたしたちにも、そんな羊飼いがいる。わたしたちさえ心を開いていけば、わたしたちは羊飼いによって守られていることに気づくであろう。もう何も心配はいらない。なにがあっても大丈夫。わたしたちは愛されているのだから。

 これまで飽きるように聞いてきた羊飼いのたとえ話が、なんと新鮮に聞こえたことだろう。晴佐久神父のもとには、心の病を抱えた人達が多く集まってくるという。彼はミサの中でも何度も、
「もう何も心配はいりません」
と言う。それを聞く度に、僕自身の心に暖かいものが流れる。僕自身は、何も心を病んでいないし満たされているので、特にその言葉は必要ないのであるが(笑)、それでも何度聞いても心地良い。晴佐久神父を必死で求めて来る人は、彼のこの言葉を何度でも聞きたいのだろうと思った。だから彼もそれを知っていて、何度でも何度でも言うのだ。

 これでもう説教は終わりかなと思った頃、彼は新しい話を始める。要約すると次のような話であった。

 バチカンでは、4月27日、ヨハネ23世とヨハネ・パウロⅡ世の列聖式が行われた。ヨハネ23世は、カトリック教会の歴史を大きく変えた第2バチカン公会議を執り行った教皇。ヨハネ・パウロⅡ世は2005年まで生きていた教皇で、「空飛ぶ法王」と呼ばれ、世界中を駆け巡って精力的に活動した人として知られる。この二人が聖人と認定され、その式がバチカンで行われたのだ。
 晴佐久神父もその列聖式に出席するためにイタリアに渡った。その旅の間にアッシジを訪れた。アッシジの街も、列聖式の影響でもの凄い人で溢れかえっていた。聖フランシスコ大聖堂でミサを受けようと思ったが、入り口の前に大行列が出来ていて、とても入れるような状況ではなかったので、聖クララ教会でミサにあずかった。巡礼団のローマ行きのバスが出るまで少し時間があったので、自由行動となった。
 その時、ひとりの日本人男性が晴佐久神父の前に現れ、
「神父様、祝福をお願いします!」
と言った。彼はその男性に祝福を施した後、少し話をしてみた。
 するとその男性は、晴佐久神父のことをインターネットなどで知っていて、神父の旅の日程を調べ、彼に会いたい一心で聖フランシスコ教会の前で日がな一日彼が現れるのを待っていたそうなのである。それでも現れなかったので落胆して歩き始めたら、向こうの方に日本の巡礼団を案内する日の丸の旗が見えたので思わず駆け寄って行って神父に会えたということである。
「ほらね、この場合、日の丸が羊飼いの声の役目を果たしたわけです」
と言って、晴佐久神父はまた会衆の笑いを誘う。
 その後、神父はその男性に、一緒に列聖式に行かないかと誘った。といってもローマ中どこのホテルも一杯だったので、神父はなんとその男性を自分のホテルの部屋に一緒に泊めたそうである。男性は張り切って、例の日の丸の旗を率先して持って巡礼団の案内役を務めたそうだ。
「彼は羊どころかむしろ羊飼いの役を務めちゃいました」
一同再び爆笑。

 僕が感動したのは、初対面の男性を自分の部屋に泊める晴佐久神父の無防備ともいえるオープンな態度である。自分を慕って来たとはいえ、なかなか出来ることではない。本当に気取らない自然な人間なのだろう。カリスマ神父とひとことで片付けてしまうのは簡単だが、晴佐久神父は真摯に自分の使命と向かい合っている。彼は“本物”だと僕は確信した。心からリスペクトを捧げる。
 時計を見ていたわけではないが、説教だけでゆうに30分はかかったと思う。通常ミサは1時間ほどで終わるが、終了した時に時計を見たら11時25分だったからね。でも飽きるどころか、こういう言葉をミサに対して言うのがふさわしいかどうか分からないけれど、ミサの間ずっとずっと本当に「楽しかった」!
 時間がかかったのは説教と、そして聖体拝領!拝領の行列が果てしなく続くのに心底驚いた。ということは、この聖堂に入りきれない人がホワイエとかにも溢れていたということだろう。凄い!この熱気はなんだ!
 僕は、まだまだカトリック教会に未来を感じられて嬉しかった。再び、爽やかな風を受けながら自転車を走らせ、多摩川を渡り、府中駅に着いて、京王線で初台に向かった。僕の心の中に灯った大きなろうそくの光は、その日ずっと僕を内側から照らし続けていた。そして、これを書いている今でも!

 興味のある人は多摩教会に行ってみて下さい。別に何の予約も要らないし、カトリック信者でなくても、日曜日にただ行って、ミサをぼんやり受けて晴佐久神父の話を聞いて帰ってくるだけでいい。信者でなかったら、聖体拝領の時に行列に並んで神父の前で頭を下げれば祝福してもらえる。きちんと座って説教を聞きたいと思ったら、9時40分までには行った方が良いよ。

「カヴァパリ」ゲネプロまで辿り着きました
 多摩教会での感動を胸に劇場に向かった僕は、初台駅を降りると直接劇場には入らずに、すぐ横の珈琲館に入る。今日はいよいよ「カヴァレリア・ルスティカーナ」&「道化師」のゲネプロ(総練習)の日で、イタリア語の先生を招待していたのだ。
 珈琲館で、しばらく先生とイタリア語で話す。ストーリーを説明したり、たわいもない会話をしてから、彼女を連れて楽屋エリアに入る。そして、一緒にレッスンを受けているK君の楽屋に行く。先生は、K君がいつもと違ったエレガントな衣裳を着て、化粧をしているのを見て驚いていた。

 さて、ゲネプロはつつがなく進み、先生は後でメールをくれた。とても喜んでいた。他に、この公演には乗っていない新国立劇場合唱団の登録メンバーなどにも感想を求めたが、一様にポジティブな反応。僕達当事者には近すぎて分からなくなっていることが多いからね。
 ジルベール・デフロの演出では、合唱団はあまり大きな動きをさせてもらえない。もっとどんどん動ける合唱団員にとっては不満の部分もあるのだが、見ている方は音楽的にも視覚的にも充実しているので気にならないとのこと。
 一方、音楽的には、ところどころ指揮者レナート・パルンボによって極端なピアノが要求されている。これも聴衆から見ると、そういう解釈もアリということで、あとは僕達がそれをきちんと表現につなげて迷いなく演奏するに限るのだと悟った。こうした外部からの忌憚のない意見というものは必要である。

さて、ということでいよいよ本番の幕が14日水曜日から開く。

「アラベッラ」の立ち稽古
 さて劇場では、「カヴァパリ」と平行して、R・シュトラウス作曲「アラベッラ」の立ち稽古が進んでいる。忙しい劇場だ。「アラベッラ」の稽古場に降りると、ドイツ語が飛び交っていて、「カヴァパリ」の雰囲気とあまりに違うので笑ってしまう。イタリア・オペラの活気ある稽古場風景も好きだけれど、ドイツ・オペラの稽古場には、知的な感じが漂っているのだ。イタリア人が知的でないと言うつもりはないけれどね・・・。
 シュトラウスの音楽は、ワーグナーから影響を受けているとはいえ、表現された世界は全く違う。ストーリーはたわいないけれど、上品で洗練された感じがする。甘い音楽はどこまでも耽溺し、一方でマンドリカなどの激しい音楽では、大胆な転調が挑戦的ですらある。

 立ち稽古では、フランス人の演出家フィリップ・アルローだけが一人ラテンな感じだ。僕を見ると腕を大きく広げて抱きついてきた。彼とはバイロイトの時代から一緒で結構仲が良いが、バイロイトでは、立ち稽古の進め方があまりにいきあたりばったりで、アイデアに詰まってくると、不自然な高笑いでごまかしていたので、みんなが困っていたっけ。
 今回の「アラベッラ」は再演。稽古期間も短いので、劇場付きの演出家で回すのかなと思っていたが、フィリップ本人が来たいという意向を示し来日した。僕はちょっと心配していた。またいきあたりばったりで、ただでさえ短い稽古期間の間に、思いつきの変更などどんどんされたらたまったものではないなあ、と思ったのだ。けれど心配ご無用だった。今回のフィリップは要領も良く、結構冴えている。変更はしているけれど、変更した個所はみんなとても良くなっている。

 「アラベッラ」の舞台はウィーン。没落貴族の娘アラベッラが、ハンガリーの大富豪マンドリカと結ばれるまでのハッピーエンドの物語。少女の“王子さま願望”を中心に、退廃したウィーンの社交界の雰囲気などがからめられて舞台が進行する。
 合唱が活躍するのは第2幕から。歌うところは少ないが、ずっと誰かが舞台を横切ったり、賭博したり、踊ったり、喧嘩したりして出ている。後半、マンドリカが、ささいなことから勘違いし、婚約者アラベッラに裏切られたという怒りから様々な異常行動に出る場面が、合唱団を巻き込んでグチャグチャになってとても楽しい。幕が降りる瞬間、札束が舞台一面に舞うのも壮観。主役同士のやりとりの合間を縫って、合唱メンバーのきめの細かい演技を楽しむのも、オペラのもうひとつの楽しみだと思う。

 歌手達の中では、マンドリカを演ずるヴォルフガング・コッホがダントツ。彼はバイロイトでもヴォータンを歌うワーグナー歌手だ。豊かな声を持ち、的確なドラマ性が歌唱から感じられる。アラベッラを演ずるアンナ・ガブラーは、「こうもり」のロザリンデ以来の登場。知的でコントロールの取れた歌唱に好感を持つ。また報告するね。



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