読響「ヴェルレク」に行くべし

三澤洋史 

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上田の演奏会~スクー
 先週5月30日金曜日で「カヴァレリア・ルスティカーナ」&「道化師」公演が終わり、明日の6月3日で「アラベッラ」が終わる。両方とも良い公演になった。「カヴァパリ」の指揮者レナート・パルンボは、僕をハグして、
「本当に素晴らしい合唱だった。ありがとう!」
と言ってくれたし、その「カヴァパリ」最終公演を客席で見ていた「アラベッラ」の指揮者ベルトラン・ド・ビリーは、次の日の「アラベッラ」公演のカーテンコール後、幕が閉じるやいなやすぐに合唱団に向かって、客席にも聞こえるくらいの大きな声で叫んだ。
「君たちの『カヴァパリ』は最高だったぞ!」
「アラベッラ」の指揮者なのに。

 明日の「アラベッラ」千秋楽には、残念ながら出られない。明日の午後に「アラベッラ」に出演していない新国立劇場合唱団のメンバーを連れて、長野県上田に向かって出発しなければならないからだ。あさって6月4日と5日の2日間に分けて、上田市民会館で上田市内の高等学校4校の合同鑑賞会を行う。つまり一日2回公演。明日の夜には、現地でリハーサルがある。
 この演奏会では、日本の歌、世界の歌、オペラに混じって、僕の編曲した「涙(なだ)そうそう」が歌われる。今年夏に群馬県のガトー・フェスタ・ハラダのコンサートでもやる曲だが、それに先駆けてこの編曲における初演だ。
 後半で「あいたくて、あいたくて、君への想い、なだそうそう」という歌詞を繰りかえすところでは、合唱はアカペラになって、ゆっくりとしみじみ歌う。それから再び伴奏が入って盛り上がる。結構感動的に仕上がっている(と手前味噌でいいます)。
 昨年の石垣島における夏川りみのライブ・コンサートでの感動から生まれた編曲だ。練習する度に、石垣島のあの輝く紺碧の海と、そして、2年前に亡くなった愛犬タンタンへの切ない想いが脳裏に蘇る。

 この上田コンサートから帰ってくると、次の日の6月6日はいよいよインターネット授業スクーSchooの収録だ。
こうした新しいことをやる時は、いつも勿論緊張はするんだけど、やっぱり楽しみの部分の方が大きい。なあに、なんとかなるさ!って感じである。先日リハーサルをやってから、講義の構成を少し変え、使用する曲の並びも変えて、より内容が伝わりやすくすっきりさせた。その音資料(WAVE)やパワー・ポイントなどのデータを先方にCD-Rに焼いて送った。あとは本人が当日行くだけ。
 僕の合唱の練習を受けたことのある人にとっては、断片的には、どこかで僕が練習の合間にしゃべっている事が出てくるかも知れないが、まとまって聞くと、「へえっ!」と思うことが少なくないと思う。特に初めての人には、目からウロコの連続ではないか。
 バッハはベートーヴェンやワーグナーなんかと違って、全然革命家には見えない。しかし彼はその実、その後の音楽史全てを支配するほどのイノベーションを起こしているのだ。ある意味「静かな革命家」なのだ。そのキーワードは「統合」と「模範作り癖」。それはユニークなイノベーションに見えるが、本当はこれこそがイノベーションの本質なのかも知れない・・・etc.
さて、この続きはスクーの授業でね。

読響「ヴェルレク」に行くべし
 さてスクーが終わると、次は読売日本交響楽団定期演奏会が待っている。曲目はベルディの「レクィエム」で指揮者はパオロ・カリニャーニである。カリニャーニというと、僕にトータル・イマージョンという水泳のメソードを教え、塚本恭子先生という素晴らしい教師を紹介してくれた人物である。
 パオロのマエストロ稽古がある前の日、僕はトータル・イマージョンの小さいセミナーに参加する。別にマエストロに会う前の話題作りという意味でもないのだが、いずれにしても彼に会ったら、また音楽の話そっちのけで水泳談義で花が咲くんだろうなあ。パウロとは気が合うので、今からとても楽しみである。

 今回の「ヴェルレク」の練習及び本番のスケジュールは、新国立劇場内のどの演目とも重なっていないため、合唱団は文句なしにベストメンバーで構成出来た。昨年のビシュコフ指揮N響及びトリノ歌劇場のエキストラ参加という経験も、構成メンバーはその時によって違うものの、重なっているメンバーも多く、それぞれの中で経験が生きていて、今回の練習は驚くほどスムースに進んでいる。
 みなさん!僕は断言しますよ。これほど断言することはありませんよ!この読響「ヴェルレク」は、これまで僕が合唱指揮者として合唱を率いた全ての公演の中で、恐らくナンバー・ワンのレベルになると思います。
 練習していて新国立劇場合唱団のクォリティはここまで来たんだなあと感無量の想いである。ベルカント唱法のバロメーターであるヴェルディだからなおさらだ。発声が良くないと、いくら頑張っても意欲と根性だけではヴェルディにならない。とはいえ、発声が良くても、その良さを充分に生かせるすべを知らないと、これまたヴェルディにならない。それだけヴェルディのハードルは高い。ベルカント唱法に深い知識を持つ指導者が、ベルカント唱法の高い技術を持つ合唱団を得て、はじめてヴェルディはヴェルディとなるのだ。
 時は来た!今こそ満を持して、我々100人が皆様にヴェルディの神髄と醍醐味をたっぷりと聴かせてあげましょう。ここでしか聴けないヴェルディがあります。「ディエス・イーレ」の激しさやボリューム感だけでなく、「サンクトゥス」や「リベラ・メ」フーガの緻密さだけでなく、むしろ僕は、「ラクリモーザ」の落日のような寂寥感や、「アニュス・デイ」の静謐な祈りの境地を皆さんに味わっていただきたい。

絶対聴いて下さい!読響&新国コラボの「ヴェルレク」!!
第538回読売日本交響楽団定期演奏会http://yomikyo.or.jp/
6月12日木曜日19:00サントリー・ホール

指揮: パオロ・カリニャーニ 
ソプラノ: 並河寿美 
アルト: 清水華澄 
テノール: 岡田尚之 
バス: 妻屋秀和 
合唱: 新国立劇場合唱団(合唱指揮:三澤洋史) 

抜くべき力と抜いてはいけない力
 「好きこそものの上手なれ」という言葉があるけれど、僕の場合、水泳に関してはむしろ「下手の横好き」だな。花粉症の時期も終わり、夏も近づいてきて体が冷えなくなったので、また水泳に足繁く通っている。勿論、昔から見れば少しは上達してきているけれど、普通、こんなにプールに通っていたら、今頃地区大会で優勝くらいまではいくんじゃねーの。
 いやいや、僕は(スキーもそうだけど)そういう競争の世界から離れてスポーツをするのをモットーにしているんだ。それでいながら、じゃあ楽しんでいればフォームなんてどうだっていいかっていうと、そうではないのだ。僕がこだわっているのは、逆にひたすらフォームなのだ。指揮のテクニックに共通する部分があるというのも理由のひとつだけれども、自分でよーく考えてみたら、どうもそれだけでもない。
 要するに、僕という人間は、何かをすると、必ず美しいフォームにこだわる人間なのだということが最近分かってきた。たとえばバッハやモーツァルトの音楽を聴くと、そこに現された彼らの作曲のフォームにシビれる、という風に・・・ベートーヴェンは、逆に、既成のフォームを拒絶して、不均衡ギリギリのところで彼独自のユニークなフォームを築き上げる、その勇気にシビれるんだろうな。
 ということで、水泳は相変わらず下手なんだけど、下手なりにフォームの追求だけはやめない。最近自分なりに改善されてきた二つのポイントがある。って、ゆーか、水泳って(特にクロールって)とどのつまりはこの二つのポイントにつきるような気がする。

 ひとつはお腹の筋肉のあり方で、もうひとつはみぞおちの意識と背中の線だ。親友の角皆優人(つのかい まさひと)君は、以前「お腹を引っ込める」と言った。人によっては、「腹圧を入れる」と言った方が分かり易い場合もある。基本的な姿勢としては、僕もそれを守っていたが、実はそれが崩れる瞬間があるというのに最近気が付いた。
 僕がやっているトータル・イマージョンという泳法は、中高年の人が「楽に泳げる」ためのものだ。しかし気をつけないと落とし穴がある。それは「楽に」と言って不必要な力を抜くのは良いのだが、「リラックスしようとしてお腹をゆるめてしまう」のはいけないのである。
 特に息継ぎをする時が危険だ。息継ぎに気を取られている間に、ちょっとしたタイミングでお腹がゆるんでしまうと、ただちにくの字になって足が下に降りてしまったり、逆にお腹が出てしまって海老反りになり、体幹がゆがんでしまう。お腹の圧力が緩んだ途端、体勢はあっけなく歪んでしまうのだ。
 腹圧を入れるとは、とどのつまりは、腹筋に基本的に力を入れていろということである。何の種目であれスポーツマンであれば、恐らく無意識の内に必要なところに必要な力を入れる事が出来、しかも力が入っているという意識すらないかも知れない。しかし、普段スポーツをやっていない人や、僕のような「なんちゃってスポーツマン」にとっては、こんなことでも案外ハードルが高いのだ。体を「どんな瞬間でも」真っ直ぐに保っておくだけでも、力って必要だし、意識を切らないということも簡単ではないのだ。

 次にみぞおちの意識と背中の線であるが、以前、塚本恭子先生が何気なく言った言葉がある。
「あばら骨の中に内蔵全部を押し込んでしまう感じ」
なんのこっちゃと思っていたのだが、その言葉の深さが分かってきた。
 これはね、みんな勘違いするポイントなのだが、「良い姿勢」を考える時、普通「胸を張る」とか考えてしまって結果的に背中が反ってしまうだろう。これが水泳では厳禁なのだ。むしろ、反対に胸をへこませて背中は「猫背になる」くらいを考えるのが、水泳的に正しい姿勢である。
 たとえば掻き終わった腕が戻ってきて(リカバリー)水に入った瞬間とかに、塚本先生の言うように、内蔵をあばら骨の中に入れて少し猫背になり、頭から突っ込んでいくくらいの意識で重心をなるべく前にして泳ぐと、体が水面に平行に浮いて推進力が得られるのである。
 何故か?それは、水泳のベストの姿勢は「伏し浮き」という「水面に対してまっすぐの姿勢」だが、これが案外難しいのである。人間は空気袋になる肺の位置に浮心があり、足が重たいので実際の重心は腰のあたりにある。だから水に体を浮かべて放っておくと、足が沈んだ斜めの姿勢になってしまう。
 これが物理的には自然なのだが、水泳をする場合はこれではダメで、「伏し浮き」の姿勢をとらないといけない。そのためには、重心をなるべく浮心に近づけないといけない。それが「内蔵をあばら骨の中に」だったり「頭から突っ込んでいく」イメージにつながるのである。実際、その体勢を取ることによって、体が水の中をスーッと走るのを感じる。

 さて、腹圧を入れて頭から突っ込んだだけで、恐らくあなたのスイミングは見違えるように変わるはずだが、そうなると最後の砦に辿り着く。それが「水をキャッチ」するということである。これは、一般に言われる「ストロークの開始のキャッチ」とは違う。本当は一番重要なことなのに、あまりこれまで言われてこなかった。ちょっと説明する。
 リカバリーした手が入水する時に、その入水した手の伸ばし方が重要である。この手の先に重心を乗せる意識を持つべきなのである。つまり、この瞬間は、内蔵はあばら骨の中に入るわ、頭から突っ込むわ、背中は猫背になるわ、伸ばした先の手(それも出来れば指先)に重心を乗せるわで、もう徹底的に完璧な「伏し浮き」の姿勢を作るわけだ。それによって肉体は水の中をシュルリーンと、まるでドームの中を抜けていく弾丸のように、進むはずである・・・・。
 「はずである」と言っているのは、僕ねえ、あんまり上手じゃないの・・・。何故かというと、これを完璧に出来るためには、肩の関節がもっともっと柔らかく、腕が真上に曲がらないといけないのであるが、お歳をめした僕にはなかなか曲がらないのである。
 だからストレッチをしている。真面目にストレッチをやっている時は、シュルリーンの感じがなんとなく得られるのであるが、しばらくやっていない時は、全然ダメなのである。恐らく90度曲がる人のシュルリーン感は、僕のと違ってシュルルルリリーーーンといくだろうとイメージだけは出来る。

 その点に関して、トータル・イマージョンの創始者テリー・ラクリンは、
「腕はむしろ脱力して時計で言うと4時まで曲がれば充分ですよ。人によっては5時でもいいですよ」
と言っている。テリー・ラクリンの偉いところは、自分は勿論もっと速くしかもスマートに泳げるだろうけれど、あえて中高年が恐れを成して逃げないための「ユルユルな」メソードを創ったところにある。
 彼は中高年の人達の肩事情も良く知っているので、自分自身のスイマーとしてのプライドよりも、中高年がそのままの肩で水泳に親しんでくれることを優先させたわけである。実にやさしい人である。だから最初僕も飛びついた。
「これだったら、この歳からでも出来る!」
と思った。しかし、やっているうちに、
「テリーはああ言っているけれど、本当は、入水して伸ばした腕は真っ直ぐ頭の上に伸びた方がいいのだろうし、競泳だったらリカバリーの手も脱力し過ぎないで入水まで持っていった方がいいのだろう。そしてテリー自身も、それを知っていて、あえてこのメソードで割り切って教えているのだろうな」
と気が付くようになった。

 僕みたいの人間は、最も扱いにくいのだろうな。スキーも、最初は角皆君に頼んで「中高年にやさしい」ミウラ・クラシックという板を紹介してもらって、買って乗っていたが、すぐに飽き足りなくなって、「ビュンビュン飛ばせる板を」なんて角皆君に注文をつけて、今のVelocityというやんちゃな板に乗っているんだもの。自分の腕も満足に曲がらないくせに、「中高年向けの」メソードでは物足りないというのかい?
 いやいや、物足りないのではない。僕は、トータル・イマージョンからこの先も離れることはないだろう。でも、お得意の分析癖なんだ。水泳でもいろんなメソードがあるだろう。体をサイドに振るローテーションを沢山した方が良いと主張する人がいるかと思うと、反対になるべく水面にフラットなままで泳ぐ方が良いと言う人もいる。やれ2軸だ、やれX軸だ、手はS字に掻くのが良いかと思うと、いや、やっぱりストレートの方が良いと言い張る人もいる。
 結局、大会とか出ない僕は、どうでも良いといえば良いのだが、どうしたらどうなるという因果関係だけは知っていたいのだ。それを知ってどうするのだ、と言われても返す言葉がないが、要するに僕の場合、こういうことを研究するのが趣味なのでしょうなあ。

 昨年「パルジファル」を指揮していた時には、レガートの時上げる右手は肩甲骨を使ってクロールのリカバリーの要領で運動した。その際、振り下ろす瞬間に、トータル・イマージョンの要領でフッと脱力していた。
 しかし、今年は「入水するまで」脱力はしない。レガートの緊張感が途切れないために。昨年と同じなのは、その振り下ろす時に、反対側の腹筋を少し緊張させてX軸を感じる事。それは、水泳で2ビート・キックをしながら、過度に体がローテーションしてしまわないための腹筋の使い方でもあるし、スキーでコブを滑る時の谷側を向いた外向傾の姿勢でもある。でも、もっと徹底させたい。肩甲骨から腕を動かすことは最重要なので、これもどんな瞬間でも忘れないようにしたい。
ほらね。分析癖でも役に立つことあるでしょう。



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