がっかりすることばかりの我が国

三澤洋史 

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セクハラ野次
 一体なんだ!あの野次は!普通の場所で普通の人が誰かに言うのだって許し難いことだろう。それが、国民から選ばれたれっきとした都議会議員が神聖なる議会の中で飛ばした野次だというんだ。
 だいたい塩村文夏議員に向かっての、
「はやく結婚した方がいいんじゃないか!」
「子供は産めないのか?」
という言葉は、議題となっている晩婚支援策や子育て支援の議論の発展になんの貢献もしないばかりか、ただただ壇上に立っている彼女個人への侮辱中傷に過ぎないではないか。

 でもね、マスコミにも狡さがある。テレビは、この野次の瞬間とその後の涙目の塩村議員の姿だけを繰り返し繰り返し映し出し、塩村議員に対する同情を仰ぎつつ、攻撃の矛先を、野次を飛ばした議員のみに集中させている。
 何故かというと、この野次を発した張本人を捜し出し、これをスケープゴートにして辞職にまで追い込むことに「今は」全力を注いでいるからだ。側にいる議員達は、それが誰だったかみんな知っているのに隠しているだろう。それをあばくことには、イジメ的な面白さがあるからだ。そして視聴率は上がり、雑誌は売れるのだ。
 さて、そして当事者の議員が辞職するとする。次に来るのはきまって塩村議員へのバッシングだと思う。マスコミはすでに知っているのだ。元放送作家でありタレントであった塩村議員にも、これまでの素行の点で突っ込み処がないわけでないことを。でも、今それを放送すると議員辞職の方向性がブレるので、マスコミはあえてそこに焦点を合わせないのだ。こうして上手にレールを敷いてあげると、とても分かり易いので、国民はまんまと乗せられるのである。

 しかしながら、だからといって、僕は野次を飛ばした議員の肩を持つわけではないからね。神聖なる議会の場では、スピーチしている人間性がどうであれ(そんなこといったら、聖人でなければ壇上に立ってはいけないことになる)、その人物が提供した“話題そのもの”に対して議論がなされるべきである。
 それに対し、あの種の野次の意図とは、壇上にいる個人に向けられた意図的中傷であるので、これは犯罪行為に限りなく近い行為である。問題はこういう愚かな議員がひとりいたというだけではない。その議員は、少なくとも、あの場でああいう発言をしても許されると思っていただろうし、他に賛同してくれる人がいるだろうと思ったから野次を飛ばしたのだ。ということは、ああいう野次が飛べる温床があったということだ。これまでにも似たようなことが繰り返し行われてきたのだろう。
ああ、なんて思想性が低いのだ!日本の政治家って!

 このニュースはすでに海外にも伝えられていると聞く。イギリスでは、セクハラどころか“性的虐待”として大きく問題視して伝えられているという。もう恥ずかしくて日本人でいることが嫌になるほどだよ。
 その議員は分かっているのだろうか。
「はやく結婚した方がいいんじゃないか」
という言葉によって、全ての結婚を望んでも叶わない女性を敵に回したことを。
「子供は産めないのか」
という発言によって、不妊治療などをしながらなかなか子宝に恵まれなくて苦しんでいる全ての女性、あるいはそれを支えている男性をも敵に回してしまったことを。

 民主主義は言論から始まる。議会は言論と言論による真摯な議論から始まる。人類は言論の自由を沢山の血を流しながら勝ち取ってきた。その言論を大切にしない議員は、民主主義を担う資格はない!

ああ日本的サッカー
 対ギリシャ戦は、朝の7時からやっていたので、じっくり観ることが出来たが、なかなかもどかしい試合だったのう。今や、本田、長友、香川、川島をはじめ、みんな国際的な場で活躍している一流選手ばかりだというのに、どうしてみんな集まると、なんのことはない、後方でのパスは鮮やかで日本側にばかりボールが渡っていながらゴールだけは決して出来ない、昔ながらの日本的サッカーになってしまうのだろうか?

 僕は常日頃思っていることがある。それは、
「日本では、才能がある人材がいても、日本社会というシステムが、その才能を生かし切れない。」
ということであり、今回のサッカーを見て、僕は、
「日本人の優秀な人材のそれぞれの能力は、日本人だけで集まってしまうと、日本的社会を作ってしまうことによって、充分に発揮できなくなる」
という確信を持つに至ってしまった。

 ヨーロッパにいると、先輩後輩も年功序列もない。丁寧語も謙譲語もない。チームの中では全員、イタリア語で言えばtu(君)で呼び合っている。あるのは実力の世界だけである。キャリアがあっても今が駄目なら、後輩からリスペクトを持たれることもない一方で、どんな若くても結果を出せる者がベテランの目の前でのし上がっていく。
 そんなヨーロッパ的社会の中で腕ひとつで頑張っている日本人でも、ひとたび世界中から選ばれて集まり、日本人だけでチームを組むと、自然に日本人的社会を作ってしまうのではないか。たとえば先輩後輩のしがらみだったり、恩を受けたあるいは与えたという意識であったり、言い難い上下関係・・・たとえば人気ナンバーワンの本田の前に出てはいけないというかすかな遠慮であったり・・・・。
 そうでないと僕には納得がいかないのだ。過去の2つの試合を観ていて、彼らひとりひとりが、実力を出し切った試合だったとはとても思えないから。彼らひとりひとりのプレイを見ていても、単独でそれぞれの外国のチームの中で活躍していた方が絶対ベターだろう!ここではむしろ、
「どうしちゃったの?こんなに役者が揃っているのに?」
という感じだろう。もしかしたら、役者が揃い過ぎちゃったから、身動きが取れなくなってしまったか。オペラではよく起きる現象ではある。
 テレビでよく観る日本の一流オーケストラだって、これだけのプレイヤーが揃っているのに、なんでこれだけの音楽しか出来ないのかとよく思う。それが日本的社会のシステムからくることは明らかなのだ。
 いや、ザック・ジャパンもそうだとは思いたくない。僕の仮説をくつがえしてくれ!まだ対コロンビア戦が残っている。現実は相当に厳しいが、ここでコロンビアを倒すという奇蹟を起こしたらカッコいいぞう!みんな見直すぞ!
日本人でありながら日本人を超えよ!アスリート達!

またまた集団的自衛権
 このホームページで政治的意見を書くのは本当はあまり好まない。ここは基本的には音楽家三澤洋史のコーナーであり、僕の政治的意見によって僕に対する不信感を持たれてしまい、その結果音楽家としての評価も下がってしまったら不本意だからである。
 だからなるべく意見は書かない。その代わり事実だけを書くよう努めよう。つまり「集団的自衛権についてどう思うか?」は書かないが、これがすでに憲法第九条に反していることは、意見ではなくて事実である。

 先週この問題についてコメントを書いた直後に、新聞に出ていたのは、政府が「国際法というものを拠り所にして集団的自衛権を発動させようとしている」という記事であった。「日本の存立が脅かされ、国民の生命、自由および幸福追求の権利が根底から覆されるおそれがある」場合には、自衛権発動が認められ、その場合の武力行使は「国際法では集団的自衛権にあたる」と明記した。おおっ、もっともらしく国際法を持ち出してきたな。

 でも、ちょっと待て!日本は独立国家なのに、国際法が戦っていいと言えば“自国の憲法を無視しても”戦争をするんか?国際法ってそんなに偉いんか?それぞれの独立国家の尊厳をどれだけ越える権限をもっているのだ?そしてどれだけ強制力をもっているのだ?世界中の国が国際法に従わないといけないんか?
 それより、上の文章をどんな風に読んだとしても、日本の自衛隊の船が武器を携えてインド洋に行って、米国の船に攻撃をしかけてくる他の国の軍隊に攻撃していいとは解釈出来ない。船に乗ってる自衛隊員の命が脅かされることが、即、日本の存立そのものが脅かされたり、国民の生命、自由および幸福追求の権利が“根底から”覆されることにはならないからである。
 そもそも、自衛隊が存在していることがギリギリ憲法違反でないとしても、その自衛隊が武器を携えて日本の領域外に出て行くことは、もう立派な憲法違反である。これは意見ではない。これを正当化出来る理論があったら、恐らく太陽を見て、「あれは月だ」と言えてしまうであろう。

夢のスイム・レッスン
 さて、もう嫌な話はやめよう。この週末の僕の動きを列挙する。6月21日土曜日10時。東京バロック・スコラーズの練習。クリスマス・オラトリオの練習。初夏なのにクリスマスの曲をやるのはなんだか場違いの気がしたが、それは最初だけで、第1曲目の素晴らしさには時期もなにも関係ないですなあ。
 その後、湘南新宿ラインに乗って群馬県の新町に向かう。新町では4時過ぎからスイミングのレッスン。7時からは新町歌劇団の練習。新町の実家に泊まる。6月22日日曜日。朝から名古屋に向かう。1時より名古屋モーツァルト200合唱団の練習。モーツァルトのレクィエムを無理矢理通そうと思ったが、途中までしかいかなかった。モーツァルトの合唱曲の声の作り方は、ロマン派以降とは違うが、さりとてバッハとも違う。合唱団の声作りに焦点を絞っての練習。自分としても、モーツァルトの声の落とし処がはっきりしてきた。

 このように超多忙に見えるが、これでも今週から突入する怒濤の夏から見ると、まだ余裕があるのだ。特に土曜日午後の水泳のレッスンとその後の語らいは、大いなる精神的リラックスさを僕に与えてくれた。スキーもそうだけど、僕は、活動しながらリラックス出来る人間なのである。
 今回のレッスンは、ちょっと特別であった。それは、この欄でもよく登場する親友の角皆優人(つのかい まさひと)君がまたまた出没したのである。先日の上田市の演奏旅行からわずか半月しか経っていないというのに・・・。
 事の発端はこうである。プロ・スキーヤーである角皆君は、水泳の分野でも、マスターズ・スイミングで常に全国的にトップ・レベルを維持しているスイマーである。でも、昨年首の手術をしてからは、体の一部にちょっと麻痺が残っていて、そのリハビリのために、競泳用のトレーニングとは別な泳ぎ方を研究していた。その最中に、トータル・イマージョンの創始者であるテリー・ラクリンの泳ぎ方に出遭ったという。
 彼は、僕がトータル・イマージョン(以下TIと書く)を習っていることを知っていたので、ある時、僕のレッスンを見学したいと言ってきた。
「ええっ?こんな下手くそな僕のレッスンなんて見学したって、なんにも得るところないと思うよ」
と答えたのだが、まあ、僕の泳ぎというより、どうレッスンで先生が導いていくのか見たいということなのでOKした。
 高校時代からお互い欠点もなにも知り尽くしている間柄だから、今更彼の前で見栄を張る理由もない。それに、僕はかねてから尊敬する塚本恭子(つかもと きょうこ)先生を角皆君に会わせたかったので、塚本先生に言ってレッスン見学を快く承諾していただいたのである。

 先日、僕はTI本部が主催するウェルカム・イベントという初心者用セミナーを、一般の人に混じって受けて、基本ドリルをやっていろいろ気づきがあった。さらにその後、まるで小学生のようにほとんど毎日のようにプールに通っていた。それで、以前より随分泳ぎが変わったのだが、それが果たしてきちんと正しい方向に行っているのかどうか、塚本先生に確かめてもらう必要があった。
 結論を言ってしまうと、かなり良くなっていたようだ。でも、やはりいくつか癖があり、それを矯正してもらった。角皆君と奥さんの美穂さんは、それをプールサイドから眺めたり、自分もプールに入って水中から見たりしていた。

 何と言っても楽しくかつ有意義だったのは、水泳後のお茶を飲みながらの4人での語らい。角皆君とは、いつもの音楽談義でもなくスキー談義でもなく、水泳の話題というのが、現在の僕たちの友情の幅の広さを物語っている。
 角皆君と塚本先生というトップ・スイマー同士の話題は、聞いていて飽きない。角皆君は、歯に衣着せぬという感じでTIへの疑問を塚本先生にぶつけ、彼女もそれに淡々と答える。たとえばリカバリーした手の入水角度の話。
「テリー・ラクリンのビデオを見ていると、入水した手が結構下ですよね。実はTIでひとつだけ納得出来なかったのが入水角度でした。これだと水の抵抗が大きいですよね。でも今日塚本さんの泳ぎを見ていたら、真っ直ぐ伸ばしてました。これは?」
「勿論、フラットの方が抵抗が少ないです。フラットでも体幹を維持できる人にとってはベターです。でもTIでは、誰でも体幹を意識できること(手を下げると比較的簡単に足が上がる)と、力まないでゆったりと泳ぐことが先決なのです」
 やっぱりそうかあ。僕も疑問に思っていたことが一挙に解決。つまり以前この欄でも書いていた肩の関節の話が関係してくるんだ。まず腕が真っ直ぐに伸びないと泳いじゃダメ、ということになると中高年にとって水泳のハードルが一挙に上がって嫌になってしまうでしょう。でもTIでは、そこで抵抗が生まれても(もともと短距離でタイムを競うわけではないのだから)、別の要素で補って水泳に親しんでもらおうと割り切っているわけだな。テリー・ラクリンのフォームは、TIという組織とすると模範的フォームかも知れないけれど、いわゆる泳ぎにとっての絶対的フォームという意味ではないわけだ。
 塚本先生は、自分自身では競泳もやっているので、その練習方法などを逆に彼女の方から角皆君に聞いたりもしていた。

 僕は、数年前まで、スポーツなんて何もやらず、音楽の他に交流関係も特に持たず、ひたすら働いていたけれど、そうすると発想が自分の中をどうどう巡りするばかりで、かえって音楽もつまらないものに留まっていたかも知れないと、今となっては思う。一見無駄なように見えても、こうした音楽以外のところでのアクションや交流は、今の自分の音楽へのアプローチにも大きな影響を投げかけている。
 指揮への影響ははっきりしている。すなわち体幹への意識だ。水泳はスキーと違って、ゲレンデの形状や雪質などの外的状況に左右されない分だけ、水中のわずかなフォームの変化が泳ぎ全体の変化に直結する。極端な話、指先1センチの角度の変化が、水流への抵抗に大きく関係してくる。こうしたチマチマした変化にこだわるのは笑えるけれど、これが結構ハマる。でも、ある時気づくのだ。
「まてよ、自分の指揮の仕方にこんな風に批判的になっていたであろうか?」
と。そこで、同じように振り方を吟味する。すると、まだまだ至るところに無駄があることが分かるのだ。
 このようにして僕の指揮の仕方は、水泳の進歩に比例してかなり変わってきた。特にレッスンをしてもらうごとに変わる。自分で勝手に泳いでいる内に、癖って自然についてくるもので、本筋でない別の要素にこだわったり、ちょっと誤解して間違った方向に泳ぎが流れたりする。
 その傾向性は、実は水泳だけに限らないのだ。それは、僕という人間の全ての行動や思考方法の傾向性から来ているのである。だから、水泳のレッスンで直されると、連携して指揮の運動も矯正されるし、オーバーに言えば、僕の生き方の矯正にまでつながる。人生奥が深いのである。

 塚本先生とは駐車場で別れ、角皆君夫妻は、僕を自分達の車に乗せて新町歌劇団の練習所まで運んでくれた。車には子猫のシロちゃんが乗っていた。純白で目が青い。こんな可愛い顔をしているのに、外に出てねずみやモグラや時には蛇なども捕まえてきて、ご主人様の角皆君に自慢げに見せびらかし捧げるのだという。自分のお腹の下にトカゲを生かしておいたまま腹ばいになってじっとしていて、逃げようとするとつかまえて遊んでいるという。猫って、こんな華奢でいたいけない姿をしながら、ある意味、犬よりずっと“けだもの”なのね。
 彼らはその日は白馬までは戻らずに、上田のご両親のところに泊まると言っていた。僕達の友情はまだまだTo be continued。



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