最高の“うた”をジュピターから・・・

三澤洋史 

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怒濤の7月に突入
 高校生のための鑑賞教室「蝶々夫人」立ち稽古が順調に進んでいる。この原稿が皆さんの目にとまる7月1日火曜日には、僕は東京フィルハーモニー交響楽団のオーケストラ練習をしている。ひさしぶりの「蝶々夫人」の指揮に心も体も意気揚々。
 水泳で鍛えているので体は軽い。でも練習が立て込んでいてプールに行けないのが残念。水泳と指揮で使う筋肉は確かに近いが、今回初めて気が付いたのだけれど、指揮の方が首筋あたりの限定した筋肉を緊張させる。だから肩が凝りやすい。カラヤンが演奏会を振り終わった後でひと泳ぎする気持ちが分かった。水泳は、腕から肩の筋肉全体を大きく使うから、TI(トータル・イマージョン)のようにゆったり泳ぐと、指揮で凝った筋肉をほぐすことが出来るのだ。ああ、家にプールがあって、朝イチと就寝前に泳げたらどんなにいいだろうか。

 7月1日には、同時に僕にとっては大事なことが起きているはずだ。群馬県高崎市が出している広報高崎に「おにころ合唱団募集」の記事が出る。最初から説明しよう。来年すなわち2015年8月23日日曜日に、高崎市の群馬音楽センター大ホールで、僕の作ったミュージカル「おにころ」が上演される。これまで新町文化ホールで新町歌劇団によって上演されてきた過去6回の「おにころ」公演を高崎市が評価してくれて、今回の運びとなった。これまでの弦楽器1本づつの伴奏と違って、群馬交響楽団がオーケストラ・ピットに入ってくれる。
 新町歌劇団は勿論これまで通り関わるのだが、せっかく高崎でやるのだから、合唱団は高崎市で公募しようということになり、10月に練習を発足するべく7月の広報高崎に掲載して団員募集をかけたのである。
 この高崎おにころ合唱団と新町歌劇団は二人三脚の形で練習を進めて行く。すなわち、新町歌劇団が高崎に行って合同練習したり、高崎の人も自由に新町の土曜練習に参加したり出来るのだ。高崎おにころ合唱団は、高崎市在住及び在勤在学が基本条件だから、それに当てはまらない人は、新町歌劇団から出演すればいいわけだ。

 僕は、来年3月3日に満60歳となり、還暦を迎える。その還暦年にはいろいろな公演が計画されている。まず4月に浜松バッハ研究会の「マタイ受難曲」で始まり、7月には名古屋でマーラー作曲「嘆きの歌」初演版全曲を演奏、そして8月に高崎の「おにころ」、9月はじめに名古屋モーツァルト200合唱団でブラームス作曲「ドイツ・レクィエム」、同じ9月にウィーンでマーラー作曲交響曲第2番「復活」の演奏旅行(これについては後日詳しく書くつもり)、そして締めとして2016年2月(予定)に東京バロック・スコラーズ創立10周年記念演奏会のバッハ作曲ロ短調ミサ曲という具合である。
 ご覧の通り、その立て込んでいる夏の演目の真っ只中に自作ミュージカル「おにころ」高崎公演があるわけだ。ある意味、これまでの僕の人生の集大成のような公演ばかりが並んでいる。これが終わったら気が抜けて死んじゃうんじゃないかとも思うが、どっこい、2016年からは、名古屋ワーグナー・プロジェクトによる「ニーベルングの指環」全曲シリーズが始まるし、東京バロック・スコラーズも次の10年に向けて走り出すので、まだまだ死ぬわけにはいかない。
ちなみに、おにころ公演の出演者は以下の通り。
おにころ 泉良平
桃花 前川依子(まえかわ よりこ)
庄屋 大森いちえい
喜助 田中誠
うめ 内田もと海
伝平 初谷敬史
 それよりも、今の僕にとって急務なのは、さしあたって今年の7月を乗りきることだ。「蝶々夫人」の公演は7月9日(水)、10日(木)、11日(金)、12日(土)、日曜をはさんで14日(月)、15日(火)、のそれぞれ13時から。その間の日曜日の13日には、東京六大学OB合唱連盟演奏会で、自作のLe Preghiere Semplici「イタリア語の3つの祈り」を指揮する。そして20日日曜日には志木第九の会で、メンデルスゾーン作曲オラトリオ「聖パウロ」演奏会だ。
 7月24日には、日本テレビ主催の読売日本交響楽団のフォーレ作曲「レクィエム」に、新国立劇場合唱団と共に出演する。指揮は若手の石川星太郎さん。公開の収録演奏会の前に、AKB48の松井咲子さんのインタビューを受けることになっている。
 その後、7月に2度ほど北海道に行く。今、新国立劇場は、北海道教育大学と提携していて、8月7日に函館で北海道教育大学で組まれた合唱団と新国立劇場合唱団の合同での演奏会が行われる。その現地の合唱団の練習のために行くのだ。
 昨年は、この時期に石垣島に妻とふたりでバカンス旅行に行ったが、今年はこんな風に全く休暇が取れないので、せめてもと、その練習の一回に妻を連れて行って、練習の合間に函館の街を巡り歩く予定。初めての函館はかなり楽しみ。

停滞列島
 今の日本は、なにもかも停滞している。ザック・ジャパンは、優勝候補とかマスコミが持ち上げておきながら、なんのことはない、最初にワールドカップに出場した頃のパス・サッカーに戻ってしまった。そろそろ日本社会風サッカーは全く通用しないということを、世界のサッカーを見ていて気づくべきだ。
 コロンビア戦を見ていて、ボールの大半は日本チームの側にあったが、一度相手に取られてしまったら、そのドリブルの速度たるやもの凄い。あっという間にゴール近くまで疾走していって、息つく暇なくゴールへ。後半は面白いように点を入れられて、敵国ながら惚れ惚れしながら観ていた。こうでなくちゃ、と思った。
 このザック・ジャパン完敗と、ちょっとばかし景気が戻ったことをいいことに調子づいて国民をナメまくっている安倍政権&お上の決めることとあきらめムードの日本国民の雰囲気が、見事にシンクロしている。
 公明党の集団的自衛権への反対姿勢は、最初から単なるパフォーマンスだと思っていたが、あまりに馬鹿馬鹿しい理由で一気に合意に至ってしまった。

  1. 他国に対する武力攻撃が起きて、国民の生命、自由、幸福追求の権利が根本的に否定されるおそれがある場合」などに武力行使をすることができる。
  2. 日本と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が起きて、国民の生命、自由、幸福追求の権利が根本的に否定される明白な危険がある場合」などに武力行使をすることができる。
Aが最初の政府の草案。Bが公明党が受け容れた修正草案。これによってより限定的になったので、受け容れることが出来たということである。ふうん、こんなレベルで受け容れるか受け容れないか迷っていたわけか。
 というより、僕が言いたいのは、日本では、言論の力がなさ過ぎる。みんな、言論というのものがどんなに大切なものか分かっていないのだ。民主主義の根幹のところに多数決があるが、これは、言論と言論とを対峙させ、どちらがより論理的で整合性があるかをみんなが判断し、その結果賛否を採って賛成多数を採択するという制度である。最初から「問答無用」と数で押し切る制度ではない。
 だから、最終的に公明党が賛成するとしても、僕はその「落とし処」にこだわりたいのだ。どんな論理で公明党は変わったかが重要なのだ。それが、こんな子供だましの言葉の言い換えだけで通っちゃうとしたら、本当に知性のない恥ずかしい国だ。

 都議会でのセクハラ野次問題では、マスコミの追求はあきれるほど鈍い。いろいろな所と密接につながっている自民党への敷居はとても高いと見える。猪瀬さんの時には、あんなに面白がって辞任にまで追い込んだのに、長いものに巻かれてはいけないマスコミは、一番長いものには喜んで巻かれてしまうのか。鈴木章浩議員が名乗り出てきたけれど、問題は、複数の人達があんな内容の野次を出せる雰囲気そのものだろう。そこにメスは入れないんだね。みんなして歯切れが悪い。
 巷では、脱法ハーブを吸った男の車が暴走し、多数の人をはねてしまった。どっちを向いてもダメダメ日本の風景が至るところに見いだされる。あーあ、たまには日本人であることを胸を張って誇れるようなニュースがないかなあ・・・。

最高の“うた”をジュピターから・・・
 9月7日に名古屋モーツァルト200合唱団の演奏会がある。メインプログラムは、モーツァルトの「レクィエム」だが、前曲としてジュピター交響曲をやる。今日は名古屋ムジーク・フェライン管弦楽団の練習。初回なので、勿論まだまだ完成度は低いが、ジュピター交響曲の素晴らしさに、あらためてシビれた。
 高崎高校の一年生の時、親友の角皆君の家に行って聴いた一枚のレコードが、僕の人生を変えた。それが、カール・ベーム指揮ベルリン・フィルのジュピター交響曲。終楽章を聴いて、こんな天上的な音楽が世の中にあるのかとびっくりした。
 あれから果てしなく時が経っている。それなのに終楽章を聴くとあの時の感動が時を超えて胸に蘇ってくる。ベルリン・フィルではなくアマチュアのオケなのに、関係なくじーんとくる。素人っぽいな、と思うが、こういう感情が自分の中から自然に起こってくることを僕は否定しない。

 初めて聴いた演奏って、いつまでも原体験として体に染みついているよね。僕もベームの演奏の細部まで頭に思い浮かべることが出来る。とはいっても、僕が具体的にやる演奏は、ベームとは全然違う。
 今回の解釈に頭の中で落ち着くまで、いろいろ試行錯誤があった。僕の中には、自分が音作りをするための音響的原風景として、カラヤン~ベルリン・フィルによるゴージャスなサウンドがある。一方で、かつてオリジナル楽器でバッハもモーツァルトも演奏した経験があり、古楽的なアプローチも自分の引き出しの中にある。
 この真逆なふたつの価値観のどのあたりに自分の座標軸を定めるかというのは簡単ではない。各楽章のテンポやフレージングはおろか、音符ひとつの長さを決めるのにも、作品全体のコンセプトが決まらないと決定出来ない。

 結論から言おう。今回のキーワードは“うた”だ。僕はモーツァルトの音楽から“うた”を聴こうと決心した。しかし、その“うた”に近づいていくのはとても難しい。何故ならば、モーツァルトの“うた”は、本当につかの間で、
「いいなあ」
と思った時には、すでに通り過ぎてしまっているから。また、それを追いかけようとして、テンポを変えて疾走感を止めたりしてはだいなしなのである。はかなく過ぎていく時の中で、うたかたのように現れては消えていくカンタービレを、生きたまま傷つけずにスッと捕らえるような凄技(すごわざ)が求められるのだ。
 さて、今日の練習はどうだったのか?“うた”は捕らえられたのか?いやいや、まだ始まったばかりだから・・・とはいえ、第1楽章を丁寧に練習していたら、あることに気づいた。そのあることとは・・・・?
 コントラストを創り出すためのフォルテの激しい楽想によって中断されたそれぞれの“うた”は、向こうの世界ではつながっているということ。だから、カンタービレの個所が来る度にいちいち“うた”を最初から掘り起こすのではなく、まるでトンネルから抜けた新幹線のように、中断された間もそれは走り続けていて、現れた瞬間にはいつも飛び切り新鮮な“うた”がそこに100パーセント存在していなければいけないこと。
 一方で、その“うた”を中断するコントラストによって、音楽に不均衡を持ち込むモーツァルトの天才性にも全く脱帽させられる。第1楽章の第2主題の後、音楽が急に電池が切れたように中断すると、間を置いて突然ハ短調の厳しい音楽が鳴り出す(81小節目)。こういう大胆さは、ベートーヴェンのさきがけを成すものである。

 これから本番まで、何度もこの曲と様々な角度から向き合える。ムジーク・フェライン管弦楽団というアマチュア・オケならではの特権だ。「パルジファル」の時も思ったけれど、プロの方が常に良い演奏を出来るとは限らない。仕上げることだけで出来たと思う勘違いがプロでは至るところに見いだされる一方で、本当にその音楽と向かい合い、時間と労力をかけたアマチュアの凄さに驚かされてもいる今日この頃だからである。

最高のジュピター交響曲を奏でたい!
最高の“うた”をモーツァルトから引き出したい!



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