ドイツの優勝を讃えて乾杯!

三澤洋史 

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ドイツの優勝を讃えて乾杯!
 いやあ、良い試合だった!それにPK戦に持ち込まれないで、延長戦とはいえ本試合の中で勝負がついたのも良かった。負けたアルゼンチンの実力も大いに讃えたい。双方とも攻撃もディフェンスも申し分ないので、一秒たりとも目の離せない息詰まるような戦い。これこそ王者を決めるにふさわしい充実した決勝戦であった。
 決定的な瞬間は、Schürrleがパスを渡しGötzeがシュートを決めた・・・というようにウムラウトのつく選手が多い。本当は、シュルレ、ゲッツェという日本語ではとうてい表せない難しい発音の名前なんだ。
 またSchweinsteigerというのも、いかにもドイツっぽい名前。Schweinは豚の意味でsteigenという動詞は登るという意味だからシュヴァインシュタイガーは「豚を登る人」という意味。ドイツ語的にも笑ってしまう。彼は足を蹴っ飛ばされたり顔から血を出したりしながらよく最後まで頑張った。
 この試合でも圧倒的な力を見せつけたのは、やはりゴールキーパーのNeuerノイヤー(新しい人の意味)だ!まさに捨て身の覚悟でゴールエリアの端ギリギリまで出て行ってボールにパンチをくらわせ、自らも地面に倒れこむ。この「最後の守りの揺るぎなさ」がどれだけドイツの選手の心の支えになっていたか。
 仮にPK戦になっても、ドイツにはノイヤーがいるさという安心感すら僕達の心にはあった。往年のオリバー・カーンも素晴らしかったが、ノイヤーにはある静けさと透明感が漂っていて僕はとっても好きだ。よくドイツにはいるんだ。こういう強くてやさしい人が。
 延長戦の最後の最後で、アルゼンチン側のフリー・キックとなり、アルゼンチンの勇者メッシとベスト・キーパーのノイヤーとの一騎打ちの形となった。勿論ドイツを応援していた僕にとっては、メッシに点を入れられては困るのだが、この瞬間だけは、
「ここでメッシがゴールを決めたら、まさにワールドカップのラストを飾るにふさわしい瞬間となるな」
と思ってしまった。メッシも頑張ったが、本当の持ち味を出すところまでには至らなかったな。
 ふうっ!これでもう寝不足にならずに済む。ドイツのサイトを見ると、真っ先にWir sind Weltmeister !「我々は世界の覇者!」と出ている。おめでとう!ドイツ!君たちは僕の誇りだ!我が家では今夜、妻に頼んで、国立の有名なソーセージ屋さんのノイフランクでソーセージを買ってこさせ、ビールとドイツ・ワインでお祝いをするんだ。

怒濤の波を泳ぎ切ろう
 怒濤の7月も半ばにさしかかり、僕にとっては、「蝶々夫人」の6公演が、14日月曜日の夜現在、明日の1公演を残すのみとなった。後で触れるが、東京六大学OB合唱連盟演奏会での自作Le Preghere Semplici「イタリア語の3つの祈り」の演奏も昨日無事終了した。そうなると、残すは20日の志木第九の会の「聖パウロ」演奏会だ。これが無事終了したら、とりあえず一段落つく。

 公演には勿論精神力を必要とするが、肉体的にはすこぶる元気である。それは大事を取って休養をいっぱいするから元気なのではなくて、むしろその反対である。散歩をし、指揮をし、水泳をしている毎日である。唯一の問題は、先週でも触れたが、長時間指揮することによる肩への負担だ。
 これについては、オーケストラを指揮した後、プールに行った時と行かなかった時とで、明らかな違いを感じた。「蝶々夫人」の初日公演の後(9日水曜日)はプールに行ったが、2日目(10日木曜日)は、台風が近づいていたので早く帰り、結局泳がなかった。すると次の朝、肩の一部が凝っている。
 3日目(11日金曜日)は、公演が4時前に終了した後、6時から初台の隣の駅である幡ヶ谷のアスピアで東大アカデミカ・コールのオケ合わせ。その2時間ばかりの休み時間を休息して英気を養おうかとも思ったが、この機会にあることを試してみた。練習場の近くの渋谷区スポーツセンターで40分ばかり泳いでみたのだ。
 するとどういうことが起こったか?泳がない時には、指揮をしてから時間が経つにつれて体がぐったりしてくるが、本番後あまり時間をおかずに泳いだら逆に疲労がとれたのだ。泳ぎ終わってから、幡ヶ谷のドトールで珈琲を飲みながらサンドイッチを食べて30分ばかり休んでからオケ合わせに行く。
 オケ合わせでは、さっきまで「蝶々夫人」全曲を振っていたのが嘘のように体が軽く、きびきびと動いた。休息するよりも泳いだ方が疲れていないなんて不思議だが、体は泳ぐことによってリフレッシュするようだ。
 ただね、次の朝はやはり肩が凝っていた。そりゃあそうだ。夜のオケ合わせの後はもう泳いでいないのだからね。じゃあ、一番良いのは「蝶々夫人」~水泳~オケ合わせ~水泳~就寝なんだろうね。これを実現するためには、カラヤンのようにプール付きのホテルを定宿とするか、プールのある家に住まなくちゃ。うーん、来世に期待しよう。

 とにかく、この怒濤の7月が無事乗り越えることが出来るとしたら、それは水泳のお陰なのは間違いない!

メールで稀有なるスイム・レッスン
 しかし問題は泳ぎ方だ。無駄にエネルギーを消耗したり体に力が入ってはいけない。だから、いろいろ研究している。水泳というと、どの入門書を見ても「より速く」と競泳指向であるが、僕の場合は全くその正反対を目指しているのだからね。自分の目的に完全に合致した泳ぎは、未だ模索中である。トータル・イマージョンは一番近いが、もっとフィットした泳ぎがあるようにも思える。
 そこで、塚本恭子先生と親友の角皆優人(つのかい まさひと)と、メールによるやりとりを頻繁に行っている。ふたりとも実に親切でしかもレスポンスが早いし、そのサジェスチョンで、水泳に関してだけではなく人生の様々なことに関しても示唆を与えてくれる。
 たとえば、本人達の了解を得て、いくつかの例を挙げる。

角皆君のメールから
(まずは、僕が塚本先生に出したメール。これを角皆君にもCCで送った)
「ストロークを終えた後の手を遊ばせないで、(塚本先生は僕に)すぐにリカバリーにもっていかせようとしましたね。いろいろやってみました。そうした方が体が遊ばなくて足が下がらなくていいし、スピードも出て面白くもなるのですが、今の僕のように、ゆったり泳ぐことを目的とした場合、どんどんストロークが進んでしまって、なんだか忙しいような気がします。どうしたらいいでしょうかね?」

(すると角皆君のコメント)
三澤君、とてもおもしろいところに気が付いたね。
 この問題を、高名な水泳コーチ(Richard Quick)が絵を描きながら解説したビデオがあります。フィニッシュする勢いを、どうしたら前方移動に転換できるのかというもので、とてもおもしろいビデオです。
 フィニッシュに使われる力を、そのまま回転運動に変えること。ピストンエンジン(水中のかき)からロータリーエンジン(フィニッシュからリカバリーの回転運動)への転換に近い理論です。フィニッシュのエネルギーを使って、腕を体の前方に移動させようというもの。

 たとえば右腕がフィニッシュしているところを想像してみてください。左手は水中で前に伸ばされている状態です。右腕がフィニッシュすると、そのまま回転運動をおこなって前に振り出されます。ふつうはここで左手がかきはじめます。この左手のスタートを待つのです。
 左手はゆったりと前方に伸ばし、美しいストリームラインを保ったまま、右手が回ってくるのを待つのです。たぶん理想は、右腕が顔の位置に来るまで、待ちます。
 顔だから、早ければ顎の位置で、遅ければ額くらいまで待って、左手をかきはじめます。短距離でスピードを競うのなら少し早い位置で、長距離でゆったりと泳ぐなら頭の先くらいまで待つのがいいでしょう。待ちすぎるとキャッチアップ泳法になってしまうので、ダメ。この片手が前に伸びたまま泳ぐ時間を調整できることが、スイマーにとってとても重要なことだと考えています。
 その泳ぎ方で世界最高な人にRada Owenがいます。彼女はオリンピックで入賞した元選手です。彼女の現役時代には「swim like Rada」というのがアメリカのコーチの合言葉になるほどみんなに注目されたテクニシャンで、美しい泳法のスイマーです。ユーチューブにいろいろとあるので、Rada Owenで検索してみてください。たとえば、このあたり。


こんな素晴らしいサジェスチョンが即座にもらえるなんて、僕はなんて恵まれているのだろうか!

塚本先生のメールから
(彼女は、僕の問題点を見事に指摘してくれた)
1)体が水中を進むスピードは、スタート時のスピードの維持
2)体が前方に移動している間の、伸ばしている手(を含むストリームライン)、また、これを支えている浮力と推進力
3)水を押す手の、押しきろうとする力とそれにかかる時間

2)は、1)の推進力を頼りにしているが、1)の推進力をうまくつなげない3)の動作が入り、2)が崩れる。既に1)は維持できなくなり、常に水を押すから3)の比重があがる。
→ストローク数増加、と考えてみませんか?


 つまり、ここでの3)というのが、まさに僕の問題点で、水を掻くことで推進力が得られると思っている僕のストロークの後半の押す動きが、かえって推進力にとって邪魔になっているということなのだ。
さらに彼女は、水泳のテクニックに関してだけではなく、時にこんなことも言ってくれる。

アンテナを張り巡らせているから、気付きがあるんですよね
その気付きが、別の気付きを引き寄せるし、気付きが増せば相乗効果も発生しますし!
ちなみに私のアンテナを鈍らすのは「こだわり」です。
「ハマる」のが、いつ反転して「こだわり」になってしまうか。
こだわり始めて苦しくなってから気づく事が多かったのです。
それに「こだわり」は判断力を鈍らせますしね。


 この「気付き」と「こだわり」の話は素晴らしいと思う。きっと、気付きは無心の時にお告げのように起こる一方で、「こだわり」には意識的な自我が働くのだと思う。「気付き」は自分の心を自由に広げてくれるけれど、「こだわり」は自らを窮屈にしてしまうんだ。最近は「こだわりの○○○」とポジティブに語られることが多いけれど、このように言ってもらうとよく分かる。

 彼らのような人達と付き合うことで、水泳だけに限らず、僕の人生はなんと幅の広いものになっていることだろう。音楽家達よ!若いときは、音楽に専念しなければならないかも知れない。一歩一歩自分の地位を築き上げなければならないから。でも、ある程度歳を取って、ひとりの芸術家として円熟しようと思ったら、音楽だけやっていたら駄目だ。
 いろんな分野の人と付き合った方がいい。一番良いのは、そうした人達から教えを請うことだ。音楽の道を学び尽くして、もう人から教わることは何も無いと思っても、まだまだ人生学ぶことは無限にある。他分野に眼を開くだけで、世の中には尊敬出来る人が沢山いる。それに気付くと人間は謙虚になる。謙虚になって、いろんな機会で誰からだって教われるものは教わろうと思っていると、その教わったことがまた音楽への新しいヒントを与えてくれる。全てがある意味つながっているので、音楽もより成長していくことが可能なのである。

Le Preghiere Semplici 三つのイタリア語の祈り
 東京六大学OB合唱連盟演奏会で、2曲目の「聖フランシスコの平和の祈り」を演奏している最中、僕は自分の胸が熱くなるのを感じていた。この祈りの文句の中に火のような情熱を感じた。そして、その通りに演奏した。

主よ、私をあなたの平和のための道具とさせて下さい
憎しみのあるところに愛を
侮辱のあるところに許しを
対立のあるところに一致を
疑いあるところに信ずることを
etc.
 本当だなあと演奏しながら思った。そういう生き方をしなければいけないんだなあ、としみじみ思った。僕は、まだまだこの世にやり残していることがあるなあと感じた。今まで、自分の思い通りにだけ生きてきたけれど、残りの人生、もっともっと人のために生きたいという気持ちが、心の奥から沸き起こってきた。
 同時に、まだまだこういう音楽を書けるんだなあとも思った。どういうことかというと、一昔前だったら、今どきこんな調性音楽流行らないよとプロ作曲家達に即座に言われたであろう。でも、どんなに前衛作曲家達が粋がったって、やっぱり「月並みかも知れないが」人は調性音楽を求めるのだ。それに、こうした祈りの歌詞は、今日においてもその意味を決して失ってはいないのだ。調性音楽だってまだまだ可能性は無限にあるぞ!

 アカデミカ・コールの皆さん。この簡単ではない曲をよくここまで仕上げてくれました。この人達は、一度理解するとと本当にパッと変わるから凄い!やはりただ者の集まりではない。イタリア語では思いの他苦労した。
 イタリア語の発音は、一見日本語と同じ「子音と母音の組み合わせ」だから簡単と思われがちだが、本当にイタリア語らしく聞こえさせるためには、実はとても難しい言語だ。でもね、一番嬉しかったのは、イタリア語の先生が来て、とても喜んでくれたこと。イタリア人にとっても意味がよく伝わったし、イタリア語が音楽によく乗っていると褒めていただいた。

 僕の最も信頼のおけるコンサート・ミストレスの藤田めぐみさんと、彼女の集めてくれた弦楽器奏者のみなさん、本当にありがとう!この曲は、聴いているとスラスラと聴けるのだが、弾く方はテクニックの限界くらいまで挑戦させる。でも、みんな本当に真摯にこの音楽に取り組んでくれて、本番の集中力たるや凄まじいものがあった。
 ピアニストの水野彰子(みずの しょうこ)さんはまだ20代半ば。若いけれど他の人にない感性を持っている。これから彼女はとても伸びると思う。僕も目を離さないでおきたい。それと、今回の演奏会でなんといっても一番目立っていたのは、アコーデオンの津花幸嗣(つばな こうじ)さん。
 津花さんを僕の家に呼んで合わせをしてから、彼の持っている両手ボタン式のアコーデオンの表現力に驚かされ、僕はアコーデオン・パートを大幅に書き替えた。今は、シンセサイザーでアコーデオンの音など簡単に出るが、本物のアコーデオンは、あんな仰々しくもなく、あんな安っぽくもなく、あんな(変な話)アコーデオンっぽくもないんだ。
 高音を澄んだ音で弾けば弦楽器のフラジオレットとよく混じるし、チェロと一緒に低音の伴奏も弾ける。なんといっても他の楽器と溶け込みながら、この楽器の個性は存分に主張している。
 僕の曲は、カンツォーネ風だったりスパニッシュ・テイストだったりシャンソン・テイストだったりの風変わりな祈りの曲だが、その雰囲気を根底から支えていたアコーデオンの津花さんにもう一度大きな拍手を送りたい。

 この成功にすっかり調子に乗った僕は、こんなタッチで今度はひとつの完全なミサ曲を書いてみたいと思っている。まあ、忙しいのでいつになるか分からないけれど、出来れば来年の還暦の年の内に仕上がればいいな。



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© HIROFUMI MISAWA