ほぼ泳ぎ切ったぞ、怒濤の7月
今この原稿を浜松から帰る新幹線の中で書いている(21日月曜日現在)。昨日、志木第九の会のメンデルスゾーン作曲オラトリオ「聖パウロ」演奏会を無事終了して(後で詳しく書きます)、怒濤の7月をかなり泳ぎ切った気分である。少なくともオーケストラを指揮する演奏会は9月までない。
今の内に白状すると、この原稿を今晩中に仕上げて「今日この頃」にアップするのは無理かも知れない。「聖パウロ」が終わって、かなり気が抜けており、今日の浜松バッハ研究会の「マタイ受難曲」の練習はちゃんとやったけれど、行き帰りの新幹線ではまるでふぬけのようになっていて、とても原稿が進みそうにない。ということで、これが完成するのは明日の22日火曜日になるでしょう。
一方で、泳ぎきったといっても、暇になったわけではない。今週は日本テレビ主催のフォーレのレクィエム収録のための演奏会が24日木曜日にある。次の日の25日金曜日には札幌に飛び、北海道教育大学岩見沢校で8月7日のコンサートの練習。26日土曜日には一度帰ってくるが、日曜日には名古屋でジュピター交響曲&モーツアルトのレクィエムのオケ練習。次の28日月曜日に、今度は演奏会の催される函館に飛んで練習、というように、行動的には怒濤が続いている。次の「今日この頃」は函館からイカを食べながらお送りすることになるかと思う(笑)。
「聖パウロ」演奏会無事終了
國光(くにみつ)ともこさんの声には、包み込むような暖かさとともに、何ともいえないメランコリックな色合いがある。マタイ受難曲の「愛ゆえに我が救い主は死のうとする」のアリアも、彼女が歌うと、イエスの人類に対する愛の深さを感じるのみならず、救世主の十字架上の死という犠牲を必要とするほど人類の罪は深いのか、という人間存在の悲劇を突きつけられる思いがする。いや、彼女の歌自体には、ただやさしい静けさが支配するのみなのだが・・・。
そうした國光さんの特性が最も生かされた作品は、手前味噌であるが、自作「愛はてしなく」のマグダラのマリアである。でも既成の作品では、おそらく今回演奏したメンデルスゾーン作曲オラトリオ「聖パウロ」のソプラノ・ソロこそ、彼女にぴったりではないか。
彼女が「エルサレムよ!」のアリアを歌うのを指揮していながら、エルサレム入城の前のイエスの切ない心情が感じられて、胸が熱くなった。
國光さんは小器用な人ではないから、作品を理解するまでには多少時間がかかる。でも、こちらが丁寧に説明し、音楽的にも導いてあげると、ある時、
「ああ、そうなんだ!」
と分かった顔をする。この顔を見るのがいつも楽しみだ。そこからは、まるで別人のように自分でどんどん表現を深めていく。表面的ばかりの現代の音楽界にあって、こういう人こそ本当に貴重なんだけど、もっとみんな分かってくれないかな。
畑儀文(はた よしふみ)さんと大森いちえいさんの2重唱は、2曲とも絶品だった。二人のチームワークが素晴らしく、音色もぴったりで、フレーズも伸びやかで音楽的。大森さんがいつも安定した歌唱を聴かせるのは勿論だが、加えて、わざわざ関西から畑さんを呼んだ甲斐があった。というか、こんな大都会の東京であっても、畑さんのように歌えるテノールはひとりもいないんだ。むしろ大都会だからかも知れない。アリア「死に至るまで誠実であれ」では、東京ニューシティ管弦楽団のチェロ・トップ奏者による素晴らしい独奏と相まって、心に染みいる歌唱を聴かせてくれた。
志木第九の会の指導もしてくれている高橋ちはるちゃんのアルトソロも、一曲しかなかったが、まろやかな声でじっくり歌ってくれたね。彼女も派手ではないけれど優れた歌手だ。
志木第九の会の皆さんは、本番驚くくらい豊かな声が出て、堂々と歌ってくれた。パウロがイエスに出遭った後の有名なコラール「目覚めよと呼ぶ声が聞こえ」を感動的に歌ってくれたので、僕はウルウルとなってしまったよ。
それと、終曲の前の「見なさい、どれほどの愛を父は私達に示していてくれたか」では、指揮している僕に突然啓示が降りて、これは“深い深い祈り”なんだと悟った。みんなは僕の動きが極端に少なくなってきたので、棒が止まるんじゃないかと思ったかも知れない。事実僕は、指揮をするのをやめてこのまま瞑想に入ろうかと思ったくらいだ。他の作曲家だったら、この辺では終曲に向かっての盛り上げに入るのだが、これがメンデルスゾーンの世界なのだ。
どんなに激しい場面を音楽で描写していても、一定の間隔で必ず癒し系の曲に戻って来るのは、メンデルスゾーンの心象風景がそうだからだ。彼の音楽はブーメランのように彼から離れては戻って来る。そのホームの心情は、愛と慰めに溢れている。メンデルスゾーンがまさにそういう人だからだ。僕は本当にメンデルスゾーンが大好きだ!
東京ニューシティ管弦楽団は、少ない練習ながら、本当に真摯に音楽に向かい合い、稀有なる集中力をもって、この大曲を演奏し切ってくれた。しかも本番は、僕の棒のニュアンスを片時ものがさずに汲み取ってくれて、音楽的できめの細かい演奏を成し遂げてくれた。この場を借りて心からの感謝を捧げたい。
志木第九の会は、1991年から行っているから、もう23年にもなるんだ。最初の頃は、演奏会に妻と二人の娘達を必ず連れて行った。次女の杏奈などは、まだ赤ちゃんの面影が残っていた。長女志保が、現在プロの音楽家として活動していられる背景にも、こうした演奏会に繰り返し触れていた体験があると思う。
僕はその後、新国立劇場合唱団の指揮者になったりして忙しくなり、いくつかの団体に行かれなくなったが、そんな時でも志木第九の会だけは辞めなかった。何故かというと、僕が一番大切にしていることが、この団体では具現化出来るからだ。それは、言葉で言ってしまうと月並みだけれど、本当に感動的な音楽は技術ではなく、今自分が演奏している作品の意味に真摯に向かい合うことによって成し遂げられるということだ。
今回の「聖パウロ」も、佐藤研(さとう みがく)先生の講演会に始まり、僕が練習の合間にパウロの心情や活動などについて、あるいはメンデルスゾーンの思いについて語った様々な事柄が、団員達の血となり肉となっていくのが目に見えるように感じられた。この団の本番に向かう態度は、「演奏会さえうまくいけばいい」という考えの真逆を行っていて、演奏会とは、それら楽しくて有意義な毎回の練習の「結果」でしかないのだ。
とはいえ、演奏会の近くには、彼らに後悔が残らないように、ハッパをかけることだけは忘れない。それは、
「自分たちでここまで出来たんだ!」
という達成感をよりいっそう高く築き上げるため。演奏後のビールをよりいっそうおいしくするため(笑)。
今残っている新国立劇場以外でのアマチュア・コーラスは、どれも僕のそうした姿勢を充分に理解してくれている。そして、それらの団体はみなすでに20年以上続いているのだ!新町歌劇団しかり、浜松バッハ研究会しかり、モーツァルト200合唱団しかり。これらの団体はすべて僕の人生最大の財産だ!
リッカルド・ムーティ自伝
世界中を回ってきた私は、多くの人と知り合ったにもかかわらず、音楽家としての仕事を考えれば、孤独であると言わざるを得ない。それを、使命というのだろうか、犠牲というのだろうか。音楽家は孤独だ。楽譜を前にして、演奏への探求 をするのみならず、それをオーケストラに伝え、さらに観客にまで届けなければならない使命を負っているのだ。
オペラ指揮者と歌手との関係
ムーティの本の歌手とのやり取りの章を読みながら、実際にオペラを指揮している僕には、いろんな具体的な場面が蘇る。先日の「蝶々夫人」でのやりとり。テノールが高音を伸ばしたいだろうなと思われるいくつかの箇所で、僕はその前から少しテンポを落とし、伸ばさせてあげるが、やはり指揮者としてはあまりその前後から音楽的に逸脱したくない。だから適当にこちら優先で棒を動かして次へ進む。
オケ合わせの後で、僕は樋口達哉(ひぐち たつや)君に言った。
「なにか要望があったら言ってごらん?」
彼は言った。
「こことここの2カ所なんですが、出来ればもう少し伸ばさせてもらっていいですか?」
「よっしゃ、次のオケ付き舞台稽古でやってみよう!」
ということでやってみた。
やっぱりね、歌手がきちんと良い声で伸びて、しかも指揮者がその前後で音楽的つじつまが合うようにサポートしてあげられたら、その場所がより輝かしくなるのだ。こうやってフランクに話せる環境を作っておくと、イタリアオペラの魅力は花開く。この魅力は否定できないなあ。
「蝶々夫人」では、一カ所だけ落とし穴がある。第1幕蝶々さんの初登場の直前。領事のシャープレスがピンカートンに向かって、
「君の遠く離れた祖国の家族に乾杯!」
と言うと、ピンカートンは大胆にも、
「将来僕が持つことになるアメリカ人の本当の妻に乾杯!」
と言う。
このsposa americana(アメリカ人の妻)のsposaのspoが、高いシのフラットでsaがラである。ここはテノールにとって出し易い所のようで、僕はある程度は待つけれど、その後、棒と一緒に先に進む約束になっている。ところが、テノール歌手達は、しばしば歌ったまま降りて来ないのだ。
今回も初日に村上敏明君が降りて来ない。見ると気持ちよさそうに歌っている。千秋楽で樋口君も、テノール冥利に尽きるという顔をして延々と伸ばしている。ところがね、指揮者にとってみると、降りてきたすぐ後のamericanaは、ビオラがメロディーをなぞっているので、spoはいいとしてもsaは棒と合わせてくれないと困る。でも気がついた。spoはOの母音だけどsaはAだ。彼らにとってみるとAの方が伸ばし易いのだ。
ある意味、ここが「蝶々夫人」最大の難関かも知れない。ここでもしズレると、すぐその後で急速なテンポに乗ってゴローと女声合唱が歌い出さなければならないからだ。村上君や樋口君が伸ばしたまま降りて来ない日は、舞台裏でモニターを見ながら準備をしていた冨平恭平(とみひら きょうへい)君などは、心臓がバクバクしていたことと思う。
問題があるとすると、この部分を全体のドラマの中でどう捕らえるかということだ。歌詞の内容の「本当のアメリカ人の妻」の妻sposaだけが強調されるわけだが、これから日本人の蝶々夫人と結婚しようとする時に、このような不届きなことを言っているピンカートンの態度を強調することになるので、マイナスではないと思う。
ただ、このくらいで止めておかないといけない。今回共演した二人のテノールは、二人とも頭が良く、演技もわきまえているからそんなことはおきないけれど、心ない歌手の場合は、その2つの高音を充分伸ばすために、その前のvera(本当の)で切り、sposa(妻)と歌いきったところで切ってからamericana(アメリカ人の)に入る。そうなると、もうドラマもヘチマもないのだ。
ムーティのように、最初から、
「俺が全部仕切る。お前達はただ言うことを聞け!」
というスタンスを貫いていれば話はあっけないくらい簡単だが、僕はむしろ、歌手達をギリギリ生かしながら、前後の音楽的整合性を考え、その都度ゲーム感覚で対処していくのを好む。その方が面白いじゃないか。ほら、「赤毛のアン」でも言っているよ。
曲がり角を曲がったさきに、なにがあるのかは、わからないの。
でも、きっといちばんよいものにちがいないと思うの。