悪かろうハズがない「パルジファル」

三澤洋史 

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じーじだけどじじいではない
 今日(9月15日月曜日)は敬老の日だというが、みなさんお願いだから僕を敬わないで下さい!毎日散歩を行い、週に少なくとも3日はプールに通い(先週なんかほとんど毎日行った)、時々テニスで汗を流す僕は、ずっと立ちっぱなしでオケや合唱の練習や本番を指揮するのは朝飯前の超健康な生活を送っているんだからね。

 40代の頃に、以前ほどスコアがどんどん頭の中に入ってこなくなったことに憂いを覚えたが、逆に今はあの頃よりも頭が冴えていて、スコアを暗譜することに特に苦痛を感じない。ただ、目はちょっと退化しているから、初見でピアノを弾いたり、あまり慣れてないスコアを見ながら指揮すると、ちょうどそのくらいの距離が僕の近視用のメガネでは見づらい。これも、もう一段階弱いメガネに取り替えれば済むけれど、いちいち取り替えるのが面倒くさい。
 それより、この先同じように記憶力がキープしてくれるならば、今でもそうだけど、要するにつべこべ言わずに出来るだけ早く暗譜してしまえばいいのだ。先日のモーツァルトのレクィエムもジュピター交響曲も、すでに練習の初回で9割以上暗譜していたから、何も苦労しなかった。

 といって強がっているけれど、スコアを覚えること以外の記憶力は衰えたねえ。人の名前なんかさっぱり出て来ない。妻も僕より若いとはいえ同年代だから、二人である人のことを話していて、最後までその人の名前が出て来なかったなんていうことはしょっちゅうある。この時だけは、若い奥さんをもらわなくてよかったなと思う。
 という風に、いざ老いを感じたら、それはそれで潔く受け入れるんだ。なあに、体が衰えるだけさ。魂は永遠だし、今生学んで培った様々なものは、また来世で受け継がれるのさ。だから死ぬまで学ぼうという意欲は失わないし、いろんなものに興味を持ち続けるんだ。体が動く限り出来ることはするつもり。そのためにも鍛えているんだけれど、まあ、体がきかなくなったら・・・・その時はその時であきらめるよ。
 何故かさっぱりと自然にそう思えるんだ。じたばたしてもしょうがないもんな。これが、来年3月になると還暦になる僕の悟り。

悪かろうハズがない「パルジファル」
 新国立劇場では、シーズン開幕演目の「パルジファル」の立ち稽古が進んでいる。9月始めに演出家ハリー・クプファー氏が一度来日して、立ち稽古に先立って本舞台でセリなどの機構を使って「場当たり稽古」を行い帰国した。今は、場所を練習場に移し、演出補のデレク・ギンペル氏がクプファー氏の意図を再現して立ち稽古を行っている。クプファー氏はひととおり立ち稽古がついたらまた来日して、初日まで陣頭指揮を執る。
 当初は立ち位置の確認程度の認識で、クプファー氏は合唱団を呼んだが、新国立劇場合唱団が予想に反して機敏に動いて上手に演技をするので、嬉しくなって結構踏み込んだ演技指導をしてくれた。
 僕は90年代のバイロイト音楽祭の「ニーベルングの指環」で、レーザー光線などを使った斬新な演出をビデオで観ていたので、一体どんな風貌の人物かと思っていたが、見かけ、どこにでもいるただのおっさんという感じに拍子抜けした。ただ演技を見極める目は鋭く、練習の進め方は的確でかつ一切無駄がない。やはりただものではない。

 あまりネタバレはするべきでないが、舞台正面に白いジグザグの道が設置されている。それは奥舞台まで続いている。つまり、舞台は平戸間の客席分くらい奥行きがあると思って欲しい。クプファー氏曰く、「パルジファル」の物語は道を探す旅だということだ。
 演出の具体的内容に関してだが、聖杯の騎士達を、「最初の志を忘れて自分たちの教団の維持を望むエゴイスティックな集団」とした以外には、変な読み替えや不自然な解釈などの一切ない、きわめて真摯でオーソドックスなアプローチだ。
 ああよかった!これならば、拒否反応や抵抗感を覚える人はいないだろう。やっぱり「パルジファル」だけは、マトモな演出で観たいものね。ただラスト・シーンに、ちょっとしたサプライズがある。というと、みなさんは知りたいだろうが、これは内緒!
 でもヒントだけは与えておこう。ワーグナーは「パルジファル」を作曲した後、次の作品の構想を練っていた。結局は作曲家の死によって実現しなかったが、もし完成していたら、かなり物議を醸し出したことだろう。何故なら、その主人公はなんと釈迦であり、タイトルは「勝利者達」となるはずであった。
 ワーグナーの全作品の中で、ワーグナー自身の精神的成長に関わる重要な3人のタイトル・ロールがいる。これらの3人はワーグナー自身の覚醒とリンクしている。最初はタンホイザー。彼は罪を犯し、その罪を救済された。しかし救済されただけではマイナスからゼロになっただけだ。次に、ジークフリート。彼はワーグナーが最も愛した人間像だ。ゼロどころかある意味最も進化した人間で、恐れを知らない清らかで輝かしい英雄だ。しかしながら、その恐れを知らないことと彼のプライドによって滅んでしまった。
 そしてパルジファルの登場である。ここにおいてワーグナーの創造した人間像は悟りの境地に入っていく。パルジファルは同情Mitleidを得ることで智を得て覚醒者となるのだ。これが完成された人間だとワーグナーは考えたのだ。この物語はキリスト教的世界を扱っていながら、ワーグナーの意識はすでにキリスト教を超えている。そして、その先にワーグナーはブッダの悟りを描きたかったのだろう。
 そうした事柄が何らかの形で舞台に反映される。これ以上は言わないが、公演を観た後、みなさんはきっと僕のこの言葉を思い出すでしょうね。

 さて、クプファー氏は、合唱団との場当たり稽古に大変満足し、
「バラッチ(僕の最も尊敬するバイロイト祝祭合唱団指揮者。バイロイトに28年君臨し1999年を最後に去る)の音がするね」
という言葉を残して帰って行った。あのクプファーにこう言われて、僕としてはちょっと嬉しい(って、ゆーか、かなりだろ)。

 一方、今シーズンからの芸術監督である指揮者の飯守泰次郎氏は元気溌剌である。肉体的にも頭脳的にも全く衰えていないどころか益々エネルギッシュ!練習では早くもイイモリ節全開で、含蓄に富んだお話と、深い精神性を感じさせられる指揮ぶりに、一同みんな心酔している。なんといってもワーグナーに対する愛が随所に感じられて、練習中に胸が熱くなる瞬間が何度もある。
 飯守氏は、僕とは時期的にダブってはいないが、やはりかつてバイロイト音楽祭でアシスタントをしていたバイロイト仲間。僕の合唱の音楽的処理の仕方に、随所で、
「ああ、このやり方はバイロイト仕込みだね」
と気付いて喜んでくれる。
 僕はそれらをノルベルト・バラッチから受け継いだと思っていたが、飯守氏によると、バラッチの前任者であり、今では伝説的な合唱指揮者となっているウィルヘルム・ピッツからの伝統で、バラッチもピッツから受け継いだものだそうだ。それを聞いたら、なんだか自分が中国から密教を受け継いで日本にもたらした空海のような感じがして、限りなく誇らしかった。
 稽古場では、あのジョン・トムリンソンやエヴェリン・ヘルリツィウスなどが当然のようにいるのが不思議に感じられる。これまで何度も来日して親しくなっているクリスティアン・フランツもいる。まあ、どう考えても、この「パルジファル」公演が悪かろうハズはないわな。また報告しますね。

9.11をスルーしたマスコミ
 9月11日木曜日、朝新聞を読んで、米国がシリアへの攻撃を決めたという記事を読んだ。「パルジファル」の練習が夜だけになったので、その日はお昼まで仕事をしてから立川の柴崎体育館に行った。無心で泳いでいたが、ふと心の中にキラリとひらめくものを感じた。僕は泳いでいる内によくいろんなことがひらめくのだ。
「あれ、今日ってもしかして11日だよな。ということは9.11じゃないの?それにしては新聞もテレビもそのことに触れていなかったな」
 家に帰ってもう一度新聞を読み直したが、3.11から3年半経ったという記事はあっても、まるで9.11などという事件がこの世に存在しなかったように何も書いていない。その晩の報道ステーションなどのテレビ番組でも、触れていない。なんかみんなで9.11に気付かれないように9月11日が通り過ぎてしまうのを待っているようだった。
 次の日、テレビでは、ワールドトレード・センターがあったグラウンド・ゼロでの9.11の式典が無事執り行われたという報道をサラリとやっていた。その式典を狙ったテロなども起きずに、というニュアンスであった。なんでそんな言い方するんだろうなあ、と不思議な気持ちになったが、よく考えてすぐ分かった。そうかあ、9.11の前にシリアへの攻撃を発表したので、9.11に合わせたイスラム原理主義者によるテロが起こるんじゃないかと警戒していたわけか。

 さて、その後オバマ大統領は攻撃に踏み切っていない。日本のマスコミは、オバマ大統領が攻撃を躊躇していることにも触れないでスルーしているが、米国内では少なからぬ騒ぎになっている。米国内のユダヤ勢力(背後にイスラエル)と軍需産業共同体といわれるペンタゴンの好戦派とロッキード・マーチン社などが、オバマ大統領の弱腰姿勢を激しく批判しているのだ。まさに大統領の座から引きずり下ろせ的な勢いであり、米国の世論を二分しているのを御存知の読者はいるだろうか。

 シリアのアサド大統領が反政府勢力に化学兵器を使ったことが、世界の警察を自称するアメリカとしては見過ごすことの出来ないというのがシリア攻撃の大義だ。しかし、だからといって、シリア領土内に出掛けて行って空爆をするという方法が果たして正しい行動なのか?また民間人が犠牲になるだろう。そもそも一体誰のために空爆するのだろう?アメリカのプライドのためではないか?
 米国人記者2人が、イラクやシリアで勢力を広げつつある過激派組織「イスラム国」のテロリストによってシリア国内で拘束された後殺害された。その殺害の瞬間のビデオが全世界に公開されたのは記憶に新しい。それによってアメリカ国民がイスラム教徒全体にある種の怒りを抱いて、特にシリアに対して好戦的になっていることも否定出来ないことだろう。
 しかし、待って下さいよ。何故このようなテロが起きるのかということをアメリカは考えたことがあるのだろうか?それは、とりもなおさず、アメリカの善意に溢れた犠牲的な行動が、イスラム社会に全く受け容れられていないどころか、アメリカがイスラム社会からこんなにも嫌われているという証ではないか。正義を行うときには、すぐ報われることを期待してはならないかも知れない。しかしこれだけ長きに渡って、湾岸戦争、9.11、イラク戦争、占領政策の失敗、相次ぐテロと、イスラム社会と何の絆も築けないとしたなら、やはりそのやり方には、何か根本的な問題があるのではないかと、米国は考えないのだろうか?

 つまりアメリカは9.11から何も学んでいないのだ。今後も何も学ぼうとしないまま、新たな混迷を作り出していくのだろうか。そうならないことを祈るけれど、もし弱腰のそしりを恐れたオバマ大統領が、その腰を上げてしまったら、また第二の9.11や第二のビデオ公開殺人が起きていく可能性を米国は覚悟しなければならない。そしてまた「やっちまえ!」の声が勝って、また攻撃ですか?どんなに力で封じようとしても、相手は命をも恐れない集団だ。双方の憎しみはどんどんふくらみ、双方の溝はどんどん深まり、平和はますます遠のいていく。

 僕が何故この記事を書いたのかという理由は、次のことだ。日本のマスコミは、9月11日に9.11の事に触れてしまうと、これらのことに向かい合わざるを得なくなる。シリア攻撃を目前に控えたアメリカ情勢は、9.11の追悼式や祈りとあまりにマッチしない。
「このような事が繰りかえされないように」
ともしニュース・キャスターが言ってしまったら、今まさに自分から攻撃を仕掛けようとするアメリカの態度そのものと矛盾する。だからマスコミみんなで9.11をスルーすることに決めたのだと思う。僕が上に述べた「ユダヤ勢力や軍産共同体がオバマ大統領を批判している」ことなども、全くマスコミの表には出ていないだろう。本当は、こういうことをこそ伝えなければならないのに。

マスコミの「意図的に伝えない暴力」は、曲がって伝えるのと同じくらい罪深いと思う。

 いいかい、アメリカがもしシリア攻撃に踏み切ったら、アメリカにゴマする日本は、それを支持しなければならなくなるんだぜ。そうすると集団的自衛権が発動されて、日本の自衛隊がシリアに派遣され、米軍と一緒になってシリアを攻撃し、本来イスラム教徒から憎まれるいわれのない日本が、イスラム過激派の標的になってしまう日も遠からず来るのだ。これが安倍首相が「積極的平和」と言っていることの正体です!
 好戦的で軍需産業に潤っているアメリカのお陰で、こんなに平和な日本が、現在のアメリカ同様テロの攻撃に毎日怯える国家になってしまってもみなさんはいいですか?

しかも、「マスコミは一番大事な時に沈黙する」ということを忘れないように。



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