ロード・バイク
甥のマーちゃん(上の姉の次男)は、ロード・バイクで東京から群馬県まで100キロの距離を平気で乗って来る自転車乗りだが、彼が自分の要らなくなったドロップ・ハンドルのロード・バイクを僕にくれた。いやあ、やっぱり同じ自転車といえど、タイプによって随分違うねえ。ママチャリと違うのは勿論だけど、マウンテン・バイクとも全然違う。
ロード・バイクは、真っ直ぐな道路を高速で走るのに適しているので、やはり車道を走ると素晴らしい走行感が得られる。マーちゃんがメーターをつけてくれたので分かるが、ちょっと頑張って漕ぐとすぐ時速30キロくらいに達する。坂道を降りきったあたりでメーターを見たら、なんと時速42キロになっていた。出そうと思ったらもっと出る。
しかしロード・バイクは、マウンテン・バイクと違って、前輪の上にサスペンションがついていないので、ちょっとでも道路に凹凸や段差があると、その衝撃をモロに受ける。これまでマウンテン・バイクで歩道を走っている時には全く気がつかなかったけれど、歩道というのは結構でこぼこしていてロード・バイクでは走りにくい。だから自然に車道を走りたくなる。
そうして車道に出た途端、歩行者に対する加害者から、今度は自動車から被る被害者への可能性にさらされるようになる。横から轟音を響かせて追い抜いて行くトラックなんて、とっても恐いじゃないか。
マーちゃんからは、
「危ないから、ヘルメットと手袋は必ずしてね」
と言われている。
先日、初めて新国立劇場までおっかなびっくりロード・バイクで行ってみた。前傾姿勢で行くので首が疲れた。首を下にすると今度は上目遣いで見るので、目つきが悪くなる。まあ、それでもね、その他はかなり快適だったので、これからの季節、またサイクリング生活を送ろう。でも、安全運転で行くよ。僕が怪我すると、少なからぬ人達が迷惑を被るからね。
このロード・バイクなんだけど、車体が真っ黒なので、合唱団のメンバーのクボケンこと大久保憲さんに、
「これ地味なんで、なんとか“ちょいワル風”にペンキ塗ってくれない?」
と頼んだ。クボケンは、僕の前のマウンテン・バイクにも色を塗ってくれたのだ。今回は、たとえば真っ赤な車体に、イタリア・バイクのDUCATIのマークが白が黒で入っているとかね。
「んなわけ、ねーだろ!」
と笑われるような冗談めいたマシンに仕上げたい。
格好良く仕上がった時には、大々的に写真デビューしますね。うふふふふ。
スコットランドの独立運動
昔、ベルリンに留学していた時、ある友達に、
「どこから来たの?」
と訊いた。彼は、
「スコットランドから」
と言ったので、
「じゃあ君はイギリス人だね」
と言ったら、
「違う!」
と強く言う。いぶかる僕に向かって彼はさらにこう付け加えた。
「お前に忠告しておくけどな、今後スコットランド人に向かってイギリス人と言うな!」
「・・・・」
30年以上も前の話である。僕はびっくりして気後れしてしまい、彼にはそれ以上訊けなかったけれど、はっきり分かったことがある。どうやらスコットランド人は自分をイングランドやウェールズとは区別したいらしい。一緒くたに英国人と決めつけられることに我慢がならないようだ。
わりと最近の話。ある時イギリス人と話していた。
「僕は英国本土にはこの歳になるまで足を踏み入れたことがないんだ。でもアイルランドなら行ったことあるよ。パブの黒ビールがおいしかった」
と言ったら、途端に不機嫌な顔をされ話題を逸らされた。すぐ隣だから喜んでくれると思った自分が甘かった。英国とアイルランドはとても仲が悪いからね。特に、英国領である北アイルランドとアイルランド共和国は、宗教問題も根強く絡んで敵対しているといってもいい。
だから英国人と話す時は気をつけなければいけない。今回のスコットランドの独立運動と国民投票に関しては、日本人にはなかなか理解し難いことかも知れないが、僕にはなんとなく分かる。結局は独立推進派が過半数を満たすことが出来ず、独立運動は失敗に終わったけれど、ここまで二分されてしまったからには、そう簡単に元の鞘に戻るとも思えない。
この独立運動を、単なる経済的不公平への不満と解釈する学者がいて驚いた。そんな単純な問題ではないのが分からないなんて・・・・。確かに、直前になってNOに荷担した人達は、イギリスが分裂することによる経済的影響と、それがもたらす国力の低下を懸念して、あわてて独立運動阻止の方に回ったかも知れない。だが、そもそも独立を望んでいる人達は、経済的動機からこの運動を起こしたわけではない。冒頭で述べたように、彼らの意識の中では、アイルランド人はイングランド人ではないのだ。
この問題は必ず後を引いて、やっぱり最後にはスコットランドは独立するのではないかと僕は予想する。いいじゃない。そうなったら独立させてあげなさいよ。
ヤコブの手紙
本屋で見る度に気になっていた「イエス・キリストは実在したのか?」(文藝春秋)という本を勇気を出して買った。別に、この本を読んで自分の信仰心が揺らぐかと心配して躊躇していたわけではない。この手の本には眉唾が多いので、時間の無駄になったら嫌だなと思ったのだ。著者がイスラム教徒というのも好奇心と猜疑心の両方を誘う。
ところが読み始めて驚いたのは、この著者は、実に真摯にキリスト教と向かい合っていて、結果的に見ると、現在の聖書学の最先端と様々なところでつながっている説得力のある本であった。たとえば、ヘロデ王の赤子大虐殺はなかったとか、ローマ総督ピラトがイエスに好意的であったというのは事実と違うとかいう歴史的検証を通して、聖書の中の虚偽の部分をはぎ取り、真実は一体どうであったかということをきちんと描き出している。
この本の中で、僕がこれまでほとんど気にとめていなかった人物のことに触れられていた。それはイエスの弟である義人ヤコブと言われる人物のことである。著者によれば、ヤコブは、当時の初代教会ではパウロと人気を競っていたが、イスラエルという国が完全に滅亡し、すべてがローマ帝国に吸収されていった歴史の流れの中で、ローマ帝国内で勢力を伸ばしていたキリスト教徒達は、自分たちが生き延びるためにも国際性に長けたパウロに従う道を選択したので、ヤコブの教えは主流に成り得なかったという。
イエスの母マリアは、“救い主の母”という位置づけから、しだいに処女性を強調されるようになっていった。イエスを聖霊によって身ごもった(処女懐胎)のみならず、その後も永遠の処女であり続けたのだから、イエスの下に弟がいるなどと教会が認めるわけにはいかない。そこでヤコブは、現代の教会の解釈では、イエスの弟ではなく、「弟と呼ばれていた」という位置づけをされている。うーん、よく分からない。
ヤコブの手紙の著者は、おそらくヤコブではないと言われている。イエスと同じガリラヤ生まれのヤコブには、これほどまとまった手紙を書くほどの文章力はなかったであろうというのがその理由だ。しかしそれでも、この手紙の内容はヤコブの思想とかなり近いので、ヤコブが書いたと言われても差し支えないだろうというのが一般的な見解だという。その思想は、パウロの神学と真っ向から対立している。
パウロの神学は、人は、イエス・キリストを“信じることで”救われる、という徹底した他力論で貫かれている。人間の中に原罪として宿る罪は死を呼ぶ。そこから人間は何人も逃れることは出来ないが、我らの罪を一手に背負って十字架に架かったイエスを信仰することで、死から解放され救済に至るという理論である。
この考え方に、ユダヤ人との共通性をなにも持たない外国人達が飛びついて、キリスト教の国際化が進んでいったのだ。一方ヤコブの手紙で語られている内容は、むしろ生前のイエスの説教に近い。パウロと決定的に違う点は、「信仰によって救われる」で終わらないで、むしろその信仰が行動を伴わないといけないと説いていることだ。
次の言葉を読んでいただきたい。
御言葉を行う人になりなさい。自分を欺いて、聞くだけで終わる者になってはいけません。結構厳しいことを言っているでしょう。キリストを信じて天国の鍵を手にしたと言って喜んでいる場合ではないとヤコブは諭しているのだ。さて、宗教オタクでもあり同時に言語オタクでもある僕は、ヤコブの手紙を新共同訳で精読しただけでは当然飽きたらず、同時進行してイタリア語聖書を引っ張り出してきて読んだ。
(ヤコブの手紙第1章22節)
わたしの兄弟たち、自分は信仰を持っていると言う者がいても、行いが伴わなければ、何の役に立つでしょうか。そのような信仰が彼を救うことが出来るでしょうか。
(第2章14節)
しかし、「あなたには信仰があり、わたしには行いがある」と言う人がいるかもしれません。行いの伴わないあなたの信仰を見せなさい。そうすれば、わたしは行いによって、自分の信仰を見せましょう。
(第2章18節)
魂のない肉体が死んだものであるように、行いを伴わない信仰は死んだものです。
(第2章26節)
Non ingannate voi stessi: non contentatevi di ascortare la parola di Dio; mettetela anche in pratica!僕が驚いたのは、御言葉を「行う」というところにpraticaという単語が使われていることである。ピンときた僕は英語の聖書を本棚から出した。
Do not deceive yourselves by just listening to his word; instead, put it into practice.なあるほど、practiceかあ。こういうのを、まさに目からウロコというんだね。僕はヤコブの言っていることが即座に分かっちゃったのだ。practiceって言ったら、行いの意味もあるけれど、むしろ実施、実習、練習の意味合いが強く、たとえばレッスンで習ったことを自分で家に帰って一生懸命繰り返し練習する時に使う。