体調と水泳
新国立劇場では、シーズン初日が開けて「パルジファル」公演が快調に進んでいる。いつも第1幕の聖杯の神殿への転換音楽の箇所にさしかかると、その素晴らしい音楽に胸が熱くなるのを覚える。
それにしても、飯守泰次郎マエストロは元気だ。僕も、昨年「パルジファル」を振るために体調管理に気をつけたけれど、僕よりずっと先輩なのに全曲を振り終わってもケロッとしている。僕が飯守さんの歳になっても、あのようにいられるだろうかと不安になるほどだ。
こういう言い方をするのは、実は僕はここのところちょっとだけ体調を崩していたからだ。別に病気とかでもないし、風邪を引いたのでもない。僕にとってはいつもの季節風のようなものだ。
夏が終わって涼しくなり、体が夏モードから冬モードに変わる時、いつも僕はちょっとだけ体調を崩す。ある年はジンマシンが出たり、ある年は鼻炎になったりするが、今年はそういうことはない。でも先週の前半までなんとなくパワーダウンという感じだった。
僕が元気か元気でないか、周りの人が判断する方法がひとつある。それは、僕がプールに通っているかどうかだ。プールに通っていないから即元気でないということではない。何故なら、その分自転車に乗っていたり、ウォーキングをしていたり、スキーをしていたり、テニスとしていたり、あるいは仕事が立て込んでいて行く時間が全く取れないかも知れないからだ。
でも、もし僕が足繁くプールに通っていたなら、それは僕が間違いなく完全に健康なしるしである。何故なら、少しでも体調が悪いと、僕は絶対に泳がないのだ。
僕は、昔は自分で気がつかなかったのだが、水の中にいるのが大好きだ。水の中に入ると、自分の体が重力の支配から一時的に逃れてプカプカ浮かぶ夢のような感覚を得られる。自分が魚座だからか、あるいは母親の羊水の中の記憶が残っているからなのか、他では決して味わえない安らかな気持ちが自分を支配する。だから現在では、健康な時にプールに行けないと、水が恋しくて、とても淋しい気持ちになるものだ。
ところが、体調の悪いときは、不思議と全くプールに足が向かなくなる。水の中が大好きなだけに、本当に元気でないと行く気にならないのだ。
そんなわけで水泳から遠ざかっていたが、10月3日金曜日、新国立劇場「ドン・ジョヴァンニ」の合唱の立ち稽古が3時半過ぎに中断して、次6時からだというので、その間の時間を利用して、久し振りに幡ヶ谷にある渋谷区スポーツ・センターのプールに行った。元気な時は、こんな風にいつも水着を持参して稽古場に来ていて、泳げる可能性を物色しているのだ。
10日以上休んでいたのに、不思議な事に、ちょっとだけうまくなっていた。水泳は、同じコースを行ったり来たりするだけで偶然やコンディションに左右されないスポーツなので、嫌でも自分自身と向き合うことを余儀なくされる。前にも言ったけれど、プールは図書館のようだし、水泳そのものが禅のような要素を持っている。それで、一体何に向かい合っているのかというと、ひとことで言うと“体幹”だ。
泳いでいる間に、時々意図的にトータル・イマージョン(TI)の2ビート・キックから離れて、6ビート・キックをしてみた。バタ足を密にやった方が、足が上がって体幹が維持しやすいことに気が付いたからだ。そして、その体幹の感覚をつかんで、それを再び2ビート・キックで生かしてみる。年寄りにやさしいと言われるTIだが、きちんとやろうとしたら、逆に2ビート・スイミングの方がハードルが高いのだ。
最近気がついたのだが、TIといっても魔法の杖ではない。なんでもそうだけど、やっぱり水泳も奥が深くて、本当に極めるためには・・・要するに・・・TIとかなんとか言うよりも、水泳そのものがうまくならなければならないのだ・・・あれっ?僕の言いたいこと分かる?それとも、僕って、なんか変なこと言ってる?
クロールは、結局は掻く力で進む。だけど、たとえば氷の上に何かを放るとスーッとどこまでも進んでいくように、抵抗する要素を極限まで取り除いていくと、ストロークのひと掻きのエネルギーは、思ったよりずっと長い間遠くまで生かされる。
TIでは、その抵抗を取り除く事をとても大切にしているので、2ビートでも進むのだが、その2ビートだと体幹を維持するのが難しいので、かえって抵抗を生みやすいというジレンマがある。結局、要するに軸を安定させて能率良く泳げば、2ビートでも6ビートでもいいのだ。
だからあ・・・それをどうやって習得したり矯正したりするのお?・・・さっきから、同じ所をぐるぐる回っているな。
今は、入水した手を前に伸ばしていって、腰のひねりを感じながらX軸を作ることに凝っている。これもひとつの解決策。うまく抵抗が取れると、水の筒の中を体がどこまでもグライドしていく素晴らしい爽快感が得られる。その時、僕はお魚になった気分でとってもしあわせ!
ああ、健康っていいですね!
編曲三昧
体調悪いと言いながら、やるべきことはやっている。文化庁のスクールのための編曲で忙しい。9校の校歌の編曲が終わって、今はご当地ソングの編曲の真っ最中。みなさんにお聴かせ出来ないのが残念だけれど、神奈川県と静岡県の両方をカバーした民謡「箱根馬子唄」は、キース・ジャレットのパクリっぽい楽想で始まり、ゴスペルっぽい曲調で、結構ノリノリで楽しい。
箱根八里は馬でも越すがという有名な民謡である。
越すに越されぬ大井川
アンの青春
「赤毛のアン」の続編「アンの青春」を読んだ。やはり予想した通り、「赤毛のアン」ほどのインパクトはない。でも作者モンゴメリーの人となりは、より良く理解出来る気がする。美しいプリンス・エドワード島の自然の描写や、善良な人達が繰り広げる善意に溢れた物語である。
想像の翼を広げる夢見る少女アンのキャラクターは勿論そのまま受け継がれているが、そのファンタジーが、夢見る少年ポール・アーヴィングや、素敵な白髪のミス・ラヴェンダーというキャラクターを得て、さらに増殖していくのがいい。そして、この二人の出遭いは、思いがけないさらなる出遭いを導き出して行く。
「赤毛のアン」でも、物語の後半でストーリーが急展開するが、ここでも最後の方に「曲がり角」が現れる。でも、「アンの青春」の曲がり角は、作者が続編を書こうとして、その伏線を張る意図がちょっと見え見えだね。ギルバート・ブライスとの関係も、僕は、物語が始まってすぐにラブストーリーに発展するのかと思っていたが、引き延ばして引き延ばして続編に持ち越されるんだね。
マリラやお馴染みの噂好きのレイチェル・リンド夫人に加えて、ハリソン氏やいたずら坊主のデイビーなど、本編で新たに登場する人物達がいい味を出している。それを彩るユーモアのセンスよ!
でもね、僕が一番残念に思うのは、マシュウがいないことだ。僕は、なんといってもマシュウにたっぷりと思い入れを託して読んだからね。
10ヶ月を過ぎた杏樹がいたずらをすると、妻が志保に、
「だめなことはだめって教えないといけないよ」
と言う。僕も、それはそうだと思うけれど、
「でもねえ・・・」
といいかけて言葉を飲み込む。
こんな風にして、僕は、長女の志保も次女の杏奈も愛犬タンタンもみんな甘やかし過ぎて育ててしまった。だから恐らく妻の言うことが100パーセント正しいし、妻は妻で杏樹を愛する気持ちの強さは僕とちっとも変わらない。愛しているからこそ、厳しくきちんと育てたいと思う妻に、マリラが重なる。
うーん、こんなだから、僕はマシュウがいなくて淋しいわけだ。なにも続編だからといって「赤毛のアン」で死なせたことなんかにこだわらないで、知らん顔して「アンの青春」でも登場させればよかったんだ。そうすれば、もっともっと楽しい物語になったに違いない・・・・なんて、ないものねだりしても仕方ないな。
この先、どんどんアン・シリーズは続くし、それはそれで面白いに違いない。でも、僕にとっては依然として「赤毛のアン」が唯一の作品だ。だって「赤毛のアン」は、次に続くことなど全く想定してない完結した作品だからだ。
勿論、こんな素晴らしい続編の「アンの青春」を書けてしまうのは素晴らしいと思うけれど、きっと僕は、次の「アンの愛情」以降はしばらく読まないと思う。
でもね、でもね、もし誰か、
「続編の中でこの本だけは読んだ方がいいよ」
と僕に忠告したい人がいたら、こっそり言ってね。