知り合い満載の雑誌ハンナ

三澤洋史 

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知り合い満載の雑誌ハンナ
 最近刊行されて話題になっている歌と合唱とオペラの雑誌ハンナHANNA11月号が10月10日金曜日に発売された。家にも一冊送られてきた。新国立劇場で音楽チーフを努めていて毎日会っている城谷正博(じょうや まさひろ)さんが、前号の僕からバトン・タッチして「私の指揮法」を書いている。「歌劇場の指揮者」というタイトルで、彼でなければ決して書けない「オペラ指揮のあれこれ」に触れていてとても興味深い。Hanna 2014 10月号表紙
 今月号の特集は「いま、バッハを歌う意味」。僕も原稿を載せたが、その他の記事がみんな興味深い。書いているのは、まず加藤浩子さん、四野見和敏さん。そして僕の記事のすぐ後に藤崎美苗さん。また取材形式で辻秀幸さん。そして、バッハを日本語で歌うということを徹底して行っている大村美恵子さん率いる東京バッハ合唱団が紹介されている。
 加藤浩子さんは、東京バロック・スコラーズでも司会や講演会などで何度もお呼びしているし、藤崎美苗さんは、今度の12月の「バッハのクリスマス」演奏会でソプラノを歌ってくれる。辻さんもよく知っている。楽しい人であるが、話をしていくと音楽への情熱がひしひしと感じられて、とても好感を持っている。
 バッハの特集の他に紙面をパラパラとめくってみると、いるわいるわ、知り合いばっかり!城谷さんの記事の前のページには、「期待の若手声楽家たち」ということで、当団の2月の演奏会「バッハ自由自在」でアルトを歌ってくれた新国立劇場合唱団員の松浦麗さんが写真付きで載っている。その横の湯浅桃子さんも芸大大学院時代に新国立劇場合唱団員であった。
 巻頭ではバリトン歌手の堀内康雄さんと牧野正人さんが対談している。牧野さんは、バリバリのヴェルディ歌手だけれど、バッハのようなバロック音楽も素晴らしくうまく歌う。まさに、僕がこの雑誌で「様式感さえ踏まえていれば、オペラもバッハも同じ技術のバリエーションで処理出来る」と主張している“生ける見本”である。昔、浜松バッハ研究会でロ短調ミサ曲を一緒に演奏したのが記憶に新しい。

みなさん、興味あったら是非買って下さいね。絶対に楽しいから!

アサガロフの「ドン・ジョヴァンニ」
 オペラ劇場では紫色はタブーだというのをご存じだろうか?カトリック国のイタリアの歌劇場では特に厳しく、紫色の普段着で劇場に入るのもはばかれるのだ。というのは、カトリック教会では、ミサの時の司祭が着る祭服の色は、その時によって違うが、復活祭の前の懺悔の時である四旬節の間や、葬儀の時には特別に紫色である。つまり紫はある意味「喪の色」なので、そこから縁起をかついでタブーになったものと思われる。

 ところが、それを知っていながら、グリシャ・アサガロフの演出する「ドン・ジョヴァンニ」の舞台では、第一幕も第二幕も、クライマックスの舞踏会あるいは晩餐会の垂れ幕の色が、まさに紫色なのだ。アサガロフは、「ドン・ジョヴァンニ」というドラマに「死」の匂いを嗅ぎとっているに違いない。舞台設定をスペインからヴェネツィアに移したのも、歓楽の中に死を感じさせる街ヴェネツィアの退廃性を欲したのだろう。
 この色を舞台で最初に見た時はギョッとした。2008年の初演の時。立ち稽古が進んでいる時に僕の父親が亡くなった。僕は長男なので葬儀の喪主となり、劇場を数日間お休みすることを余儀なくされた。告別式が無事終わり、いろいろな後始末や精算が終わって、ようやく劇場に戻ってきたら、「ドン・ジョヴァンニ」が舞台稽古にまで進んでいた。僕は、やっと死の国から抜け出して明るい生の国に舞い戻ってきたと喜んで劇場エリアに入って舞台を見たら、そこにあったのは、ここでも紫色の支配する死の色彩であったのだ。

 しかしながら、アサガロフの色彩感には天才的なものがある。ただそれは、あざとく誰にでも分かるようなものではなくて、色彩感覚に敏感な人でないと通り過ぎてしまうような性格のものである。
 たとえば、最初に合唱団が登場する農民のシーンでは、黒と白の馬の像が乗っているメリーゴーランドのオブジェと共に農民達が登場する。マゼットとツェルリーナという若いカップルを祝福しながら楽しそうに歌う彼らの衣装の色彩は、ちょうど花柄のティーカップのようで、ちょっと農民にはそぐわないような気もするが、この色とりどりの衣装のお陰でシーン全体が実に華やかで明るい。
 ところがその農民達が去って、ドンナ・アンナとドン・オッターヴィオのシーンになると、父親を亡くしたばかりのアンナは喪服を着ているし、オッターヴィオの衣装も黒である。あたりの照明もモノトーンになっている。
 そうすると、農民達に置き去りにされたメリーゴーランドの色がもともと白黒なので、さっきまであれほど生き生きと輝いていた舞台が、いつの間にか喪一色になっているのに気付かされて背筋が寒くなる。こうした処理が実に見事なのだ。分かる人には分かる“玄人好み”というのだろう。

 ドン・ジョヴァンニがツェルリーナを誘惑しようとする有名なNo.7二重唱La ci darem la mano「手を取り合って」で、ツェルリーナが誘惑に負けてAndiam!「行きましょう!」と言う瞬間の舞台稽古を客席で見ていて、突然ある感情が僕を支配した。その感情は、これを書いているモーツァルトの心境に違いないと思った。それは嫉妬を越えた深い心の痛みだ。
 何故人間は、こんな狂おしい方法で愛し合うのか?それでいながら何故、そんなに簡単に愛を裏切るのか?こんなに裏切りやすいのに、それなのに何故若い男女は互いに愛を誓い合うのか?裏切られる愛の嫉妬や猜疑心は何故こんなに苦しいのか?その問題に誰よりも直面していたのは、妻コンスタンツェの浮気性に苦しむ当のモーツァルト自身ではなかったのか。
 自分では浮気三昧を繰り返していながら妻のロジーナの不貞を容赦しない「フィガロの結婚」の伯爵の姿は滑稽に映るが、それは自嘲的に描いたモーツァルト自らの姿ではなかったか。「コジ・ファン・トゥッテ」でフィオルディリージが陥落する瞬間も、このツェルリーナのシーンも、彼は胸に怒りすら込めながらペンを落としていったのではないだろうか。だからあれだけ痛ましいのではないだろうか?

 モーツァルトは、このオペラにDramma giocoso(諧謔劇)というサブ・タイトルをつけたが、これは断じて喜劇などではない。指揮者のラルフ・ヴァイケルトは、「ドン・ジョヴァンニの地獄堕ちの場面」で、空恐ろしいほどデモーニッシュな音をオケから引きだしている。そのサウンドが舞台裏から聞こえてくる地獄の亡者達の合唱と混じったのを聴く時、僕は、この作品こそ「人類最大の悲劇オペラ」であると確信する。

新国立劇場「ドン・ジョヴァンニ」は、「パルジファル」千穐楽の翌々日の16日から始まり、26日まで4回公演。

カテドラルのオルガン・メディテーション
 今度の待降節(11月30日)から関口教会聖歌隊に関わる僕は、当初考えていたよりきちんと関口教会(東京カテドラル)の10時のミサに通っている。新国立劇場で練習や公演がある日曜日には地方に行けないし、劇場では2時より早く始まることはないからだ。
 10月12日のミサが終わった直後、誰かが僕に話しかけてきた。見ると「ドン・ジョヴァンニ」のドンナ・エルヴィラ役のアガ・ミコライだ。僕はその後すぐに聖歌隊の練習があったので挨拶だけして別れたが、その日の午後のオケ付き舞台稽古の時にゆっくり話をしたら、インターネットで探し出して、先週も大雨の中来たのだという。熱心な信者だ。
「聖歌隊はとてもよく歌っていたじゃない。でも、日本語なので、あたしには全然歌えなかったのが残念よ」
と言っていた。

 その2日前の10月10日金曜日。「ドン・ジョヴァンニ」のピアノ付き舞台稽古が早く終わったので、カテドラルで行われているオルガン・メディテーションに行ってみた。妻も興味を持っていたので誘った。といっても、僕は新国立劇場から電車で、彼女は自宅から車で別々に向かったわけだけれど。
 前半と後半に小島弥寧子(こじま みねこ)さんのオルガン演奏があり、その中間に、関口教会主任司祭である山本量太郎神父の話と祈りが入る。山本神父は、
「このオルガン・メディテーション全体がひとつの祈りですので、間の拍手はご遠慮ください」
と述べておられた。

 演奏された曲目は、P・ブルーナという人の曲に始まり、どれも初めて聴く曲ばかりであったが、小島さんの確実なタッチと興味深いレジスターの選択でとても楽しめた・・・うーん・・・本当は「楽しめた」なんて言ってはいけないのだろうなあ・・・オルガン・メディテーションだし山本神父も祈りだと言っていたけれど、これは音楽家の業(ごう)のようなもので、どうも僕は、演奏が行われている限り祈りや瞑想の気分にはなれないらしい。だって次から次へと楽しいことが立て続けに起こってしまうんだもの。作曲家だって、そう思わせるように書いているし、演奏者だってそう思わせるようにストップを次から次へと変えているんだろう。

 それよりも、このカテドラル聖マリア大聖堂のイタリア製マショーニ・オルガンって本当に凄いオルガンだと思った。楽器自体も素晴らしいのであるが、何といってもオルガンの音が聖マリア大聖堂という特殊な音響構造を持つ空間と見事にマッチして、この聖堂全体でひとつの巨大な楽器となっているのだ。
 超低音のパイプが響いている時などは、共鳴が共鳴を呼び、まるで地響きがするような・・・たとえはあまり良くないかも知れないが、大地震が起きた時のようなズーンという体感が得られる。このオルガンの効果を最大限に味わうには、比較的前の席の中央に座るのがいい。魅力は勿論低音だけでなく、全体の音色は(最強音でさえ)柔らかく心に染みいるようだ。リコーダーの音色なんて、本当に澄み切っていて可愛い。さすが名匠の国イタリアだ。

 聴きながら、僕の心は故チェレスティーノ神父との思い出に戻っていった。昨年の夏、長女志保の結婚式を立川教会で挙げてもらった夜、自宅に神父をお呼びして、ささやかではあるが楽しい食事会をした。その時、神父の口から、このカテドラルのオルガンを入れた時のさまざまなエピソードを聞いたのだ。
 チェレスティーノ神父は、立川教会に赴任する前はカテドラルにいて、東京教区の事務局長であった。その時代に新しいオルガン導入の計画が実行に移され、イタリア人の神父は、先頭に立ってイタリアのオルガン工房との仲介役を務めたわけである。物静かな神父であるが、しゃべり出したら止まらない。滔々と語るその語り口に我々一同あっけにとられた。
 僕も、この神父はもの凄い情熱に溢れた人間だなあと心底驚いたが、その時は、自分がその後こんな風にカテドラルに関わるなどとは夢にも思わなかった。そのチェレスティーノ神父も今年の4月に他界し、もういない。そして僕は今ここで、彼の情熱の象徴のオルガンと向かい合っている。
 オルガンの音の中に、僕はチェレスティーノ神父の遺言を聴くような気もするし、神様の息吹がオルガンの音に溶け込んで自分の体の中を通り抜けていくような気もする。

 自分を聖パウロになぞらえるなんておこがましいことを言うつもりもないが、神様は時に強引ともいえる方法で我々を導く。この忙しい僕が、関口教会聖歌隊を引き受けたなんて、今でも不思議な気がするが、ここまで何かに突き動かされるように来た。さらに、このオルガンの音の洗礼を受けてしまったからには、もう後には戻れない!

お知らせ:次のオルガン・メディテーションは11月14日金曜日19時からです。僕は「ドン・カルロ」の立ち稽古が入っているけれど、なんとか行きたいなあ・・・。


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ノーベル平和賞から最も遠い第九条
 以前にも触れた話題である。ノーベル平和賞が決まって、巷では日本国憲法第九条がもらえなくて残念という声も聞こえてくるが、僕はむしろマララさんになってよかったと思っている。憲法第九条は非の打ち所のない完璧な平和憲法である。当然これはノーベル平和賞に値する。ただし、日本がこの憲法を完璧に守っていたらば・・・の話である。

第九条 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
第二項 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

 では自衛隊が存在しているのは何故?すでに違憲では?自衛隊は「陸海空軍その他の戦力」ではないというわけ?しかも、その存在するはずのない自衛隊が集団的自衛権を持って他国の戦力と連係プレイをとって武力を行使出来るように「憲法解釈」しようとしている。存在すること自体が憲法解釈の範囲では収まらないというのに・・・・。

 市民団体が、現在の日本のこうした風潮を受けて、政府に歯止めをかけるためにノーベル平和賞を得たいと思う気持ちはよく分かる。
「受賞した時の安倍首相のスピーチを聞いてみたいもんだ」
と言っている人もいる。でも、もし本当に平和賞を取ってしまったら大変だ。即座に日本は「欺瞞国家」として各国からの激しい攻撃にさらされることになるだろう。
 それならそれでいいかも知れない。完全なる武力放棄に追い込まれるのもいい。では、本当に自衛隊がなくなって国全体が全く武力を持たなくなることを国民は望んでいるのだろうか?たとえば、やけっぱちになったある隣国が、ミサイルを本土に撃ち込んできて、日本のある都市が壊滅的な被害を被ってもなすすべを持たず、さらに次の攻撃が来るのを怯えている状態を、本当に国民は受け入れるというのだろうか。
“自分たちが自ら犠牲になることで”世界に平和の必要性を訴えるという自己犠牲の覚悟をもって、はじめてこの絶対的な平和憲法に価値が生まれるのだ。皆さんひとりひとりに本当にその覚悟があるか?
「いざとなったらアメリカが助けてくれるだろうから、自分たちは武器を持たなくていい」
などと虫の良いことを言っていたら、世界中から笑いものになるだけだ。いや、笑われるだけならまだいい。平和賞を取ったら、今度はまわりは本気で怒ってくるよ。

 つまり、日本国憲法第九条は、今のままでは、ノーベル平和賞から最も遠い机上の空論だ。
「平和って、いいわねえ、素敵ねえ」
とロマンチックに言っている人がノーベル平和賞をもらえるわけではない。また、そんな悠長な世の中でもない。現代という末法においては、マララさんのように命の危険に身をさらす覚悟すら必要な賞なのだ。平和には代価が伴うのだ。
 国民ひとりひとりが、マララさんの運命を自分も被ることを厭わないという心境になったなら、みんなで第九条ノーベル平和賞の運動を起こそう。
僕には覚悟は出来てるよ。



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