自由を守る我々の手

 

三澤洋史 

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自由を守る我々の手
 さすがフランス革命の国だ!彼らには、自由を自分たちの手で勝ち取ってきた誇りがある。だからそれが脅かされる時には、いつでも立ち上がり、何度でも勝ち得るのだ。

 12人が殺害された「シャルリー・エブド」社への襲撃事件に始まるイスラム過激派による連続テロを受けて、2月11日、パリに160万人ほどの群衆が集まり、追悼と抗議のデモが行われた。そこにドイツのメルケル首相、イギリスのキャメロン首相をはじめとした各国の首脳らが集まった。特筆すべきは、普段は敵対関係にあるイスラエルのネタニアフ首相とパレスチナ自治政府のアッパス議長も加わっていたことだ。
 どんなにテロ集団達が暴力で封じ込めようが、民衆は、「自分たちの集まった力で言論及び表現の自由を守り抜くのだ」という勇敢で美しい行為を実践している。デモには、沢山のイスラム教徒達も参加していたと聞くが、素晴らしいことである。それは、「イスラム教イコール悪である」という誤った認識を防ぐことに役立つだろう。その人達が逆にイスラム教徒であることで差別を受けたりしないように僕は祈る。信教の自由も、民主主義の中ではあくまで保証されなければならないのだ。
 僕のDNAの中には、どうもこうした行動にとても深く共鳴する部分があるようだ。この事実を聞いただけで胸が熱くなるのを感じる。僕は、人類は本気になれば明日にでも全世界に平和を実現させ、飢餓を終わらせることが出来ると信じている。宗教も肌の色もそのままで、人は仲良く助け合いながら生きていけると信じている。
 神はその日の来るのを忍耐強く待っているが、しかしながらそれを実現させるのは神ではない。それでは意味がないのだ。平和を創り出すのは、我々ひとりひとりの手によってでなければならない。「ラ・マルセイェーズ」を国歌に置くフランス人達は、それを知っている。

 日本人の若者よ!スマホをいじってバラエティ番組ばかり観ていないで、民主主義や平和を語り合おうではないか!日本をこれ以上情けない国にしては駄目だ!

映画「神は死んだのか」
 いきなり新春からガツンときた。無神論者の哲学教授とクリスチャン学生との宗教的議論の映画と聞いていたので、どうせ理屈っぽくて退屈な映画かなとたかをくくっていた。しかし、物語は意外な展開をしていき、最後のどんでん返しのような結末を見ながら、僕は心底感動し、心は暖かいものに満たされていた。

 この映画の原題は「死んだのか」という疑問形ではなくてGod's not dead「神は死んではいない」という肯定文。いつも思うのだが、日本人って何故こういう風にタイトルをちょこっとだけ変えるのだろう?日本人の中にはもともと神などは生きていないのだから、むしろ「死んだのか」と疑問文を突きつける方が興味をそそると考えるのだろうか?
 まあ、それはいいとして、勿論この映画は、タイトルのように知的好奇心をくすぐられる内容に満ちている。無神論者たちが無神論の根拠として必ず持ち出す様々な理論を、この学生がいとも簡単にくつがえしていくのを見るのは痛快だ。
 確かに教授の言うように、神の存在を理論だけでは完全に証明出来ないかも知れない。だが、神の存在を理論で完全に否定することも、全く同じように出来ないのである。つまり理論だけでは、神の存在に関しては永久に五分五分なのである。
 それなのに、世界は、神の存在を否定する前提に立って、科学を筆頭に文明を発展させてきたし、教育も行ってきた。ビッグバンの理論は、エネルギーのエントロピーの理論と矛盾するし、たまたま出来たタンパク質が、進化するのと同じように退化あるいは拡散して元に戻る可能性が五分五分以上にはあり得ないのに、人間のような高度な知的生物が生まれるまで、“あり得ないほどの偶然の連続”で進化してきたという理論を、教育は強要している。断っておくが、僕は進化論を否定してはいない。問題は、それが単なる偶然なのか、あるいは“何らかの必然”が1パーセントでも働いているのかという点だ。
 ここではそれ以上の理論の深入りはやめよう。無神論者が神の存在を信じないスタンスに固執している限り、理論でどんなに言い負かしたとしても、
「ハイ分かりました。今日から信仰を持ちます」
とはならないだろうから。

 さてこの映画は、観る者を「理論的なアプローチ」によって信仰者に導こうという目的で作られているわけではない。実は、神の存在についての議論はむしろ隠れ蓑といってもいい。それが証拠に、後半にいくに従って、ストーリーの中にエモーショナルな要素が大きくなり、最後には、もう議論などはどうでもよくなってしまうのだ。

 ある女性は、バリバリのキャリア・ウーマンとして働いているが、医師にいきなりかなり進行している癌であることを告知され、さらに仕事上の協力者である恋人にも棄てられ、絶望のどん底に墜ちる。死は彼女の前に避けがたい現実として立ちはだかり、彼女は絶対的な孤独の中にうち沈む。
 人は必ずいつかは死ぬ。これは全ての人間が受け容れなければならない無条件の事実である。そして死にゆく人間は、他者から完全に隔離された絶対的な孤独の中にいる。もし無神論の中に生きるとしたなら、死とは完全な終焉であり、慰めも希望もない虚無である。
 しかし本当にそうだろうか?その虚無の暗闇の中に、一条の光は差し込まないのだろうか?その沈黙の中に、遠くから自分を呼ぶ声が聞こえはしないだろうか?その絶望の深淵の中に、かすかな癒しのぬくもりは感じられないだろうか?自分が、ボロ切れのように見棄てられた存在ではなく、はてしない愛で包まれているのが感じられないだろうか?

この映画が表現したかったことは、こうしたことだ。
「あなたは愛されている」
とどのつまりは、人生はこのひとことに集約されるのである。



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