ピエール=ロラン・エマールのバッハ

三澤洋史 

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ピエール=ロラン・エマールのバッハ
 ピエール=ロラン・エマールは、これほど優秀なピアニストでありながら、今まであまり一般的に知られていなかった。その理由は、リゲティなどの現代音楽の分野で活躍していたからである。12歳の時に作曲家メシアンの妻のイヴォンヌ・ロリオに見出され、15歳の時にメシアン・コンクールで優勝した早熟の天才である。
 最近バッハ演奏に傾倒し、「フーガの技法」に続いて「平均律クラヴィーア曲集第1巻」のCDを出した。先日タワー・レコードで、仕事のためのいくつかのCDを買ったついでに「平均律」のCDを買ってi-Podで聴いている。
 僕は、楽譜を見ると頭の中に音が浮かんでくるので、特に「平均律」のような構築性に富んだ曲は、楽譜さえあれば音源がなくてもいい。ということは、チェンバロのようなダイナミックの変化がつけられない楽器での演奏は、基本的にあまり興味がないのだ。
 興味があるとすると、ピアノのように「モノクロではなく色彩感の出せる楽器での演奏」だ。
「おおっ、この楽譜からこういう景色が浮かび上がるのか!」
とか、
「この楽譜に対して、こういう風にアプローチするのか!」
とか驚かしてくれる演奏が好きなんだ。

 これまで聴いたピアノによる「平均律」の演奏で、僕が気に入っている演奏がふたつある。リヒテルの演奏とシフの演奏だ。リヒテルはレガート中心で、特に弱音の表現が夢見るように美しい。反対にシフの演奏は、ノン・レガートの表現が際立っていて、ピアノというモダン楽器でありながらピリオド演奏の歯切れ良さが特徴。
 さて、このエマールの演奏はどうであるか?やはり現代音楽を得意にしてきただけあって、リヒテルのようなロマンチックなアプローチではない。ノン・レガート奏法中心という点ではシフに近い。テクニックには恐るべきものがある一方で音が異常に美しい。しかも、その美しさはリヒテルともシフとも違う独特のものがある。
 冒頭から聴いてみよう。有名なハ長調前奏曲。うわあ、最初からなんてきれいな音!あれっ?12小節目からなんとなくテンポが速くなってきたぞ。23小節では、一度ゆったりと落ち着いて・・・また24小節目からアッチェレランドがかかってきた。他のピアニストも多少はこうしたアゴーギクをやらないでもないが、エマールのは意図的にテンポを変えて遊んでいる。こうした曲がいくつかあって、そのテンポ設定には(僕的には)全て納得のいくものではないが、こういうのもアリかな。反対にインテンポの個所は凄まじいまでのインテンポで推進力を表現している。
 たとえば変ホ短調の前奏曲とフーガは、リヒテルの美しさに敵うものはないと思っていたけれど、考えをあらためた。リヒテルのように夢幻的な世界に耽溺していくのではなく、前奏曲では適度なゆらぎで即興的なくつろぎを感じさせ、フーガでは逆に深い思索の中に沈潜していく。テーマは逆行形でも拡大形でも自由自在なバランスで浮かび上がってくる。

 これまで一度も「平均律クラヴィーア曲集」を聴いたことがないという人にイチ押しのCDです。こういうのを聴いちゃうと、チェンバリストには申し訳ないけれど、「平均律」は断然ピアノの方が面白いぜ!僕の「21世紀のバッハ」の精神に通じるものがあり、僕のモダン楽器のバッハ演奏というスタンスの背中を押された気分。

「青年は荒野をめざす」とダサイ70年代
 先週この欄で書いた「カモメのジョナサン」を読んだ後、しばし高校生の頃の思い出にふけった。この完成版の翻訳を行っていたのは五木寛之氏。考えてみると僕は高校生の頃から五木寛之氏の小説を好んで読んでいた。さらに最近になって「親鸞」をはじめとして宗教的なものに深く傾倒している五木氏に大いに共感を覚えている。
 そこで、昔読んでいた五木氏の小説がないかなと思って、いくつかの本屋で探してみた。「親鸞」はすぐ見つかるのだけれど、他の小説はなかなかない。ある本屋で「青年は荒野をめざす」(文春文庫)を見つけた。1967年に出版され、まさに高校生の頃の僕たちにとってバイブルのような存在であった小説だ。買ってきて、早速読始める。

 うーん・・・ダサイ!ダサすぎる・・・恥ずかしい・・・というのが読み始めた僕の正直な感想。ジャズ・トランペットを吹く主人公のジュンが、自分のプレイに何かが足りないと悩んだあげく、思い切って旅に出る。横浜港からナホトカ港行きの船に乗り、ロシアから北欧を通って最後にはニューヨークに向かう。この小説の終わり近く、ジュンはリスボンからニューヨークに向かう船の中で父親に手紙を書く。その中にこういう一節がある。

こんなことを言うとおかしいけれど、ぼくはなんだか自分が一まわり大きな男になったような気がするのです。
おかしな話ですが、ぼくはモスクワで、アエロフロートのスチュワデスをしているリューバという娘と初めてセックスの体験をもちました。そして、スウェーデンではクリスチーヌや、アンナ、とも寝ました。コペンハーゲンでは麻紀という日本の少女と一晩を過しています。
ぼくは、そのことで大人になったと思っているわけではありません。ですが、これまでトランペットの勉強を、音楽の面からだけ追求してきたことに対する、ある反省のようなものを、そんな行為の中からくみ取ったような気がします。つまりテクニックだけが音楽じゃないということです。
 ふうん・・・それが荒野をめざすということか?ってゆーか、これってただの自慢?そういえば昔、国立音大の学生の時に同級生の女の子が僕に相談してきたっけ。
「先生があたしの歌には面白みがないって言うの。先生は、あたしが男の人を知れば歌に味わいが出てくるって言って、なんなら俺が相手してやろうか、って言うんだけど、どう思う?」
「ふん、やめとけ、やめとけ!そんなのお前と寝たいためにテキトーなこと言ってるだけだから。男ってそんなもんさ。お前の歌の味わいになんて最初から興味ないに決まってる」
「・・・・・」
 異性と寝さえすれば音楽に味わいが出てくるなら、こんな簡単なことはないわ。そういう問題ではないの!“音楽の中に”味わいを出すっていうのは、もっと全人格的なことで、ある意味先天的な要素でもある。何かのきっかけで眠っているものが目覚めることはあるかも知れないが、「味わい」を感じられない人は一生感じられない。シビアだけれど、それが現実だ。
 こんな風に、当時の風潮としてありがちなジャズ、ひとり旅、ゆきずりの恋といったステレオタイプの洪水に、冒頭から結構失望し「上から目線」になってしまったが、読み進む内に妙に惹かれていって、最後には不思議な感動を覚えながら読み終えた。

 何故なんだろう?何故こんなに胸が熱いのだ?それはきっとこういうことかも知れない。確かに現代の視点から見ると、あの時代のものは全てにスマートさが欠けている。でも、あの時代の“未来を信じたバイタリティ”というものがヒシヒシと伝わってきて、今の僕にはまぶしいのだ。
 ジュンはまだジャズの未来を信じていたんだね。70年代に入ると、ジャズにロックのリズムとエレクトリック・サウンドが導入される。クロスオーバー、ヒュージョンという言葉が飛び交い、4ビートを棄てたジャズは、しだいに衰退の一途を辿ってゆく。ジャズの牽引役であったマイルス・デイビスは、結果としてジャズの衰退をも牽引していき、彼の死によってジャズの歴史は事実上終焉を迎える。80年代終わりの話。
 ほぼ時を同じくして、クラシック界ではカラヤン、バーンスタインが相次いで死に、クラシック音楽のレコードが売れた時代も終わりを告げる。まもなくバブルがはじけ、世界は「未来が信じられない時代」に突入してゆく。そして地下鉄サリン事件が起きて宗教が信じられなくなり、9.11が起きて平和が信じられなくなり、阪神大震災や3.11が起きて平穏に続いていく日常が信じられなくなっていくのだ。

 ところがね、あの時代に小説を書いた五木氏をはじめとして、それを読んでいた僕たちの誰も、その川の先に待ち構えている“恐ろしい滝の存在”に気がついていないんだ。その「のほほんとした」時代の風が僕たちの胸を打つとしたなら、逆に言うと僕たちはなんて不幸な時代に生きているんだろう。

 そんなこと考えていたらノスタルジーの連鎖反応が起きてしまった。「青年は荒野をめざす」の余韻を味わっている間に、突然むしょうにカルロス・サンタナのラテン・ロックが聴きたくなった。そこで、タワーレコードに行って「ザ・ベスト・オブ・サンタナ」のCDを買ってきて、i-Padに入れて聴く。その中の「哀愁のヨーロッパ」を聴いて涙した。
 しかし、これもダサい。ありがちな8ビートにラテン・パーカッションが絡んでいく。時代を感じさせるディストーション・ギターの、ギャーギャーしたとても楽音とは言えないサウンド。ハモンド・オルガンのいやらしいトレモロ。でも・・・いいなあ。ラードーミ・ミーーーとメロディーが上昇する瞬間、泣けるなあ。まったく、ダサイといいながら感動しているんだから世話ないよ。

 あのころってさあ、今よりずっと街が雑多だったね。あっちこっちにポルノ映画のポスターが貼ってあって、それを見る度にドキドキしていたし、テレビだって「時間ですよ」みたいに変なエッチ・シーンがある番組が当たり前のようにあって子供も一緒に観ていた。なんて不用心な時代!
 親父がニヤニヤしながら観ていたのを、僕は端から、
「バッカじゃないの?」
と思いながら冷ややかに眺めていたっけ。わけもなく、なんとなく親の生き方に反発したい年頃。
「俺は俺なんだ。もう子どもじゃないんだ」
なんて粋がっている僕に、「青年は荒野をめざす」は大人の香りを運んできてくれたんだろう。

答えは雪に聞け
 今年のJR SKISKIのキャッチコピー「答えは雪に聞け」は、なかなかやるなあ。

ガーラ湯沢のスキーセンター・チアーズのテレビに映し出されていたプロモーション・ビデオを観て感心してしまった。女の子の表情が可愛いし、胸キュンなショートストーリー仕立てで、次の展開を知りたいと思うところで途切れている。まさに「その答えは、あなたが雪に聞いてね」と言っているかのようだ。
 いくつかのスキー場では、20歳前後のリフト券をただにして若者を呼び込もうとしている。次の世代のスキー客を育てようとする試みに、この宣伝は効果的だろう。これを観て、行ってみようかなと思う若者も少なくないかも。
 しかし言っとくけど、このビデオのように新たなロマンスが待っているなんて期待しない方がいいね。それどころか、僕は思うんだけど、実際にはスキー場って、一番ロマンスが生まれにくいシチュエーションではないかな。
 たとえば目の前で女の子が転んだとして、手を貸して助け起こしたとする。でも、相手は、帽子やゴーグルやネックウォーマーで顔をスッポリ覆っているし、ボテボテに着込んでいるので、スタイルも分からなければ歳だって分からない。後でロッジでよく見たら、
「こんなはずじゃなかった!」
なんてことになりかねない。

 さて、冬になるとこのページがスキーの話題ばかりになるのは、みなさんには申し訳ないが、どうか許して下さい。興味のない方は読み飛ばして下さいね。自分で言うのは恥ずかしいのであるが、最近、コブを滑るのが少しうまくなって、よほど悪雪の厳しい環境でなければ、安定して滑り降りることが出来るようになった。それと同時に、スキーの基本というのは、コブであれ整地であれみんなつながっているのだ、ということが本当に身にしみて分かってきた。
 大切なことは、次の2点に集約される。それは、外足荷重と切り替えの時の重心移動だ。完全に整備された整地なら、内足にも乗って両足加重でもいい。しかし、すこしでもゲレンデが荒れていたら、すぐに外足荷重にするべし。要するにどんな時でも外足荷重にしておけば間違いないのだ。コブでは完全に外足荷重が出来ているかどうかが試される。これが出来ていないと、絶対にうまくいかないから。
 その外足荷重という土台の上に、切り替えの重心移動がある。ターン後半では、しっかりと谷足に重心を乗せ、そのままブーツのスネの部分を押すようにしながらかがんでいく。重心はだんだんカカトに寄っていき、カカト加重で仕上げる。かがんでストックを突いた反動で重心を解き放つ。その時、ストックを突いた点とスキー板との間に重心を移動していく。特に急斜面では怖がらないで!むしろ自分の身を、
「えいやー!」
と谷に落とし込んでいくようにする。すると、スキー板の先端に重心がかかり、決して板が暴走しないし、意のままに操れるのだ。コブの場合は、上体を常に谷の真下(フォールライン)に向け、カカト加重でズラすのだが、決してターンの直後、直接カカトに加重してはいけない。瞬間だけでもつま先から入らないと板が暴走する可能性があるから。
 ね、単純でしょ。これだけでいいのである。これのみがスキーの王道である。さて、こう言っておきながら、矛盾するようなことを言うが、これが出来たらね、整地では、エッジを立てて板のカーヴィングの性質を全面的に利用するフルカーヴィング・ターンも魅力的だ。何故なら、なだらかな整地だってびっくりするようなスピードが出るからだ。
 重心移動は一緒だが、ターン最初を内足の小指から行う。すると板が、
「おっ、やるの?」
と訊いてくる。すでにキュインと加速している。不思議なことに、ターンが始まるとすぐに遠心力がかかるので、結局外足に重みがかかってくる。以前はそれでも両足に均等に乗ろうと努めたが、ナンセンスだと気が付いた。遠心力に逆らわずに外足に加重するのが自然だし安全だから。その際、ターンが進むにつれて、外足をグーンと伸ばしながら後ろから前に押し出していく。内足は折り曲げてたたみ込む。これが加速感を生み、キュイーンとジェット機みたいに加速して、そのまま空中に離陸していくようだよ。
 ただ、このフルカーヴィングは、先ほどの王道を極めてからでないと危ない。整地といっても小さなデコボコが至る所にあるので、それを膝で受け止めるのは楽ではない。初心者はやめた方がよい。
 でも僕は、1日の滑りの最後に、ガーラ湯沢の全長2.5キロの下山コースをフルカーヴィングでぶっ飛ばすのが何より楽しみだ。やーい、誰も僕に追いつけないぞ!下のスキーセンターのカワバンガに辿り着いた時には足がパンパンになっている。そのままガーラの湯に直行だ。湯船の中でゆっくり揉みほぐし、サウナに入って水風呂に入ってサウナに入って水風呂に入って、サウナに・・・・・、フラフラになってお風呂から出て来て、ソフトクリームを食べると、ああ、生きてて良かったなあと思うんだ。なんて単純!
 
 なんだこの記事!何が言いたいんだ?ええと・・・・要するに、若者達はスキー場でJR SKISKIのような出遭いを待ってるかも知れないけれど、じいじはお風呂で、
「ああ、こりゃこりゃ!」
を求めに行くってことさ。



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