デフロの「マノン・レスコー」

三澤洋史 

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デフロの「マノン・レスコー」
 演出家ジルベール・デフロが冴えている。でも、立ち稽古の進め方は決して上手とは言えない。何故なら、みんなを待たしておきながら、冒頭から歌手たちの少しの演技の曖昧さも許さず、動きを徹底的に直すものだから、1ページ進むのにどんだけ時間がかかるんだ、という感じだ。
 ずっと待っていて、結局自分の出番が来ない内に稽古時間が終了してしまった歌手は怒っているし、第一、演技をつけるのに夢中になっていて、休憩時間や終了時間も忘れてしまっているので、演出助手が、
「休憩しましょう!」
と言わないと、永久に練習を続けているだろう。するとデフロは、
「なんだ、調子が出てきたのに・・・・」
と不満の感情をあらわにする。
 しかし・・・だからこそ凄いのだ。時を忘れるくらいドラマにのめり込むデフロ。演ずる者のわずかな身のこなしの違いに、リアリティと嘘が交差する。その中からリアリティだけを選び取っていく根気の要る仕事。そうやってリアルなドラマをつないでいく。雷に打たれたような出遭いの瞬間。驚き。胸の高鳴り。ときめき。あこがれ。こうして劇は構築されていくのだ。

 一方、指揮者のピエール・ジョルジュ・モランディは、真の意味の職人。僕が最もリスペクトを捧げるタイプのマエストロだ。すべてを知り尽くし、音楽的アイデアはクリアで指揮も明解!合唱団を含む一同に対して、どういう仕上がりになりたいかをくっきり描き出し、さらに目の前の人参のぶら下げ方も適切。つまり、練習初日から公演千秋楽まで決してブレない、大船に乗った気で委ねられる親方。

 僕は、「マノン・レスコー」という作品が大好きだ。前回2011年の時には、一般論に従って、なるほどワーグナーの影響があるなあと思っていたが、不思議と今回は全く思わない。それどころか、「トスカ」以降のように印象派などに惑わされたりしていない、まだ初々しいプッチーニの生の音楽の魅力に溢れている。

Giovinezza e il vostro nome 青春、それが君たちの合い言葉 
La speranza e nostra Iddia 希望、それが僕たちの女神 

という学生達の歌詞につけられた、あの熱にうかされたようなメロディーとそれを支える色彩的な和声。もう、たまりませんわ!
 2011年、3.11によって陽の目を見ずに没になった痛恨のプロダクションであるが、さらに一段とパワーアップして、今度こそ皆さんにお届け出来るに違いない!

10年目のドイツ・レクィエム
 2月22日日曜日は、名古屋モーツァルト200合唱団の練習。9月6日の「ドイツ・レクィエム」演奏会のための練習だ。「ドイツ・レクィエム」は、2005年東京交響楽団特別演奏会以来初めて指揮をする。別に封印していたわけではない。ただ単に依頼がなかっただけの話である(笑)が、仮に依頼が来たとしても、決して安請け合いはしなかったに違いない作品であることは確かだ。
 その初回の練習なので、久し振りに自分のCDを聴いてみた。驚いた。手前味噌で恐縮であるが、結構いい。冒頭のSelig sind「さいわいである」から、自分の好みの音色に仕上がっているし、なにより東響コーラスが、本当に僕の意図を良く理解して、咀嚼して、自分のものとして表現してくれている。これを超える演奏をすることは至難の業だ。

 ただ、この10年の間に僕の内面には少なからぬ変化が起こっている。それは、自分の生き様の変化に基づいている。僕は、自分の人生を振り返ってこう思う。自分がより高い音楽を求め、より強くなろうとしたのは、より優しくなるためなのだ。自分が高まることによって、自分のコンプレックスや弱点を克服し、なにものにもとらわれない自由な魂になることによって、本当に他者に心を開くことが出来るようになるのだ。
 コンプレックスを持っている人間は、そのコンプレックスを与える人に対して心を開けるはずがないではないか。一番高い山に登れた人間が、広い世界を邪念なく見渡すことが出来るのだ。
 10年前を超える演奏会の可能性は、僕の内面の進化に委ねられている。間違いなく言えることは、今の僕にとって、「ドイツ・レクィエム」で取りあげられた歌詞のひとつひとつは、10年前よりもずっとダイレクトに僕の内面と溶け込んでいる。言葉を変えると、10年前よりもずっと、聴衆の心に染みいるような“うた”を奏でられる可能性があるということだ。「癒しのレクィエム」は、10年前よりももっと深く優しくあたたかく奏でられるであろう。勿論、それは可能性であって、それは、これからモーツァルト200合唱団と創り上げていかなければならない。楽観は出来ない。

 50歳の「ドイツ・レクィエム」と、60歳の「ドイツ・レクィエム」。どこが違うのか、みなさんにも自分の耳で体験していただきたい。ひとりの人間の生き様の変化が、年輪の重みが、具体的にどう音楽に影響を与えるのか、僕自身も興味の湧くところでもあるし、自らの人生を賭けたチャレンジでもあるのだ。

ニセコのお土産
 新雪レッスンをしてくれた伊藤俊輔さんから写真が届いた。届いたといってもファイルでだけど。先週も書いたように、伊藤さんは、現在ニセコでレッスンのインストラクターと共に、新雪ガイドや写真家として活動している。僕のレッスンの時にも、自分のfacebookなどに載せるための写真を撮っていたので、それを譲っていただいたのだ。
 レッスンの最中、彼は、
「これから写真を撮りますので、僕が下に降りて準備が出来るまでちょっと待っていてください」
と言って、シャーッと格好良く降りていった。見ると、めちゃめちゃ急斜面やんけ。
「ヤだな、フォームが乱れたら恥ずかしい」
と思ったら、体が硬くなってきた。





新雪レッスン

 これが、いわゆる僕が新雪を滑っている写真。緊張していたので、自分としたらどちらかというと不本意な滑りだった記憶があるが、撮る人が素晴らしいからなんとか格好になっているぜ。
 伊藤さんは、
「アルペンの選手もモーグルの選手も、タイムや点数がいつも立ちはだかっているから、みんなシビアな感じで滑っているのですが、新雪を滑る人だけは『わははは!』と笑いながら降りてくる人が多いんですよ」
と言っていたけれど、出来た僕の写真を見ると、僕も笑っているやんけ!まあ、バランスを崩してもドンマイ、気にせずやっていこうって感じだね。

 さて、ニセコからは、もうひとつのお土産を持ってきた。ニセコに滞在中、ずっと喉が痛かった話は書いた。滞在中はほとんどしゃべらなかったので気がつかなかったが、羽田に着いた途端、喉の痛みに代わって今度は鼻水が出てきた。それが風邪なんだかアレルギーなんだか理由がいまだに分からない。
 次の日、新国立劇場に行く。「運命の力」の合唱音楽練習を始めると、みんなが僕の声がおかしいことに気がつく。それを分かっていながら、僕は練習中に随分声を出して歌ってしまった。

 何故なら、僕はワーグナーとヴェルディを練習する時だけは、ちょっと普段と違う。ワーグナーとヴェルディの時には、合唱団員の発声にかなり口を出すのだ。ワーグナーの時には、サウンドを作り込み、ひとつの音色にまとめることに集中する。一方ヴェルディの時には、団員のベルカント唱法のスキルを上げる・・・すなわち合唱団員ひとりひとりの基本的テクニックを磨くことに集中する。
 それはイタリア料理の本質とも共通する。イタリア料理では究極的なところ、素材の味を最大限に引き出すことが求められるのだ。素材が極上なら、味付けをどんどん削って、究極的には塩だけでお客の前に出す。これこそがシェフ最大の勇気であり、賭である。ヴェルディで要求されるのは、いつも最上級の声だ。素材さえ良ければ、あまり作り込まなくてもよい。まあ、基本的実力をレベルアップするのだから、逆に時間も手間もかかるのだけれどね。
 ヴェルディでは、現在の新国立劇場合唱団のベルカント唱法のレベルがどの辺にあるのか、全く明るみに出てしまう。恐ろしい作曲家なのである。最高のレベルでないと決して出せないサウンドがあり表現法がある。それを知っているから、僕はヴェルディの時には、いつもにも増して練習中に歌ってしまうのである。

 ということで、声の調子がおかしいのを承知で練習中沢山歌ってしまったため、次の朝目覚めた時、声が全く出なくなってしまっていることに気付き、愕然とする。こういうことはたまには起こるのであるが、こんなに出なくなってしまったのは、生まれて初めてかも知れない。
 こんな時、声楽家でなくて本当に良かったなと思うけれど、でも実際問題、声が出ないということには合唱練習もまともに出来ないのでかなり辛い!その日も、午後の「運命の力」と晩の「マノン・レスコー」の音楽練習はしなければならない。そこでマネージャーに用意してもらって、マイクとスピーカーを使って練習した。
 合唱団員達は僕のことを気の毒がって、いろんな飴を持ってきてくれる。中には高価なプロポリスの瓶をくれる人もいた。ありがたくて涙が出そうだ。でも、練習中は僕の声があまりに変なので、みんなニヤニヤ笑っているけれど・・・。

 こんな風に、ニセコから変なお土産を持ち帰ってしまった。でも、勿論ニセコを恨むわけはないし、ましてやニセコに行ったのが間違いだったなどとはつゆほども思わない。それどころか、目をつぶると、いまだにあの広大な雪山そのものや、雪をかぶった白樺の林や、変化に富んだ数々のゲレンデの景色が頭に浮かぶ。
 本州のスキー場では、とても制限が厳しくて、きちんと整備されたゲレンデしか滑らせてもらえないけれど、北海道では、樹木の間であろうと処女雪の急斜面であろうと、自己責任でかなりのエリアが自由に滑れる。整地はもちろんきちんと圧雪車で整備されている一方で、いたるところ非圧雪地帯が点在し、スキーヤーやスノーボーダー達は、当たり前のようにそれらのゲレンデを縦横に行き来する。まるで、どんなコンディションだって連続的に滑れなければ、雪山をエンジョイする資格はないのだ、と言わんばかりに・・・。
 あの「みそしる」というコブ斜面でも、沢山のスキーヤーやスノーボーダー達が上手に滑っていたなあ。モーグルの選手に違いないが、コブを攻撃的にバッサバッサとさばいていくスキーヤーもいたし、白樺の林を目にもとまらぬ速さで疾走していくボーダーもいた。彼らにとってスキーやスノーボードというものは特別なものではなく、まるで呼吸をするように、彼らの日常に溶け込んでいるように思われた。
 そうした彼らの姿を見ていて、まだまだ僕はただの浮かれた素人に過ぎないなあと思い知らされた。全てにおいてまだまだぎこちないし下手くそだなあと思った。別に下手くそだからって、誰に謝るというものでもないし、自分のお金遣って勝手に滑っているのだから、引け目を感じる必要もないのであるが、湯沢なんかで天狗になっている場合じゃないことは確かなのだ。
 僕は、もっともっと広い世界に出て行って、自分自身の未熟さを突きつけられながら、心ゆくまで精進したい。全世界のあらゆる種類の雪山を縦横に駆け抜けてみたい。しかし・・・・どうしてこう思えるんだろう?ここまでの気持ちになれるものは、これまでの僕の人生の中で、スキーをのぞいてはただ音楽しかなかった。この歳になって突然湧いてきたこのスキーへの異常な情熱の向こうには、一体何があるんだろう?
人生まだまだ分からないことばかりだ。

虎太朗と雅之~広がるスキー熱
 2月21日土曜日。今日は朝から東京バロック・スコラーズの練習。声が全然戻っていないので、なるべく歌わずに言葉で沢山説明していたら、やっぱり喉が疲労してしまった。午後は、当団がお呼びしたバッハ研究家である江端伸昭氏の団内向けの「ロ短調ミサ曲」の講演会。ここでちょっとだけ声を休める。会場に笑いが絶えないとても楽しい講演会であった。勿論、同時にためになるお話で、知的刺激を大いに受けたことは特筆しておきたい。
 その後、高崎線に乗って、晩は群馬県の新町歌劇団「おにころ」の練習。説明は発声に良くないというのを午前中の練習で思い知ったので、やっぱり歌って見本を示した方がいいかなと歌ってしまったら、当然の結果のように再び声がガサガサになってしまった。要は、声を使うこと自体が良くないんだ。それは分かっているんだけどね・・・。

 練習後、お袋のいる実家に帰ると、姪の貴子の家族、すなわち貴子と夫のあゆむ君、それに彼らの長男の虎太朗が来ていた。帰るなり貴子に、
「どうしたん?凄い声だね」
と言われた。
 貴子一家は昨晩実家にやって来て、今日は、ここを拠点に嬬恋の方に日帰りスキーに行ったそうだ。明朝は湯沢中里スキー場に行くのだという。なんと、僕に例のロードバイクをくれた甥の雅之と一緒だというのだ。雅之は、お正月にみんなで一緒に水上ノルン・スキー場に行ったのが楽しくて、その後スキー板とブーツを買い、なんと日曜日毎にスキーに行っているという。ある時僕に、
「おっちゃんスキーに行く時、一緒に連れてってくれない?」
とメールを打ってきたが、僕が、
「日曜日はかえって忙しいんだ。平日しか行かないんだよ」
と言って、自分の行く日を列挙すると、
「駄目だこりゃ。平日は無理だ」
と言うので、
「虎太朗達が日曜日毎にいろんなところに行ってるみたいだから、一緒に連れて行ってもらったら」
と書いたら、それから雅之は彼らに便乗するようになったという。玄関には雅之の板とブーツが置いてある。先週水上ノルンにひとりで行った雅之は、この家にスキー用具を置いて東京に帰り、今週に備えたのだという。
 その雅之がちょっと遅く実家に着いた。僕は、着くなり彼に、
「おい、雅之!たいしたのぼせようじゃないか!アホちゃう?」
とからかう。すると、
「おっちゃんに言われたかないね!」
と返された。
 確かに・・・・この過密スケジュールの間を縫って、わざわざお金も時間も使ってニセコまで行って、喉の痛みを押してスキー三昧する僕は、人がハマッているのを揶揄する資格などあるわけないなあ。

 まだ5歳の虎太朗は、めっちゃいたずら好きでやんちゃ坊主だが、頭が良いし運動神経も抜群だ。僕はマジこいつ天才じゃないかと思うんだ。その日の嬬恋のスキー場で、父親のあゆむ君が、ゲレンデの上から左に行けと言ったのに、目を離した隙に右に滑って行って別のゲレンデに降り立ってしまったという。
 あゆむ君がまだ上にいて気が付かないうちに、自分が迷子になったと気付いた虎太朗は、自分で案内係のところに行き、住所と名前をきちんと言って場内放送してもらったという。
「多摩市の○○あゆむ様、お連れの虎太朗様が○○でお待ちです」
とスキー場全体に放送が流れ、その時初めてあゆむ君は虎太朗が迷子になったことを知ってびっくりした。あわてて迎えに行ったが、虎太朗は泣いているどころかケロッとしていたという。5歳だぜ。まだ幼稚園の年中組だよ。普通なら泣いてばっかで名前も言えない状態だろうに。こいつは絶対大物になる!賭けても良い。
 貴子が、ある時、彼女の母親(すなわち僕の姉の郁ちゃん)を相手に話していた。
「あたしね、どうも冬にサラダを食べると体が冷える気がするんだ」
虎太朗は向こうの方で何かの遊びに集中していた。晩ご飯の時間になって、虎太朗の苦手な野菜の入ったサラダがなかなか減らないので、貴子が言う。
「虎太朗、サラダちゃんと食べないと駄目じゃないか!」
「うん、でもね。ちょっと食べたらどうも体が冷える気がするんだ。僕はどうも冬はサラダが苦手なんだ」
ヤベエ、さっきの会話全部聞かれていた・・・と貴子は自分の軽率な発言を反省したという。

「ねえねえ、今年の年末、みんなで白馬に行かね?志保や杏奈に混じって、雅之や虎太朗も角皆君の奥さんの美穂さんにレッスンしてもらったら?」
と行ったら、一同、
「いいね!」
と話が弾んだ。雅之がめっちゃ乗り気でいた。白馬がだんだん肥大化してくるぜ。

 2月22日日曜日。虎太朗達は朝早く車で出掛けていった。雅之の板を車に積んで、帰りはみんなでそのまま東京に帰るのだという。昨晩寝る前に、僕は雅之にこう言った。
「いいこと教えてあげる。ストックを突いて重心移動する時、昔の板よりもトップに重心をかけること。板とストックとの間に体を落とし込んでいく感じ。足は昔と違って腰幅くらい開いていいよ。外足は伸ばし、内足は外足と同じだけ板を傾けること。つまり内足は折りたたむようになる。こんな風にね(と、やってみせる)。
体を自転車やバイクが急カーブするように思い切って傾けて、外足をズラさないで突っ張りながら後ろから前にゆっくり走らせると、キュイーンと板が面白いように走り、スピードが信じられないほど出る。これがカーヴィング・スキーの醍醐味だ。
でも気をつけないと板において行かれるから、カカトに乗るのは最後までこらえてね。カカトに乗ったら一気に重心移動だ。これだけ守れば、めっちゃ楽しいぜ!」
「よし、分かった!」
 雅之の板はサイドカーブが半径12メートルと短いから、今の言ったことを守ると、カーヴィングがめっちゃ効いて、たぶんこれまでにない世界が突然開けてくるに違いない。まあ、最初は板に置いて行かれて、もしかしたら二、三回は転倒するかも知れないけれど・・・あははははは、あとは知ったことか!まあ、彼も運動神経は良いから怪我はしないでしょう。いずれにしても魔の誘いには違いない。
「おっちゃん、ありがとう!カーヴィング・スキーにハマッたぜ!」
と言ってくるか、
「おいおい、ひでえ目にあったぜ!二度とそのやり方じゃやらねえ!」
と言ってくるかどっちかだな。今のところまだ連絡は特にない。



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