静寂

三澤洋史 

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静寂
 3月29日日曜日。今日は「枝の主日」。関口教会聖歌隊指揮者になって初めての聖週間に入る。聖木曜日、聖金曜日、聖土曜日、そして次の日曜日は復活祭だ。僕は、木曜日の夜は「運命の力」の初日があるため、残念ながら参加できないが、それ以外は東京カテドラルの聖マリア大聖堂で指揮しているから、時間のある人は来てね。
 木曜日は最後の晩餐を記念し、金曜日はイエスの十字架上の死に思いを馳せながら、十字架の礼拝が行われる。ユダヤの1日は日没から始まるので、土曜日はもう復活祭の日に属し、復活徹夜祭の典礼が行われる。光の祭儀に始まり、久し振りにアレルヤが歌われ、洗礼式も行われる。それぞれ夜7時から。そして日曜日の復活祭のミサは朝10時からです。

 枝の主日では、ミサの前に特別に枝の行列がある。司祭や信者達が教会の外からシュロの枝を掲げて歌いながら聖堂内に行進してきてミサが始まるのだ。関口教会では、敷地内の一番奥のルルドの聖母の洞窟がある所に会衆が集まり、キーボード伴奏で聖歌を歌って司祭団を迎える。その指揮は僕が行う。今日の司式を執り行うのは岡田武夫大司教。他に嘉松宏樹神父(この方は、新国立劇場合唱団員の嘉松芳樹君のお兄さん)と、関口教会主任司祭の山本量太郎神父、そして三田一郎助祭(この方は有名な物理学者なのだが、思う所あって助祭となった)。
 イエスは、捕らえられて十字架にかかる前、熱狂的な民衆に取り巻かれながらエルサレム市内に入って行った。ロバに乗って進み行くイエスを、人々はそれぞれ自分の服や、葉のついた枝を道に敷いて、大声で「ホザンナ!」と歌いながらイエスに従って行ったという。
 それを記念して行うのが、枝の行列だ。その時の様子が書かれたマルコによる福音書が朗読されると、行列が始まる。僕は一足先に会衆達から離れて聖堂の方へ行く。枝の行列の指揮は、アシスタントのHさんに任せ、僕ともうひとりのオルガニストは、聖堂の中で待つ。
 行列の歌声がだんだん近づいてくる。指揮しながら先頭を歩くHさんの姿が見えてきた。聖堂内の2階にいるオルガニストは、弾き始めるのを今か今かと待っている。でも、もう1コーラス待とう。司祭団はすでに聖堂内に入っているが、オルガンは沈黙している。次のリフレインが始まる寸前、Hさんが聖堂の扉に到着した。今だ!僕は、2階にいるオルガニストに大きなジェスチャーでサインを送る。次のコーラスから聖マリア大聖堂のオルガンが荘厳に鳴り出した。

「ホザンナ、ホザンナ、ホザンナ!神から来られた方に賛美、天には神にホザンナ!」
 
 指揮しながら、突然胸の奥からなにか熱く溢れ出るものを感じて、涙が出そうになった。それは嬉しいとか悲しいとかいう感情を超えたものであった。恐らく僕は、イエスのエルサレム入城という「真実」に、いきなり触れたのだ。

 いつからだろう。「マタイ受難曲」などを演奏している間、ずっと通奏低音のように流れ続けている、ある「静寂」に気がついたのは?そしてそれがイエスその人から発しているものであることに気がついたのは?
 裁判でどんなにいわれなきひどい証言を聞いても、ひとことも言い訳しなかったイエス。手足に釘が打ち込まれ、自分をぶら下げる十字架が立てられ、その十字架の元でユダヤ人達がののしりの叫び声を上げても、イエスの回りに支配していた不思議ともいえる静寂。
 そしてイエスは息を引き取る。地震が起こり神殿の幕が上から下までまっぷたつに裂ける。イエスは墓に葬られ、全てが終わったかに見えた。その喪失感・・・しかし・・・これで終わるはずがない・・・この静寂には意味があるのではないか?・・・それは、むしろ・・なにかの始まりの予感なのではないか?それは何?

 そのイエスの「静寂」を、僕は「枝の主日」の行列の最中に、突然啓示のようにありありと見たのだ。王として熱狂的にあがめられる中心にいながら、まるで外界から完全にバリアーで隔離されたかのような孤独の中にいるイエス。その瞳には、自分を待ち構えている運命を知り尽くし、それを受け入れようとする決意があらわれていた。それでいて、どこまでもまっすぐでやさしくて、すべてを赦しているイエスは、そのまなざしからも、全身からも絶対的な「静寂」を放出しているのだ。

 行列の先頭と最後尾との距離はとても長くて、これがそろうなどというのは不可能なようにも思われたが、今日はピッタリと合った。聖歌隊と一緒に練習も重ねたこともあり、僕達は密かな達成感を味わった。聖歌隊のみなさん、ありがとう!
 でも、これで安心していてはいけません。この聖週間では、1年に一度しか歌わない曲が目白押しで、しかもそれらはみんなちょっと複雑なんだ。受難を通り抜けて復活の歓喜へ。ベートーヴェンのセリフではないけれど、今週また頑張って、一緒に復活祭を笑顔で迎えられるようにしよう。

マッサンの情熱とそれを支える人々
 NHK朝の連続テレビ小説「マッサン」が終わった。美しい物語であった。この日本の地で、本格的な国産ウィスキーを作ろうと苦労するマッサンと、それを支えるスコットランド人の妻エリーとの愛と情熱のストーリーが、特にウィスキーに興味のない人達の心をも捉え、大変高い視聴率をはじき出したと聞いている。

 どんなに世の中が変わっても変わらないものがある。それは、何かに打ち込んでいる人は魅力的であるということ。僕たちは、苦労した跡もないのになんでもクールにスイスイと出来る人を見ると、うらやましいと思うし、カッコいいとも思うが、それだけでは人を感動させることは出来ない。従って人はついてこない。
 人を動かすのは情熱である。何かをやっていると必ず障害というものが現れる。その時にこそ、その人の“本気度”が示される。それを人は観ている。そしてついていこうとする人、あるいは助けようと思う人が必ず現れる。そうして大きなことが成し遂げられる。
 世の中はそういう風に出来ている。逆に言うと、そのドラマを経ないと、人は決して大事を成し遂げることは出来ないともいえる。マッサンの生き方そのものがそれを示している。マッサンと幼なじみで、酒造り職人だった俊夫(八嶋智人)が、憎まれ口を叩きながらいい味を出していた。この人、日本酒に命を賭けていたのに、本当にマッサンに惚れ込んで、気が付いたら北海道まで来てウィスキー造りを手伝っているのだ。こういう話、なんだか泣かせるねえ。

 出遭いとは不思議なものだ。たとえば、僕は音楽が好きで音楽家になった。でも、そう言ってしまうと違和感が残る。「好き?」・・・確かに好きは好きなんだが、そんな生やさしいものではないような気もする。「好き」よりももっと強く、もっと運命的なこと。つまり、僕は音楽にfassenされた(捕えられた)、という感じ。
 職業のことをドイツ語でBerufという。この語源となったberufenという動詞は、「呼び寄せる、招く」という意味を持つ。職業はドイツ語では「招かれたもの」なのである。誰から?勿論神様から。
 マッサンにとってウィスキーというものは、まさにberufenされたものなんだろう。僕にとって音楽がそうだったように、マッサンの全身をウィスキーが貫いたのだろう。そして、そのための助け手としてエリーもberufenされたのだろう。それをこの世で見つけられた者はしあわせだな。あ、すみません。僕も、とってもしあわせなんです。

 しかしなんだね。僕が嬉しいのは、こうした熱いドラマが、現代においてもみんなに求められているってことだ。どんなに冷めてシラケたように見えても、人の心の中にはみんな情熱の炎が燃えているのさ。
世の中捨てたもんじゃないね。

めろめろイーイ
 孫の杏樹は3月28日で満1歳と4ヶ月になった。こんなに年が離れている僕だけど、ふたりは大の仲良し。僕が外に連れて行って、坂道で歩く練習を手伝ってあげたり、砂場で砂の山を作ってあげたりするので、僕の顔を見ただけでニコニコして寄ってきて抱っこをせがむ。
 でも、僕の名前を呼ぶ時、最初の頃は苦労して、
「ジージ!」
と言っていたのに、いつの間にか、
「イーイ!」
になっている。何度「ジージ!」と言っても、もう決め込んでしまったようで、相手も意固地になって「イーイ!」と言い返す。まあ、いいや。名前と顔が結びついていれば。こんなことなら、イタリア語でnonnoにしておけばよかった。ノンノだったらすぐ言ってもらえそうだったよね。

 杏樹を見ていると、時々胸が締め付けられるような気持ちになることがある。この小さな生命が、この世に生まれ出て健気にも「あたしはここにいるんだぞうー!」と叫んでいるような強烈な存在感に圧倒されるのだ。
 子どもから発する生命力のオーラはもの凄い。それに、純粋で混じりけのない感性や、あくなき好奇心、自分の周りで起こること全てを受け入れる包容力。なにより、嘘のないまっすぐ見つめる黒い瞳。それらに感動されっぱなしなのだ。
その結果、「いのちをいとおしむ」という気持ちが、自分の内部から奔流のように溢れ出て来るのである。

 杏樹、ありがとう!じーじのそばに生まれてきてくれて、本当にありがとう!どこまでもすこやかに育っていってね。じーじも出来る限りの応援をさせてもらうよ。


杏樹1歳4ヶ月




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