聖週間と復活祭

三澤洋史 

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桜が通り過ぎていく・・・
 しまった!気が付いたら桜が満開で、すでに葉が出たり散り始めている。しかも強風が吹いたり雨が降ったりで、じっくり鑑賞する暇もない。毎年、満開の桜の花を見る度に、
「生きている内にあと何回桜を見ることが出来るのだろうか?」
と思うのだが、今年はそうした感慨に耽っている間もないほどだ。

 新国立劇場では、「運命の力」が公演中。プレツィオジッラ役のケテワン・ケモクリーゼの歌と演技が圧倒的。この人、以前新国立劇場で「カルメン」を演じたときから注目していたが、とにかく天性の舞台人で、立ち稽古の時から役に成り切り、演技するのが楽しくて仕方がないようだ。
 ただ、いきなり現れて、
「戦争万歳!」
と叫んで一同を仕切ったりして、
「誰?この女?」
と思われてしまうキャラクターなので、カルメンほどは報われないのが気の毒。あまり彼女ばかり目立ちすぎると、舞台の本筋から観客の目がはずれるので要注意。
 しかし、そんなこといったら、合唱だって、プレツィオジッラと一緒でない場面では、メリトーネというおとぼけ修道士を伴っているので、全ての場面が余興タイムのようだ。ヴェルディの全てのオペラの中でも最も合唱の分量が多い演目ながら、
「これ全部カットしても、本来の物語に支障がないんじゃね?」
という感じ。トホホホ・・・ま、しかし、合唱の場面は楽しいには楽しいので、どうかみなさん味わって下さいね。
 また、グァルディアーノ神父役の松位浩(まつい ひろし)さんは、日本人離れした素晴らしい声の持ち主だ。第2幕第2場の、男声合唱を従えた彼のソロが聴かれる修道院の場面も聴き所。
 居酒屋、修道院、戦場と、当時の民衆の生活が色濃く描写される中で、どこの社会にも属せないアウトサイダーの主人公が運命に翻弄される物語。ヴェルディの中期の傑作。

 劇場では、次の新制作「椿姫」とリヒャルト・シュトラウス作曲「薔薇の騎士」の合唱音楽稽古が平行して行われている。相変わらず忙しい日々に追われている間に、いつしか桜ははらはらと散っていく・・・。

最後の春スキー
 3月31日火曜日。ガーラ湯沢。真冬の時の、あの汚れなき純白の静寂が嘘のように、空気が華やいで俗っぽくなっている。ところどころ雪の間から茶褐色の山肌がむき出しになっているのが痛ましい。快晴。抜けるような青空の元で光がキラキラと舞っている。
 午前中からどんどん気温が上がっていく。あたりはすっかり春なのだ。かなり薄着で滑ったのだが、一度ゲレンデを滑り降りるともう体が汗ばんでいる。周りを見ると、半袖で滑っている者が何人かいる。いや、それどころか、上着を腰に巻いてノースリーブで滑っている女性もいるぞ!粋なサングラスを髪の上に乗せた浅黒い日焼け美人。ゲレンデがビーチ化されているように感じられる。
 スキー・センターのチアーズからリフトに向かうあたりの雪は、まるでかき氷のよう。ジャリジャリ言ってる。なんか春スキーって夢が壊れるなあ。僕がスキーやゲレンデというものに対して、下手に美化してあこがれるのがいけないのか。「ゲレンデ」イコール「ものみな凍り付く厳しい寒さ」イコール「孤独」イコール「瞑想あるいは修行」などという道を勝手に作り上げているからな。

 今日が間違いなく自分にとって今シーズン最後のスキーになる。そう思うとちょっと朝からメランコリックな気持ちになっている。昨年の夏の間から指折り数えてやっと迎えたスキー・シーズンなのに、なんて早く時は過ぎ去ってしまうのだろう。
 残念ながら、260万ダラーをはじめとして、イライザやブロンコといったコブ斜面が豊かに広がっている南エリアは、2日前から閉鎖されてしまった。そうすると、北エリアにあるスーパー・スワンだけが唯一のコブ斜面だ。
 何度か中央エリアで滑った後、北エリアに向かう。スーパー・スワンのコブは健在。あれだね、コブは春雪の場合、練習台としては意外と悪くないのだね。つまり、雪が凍り付いて固まったりしないから、コブにハジかれずに済むのだ。今日もゲレンデの端っこには僕の苦手なS字の連なるバンク・ターン用の深くて厳しいコブが出来ていたのだが、勇気出して飛び込んでみたら、テールのズラしをやさしく受け入れてくれたよ。
 ただし、ほぼ垂直に切り立った溝のところでブレーキをかけ過ぎると、体が真横に近くなったまま止まることになるので、簡単にコテッと倒れてしまうんだね。何度かアホみたいに転倒してから、そうかあ、遠心力の方を重力より強くしておかないといけないのか、と気がついた。それで、もう無理矢理ズラしてブレーキをかけようとするのはやめて、スピードが出て転んでもいいやと思いながら、むしろ流れに乗って滑ったら、意外と何の苦もなく滑れた。
 恐らく、溝での減速をほどほどにして、その先の盛り上がったところで吸収動作をすることによってブレーキがかかっているようだ。ニセコで元モーグル選手の伊藤俊輔さんに教わったように、膝があごにくっつくくらい曲げると、それがサスペンションの役目をして、自然にスピード・コントロール出来るんだね。

 ゲレンデの一番下にあるきれいな丸いコブは、どうも僕がジャンプするのを待っているような気がした。そこでちょっと試しにジャンプしてみた。最初は恐る恐る・・・次第に大胆に・・・とっても気持ちいいぜ!ヤッホー!何度かトライしている内に、飛び上がる瞬間に体を真っ直ぐに立てておけば着地は心配要らないんだということが分かった。
 ほほう、出来たぞ!次のシーズンにはいよいよ角皆君にエアーを習ってみようかな。
「三澤君、エアーを経験すると、またひとつ野生が解き放たれて、新しい精神的世界が開けるんだよ」
と、何度も彼に勧められていたんだけど、
「いいえ、結構です!この歳になって怪我したくないんでね」
と断り続けていたんだ。でも、なんだか出来そうな気がしてきたよ。うーん、だけど・・・ジャンプ台からジャンプするのは、こんなんとはワケが違うんだろなあ・・・やっぱ恐いな・・・やめよっかな・・・。

 一度お昼に全長2.5Kmの下山コースを降りて、下のカワバンガで昼食を取った他は、1日ずっとスーパー・スワンばかり。他に選択肢もなく、こんな短いコブ斜面を何度も何度も滑っていると、いくらなんでも煮詰まってきてしまうね。もういいや。膝が疲れてきてしまった。もうあがろうっかな。
 それで、さあ最後のコブ斜面だ、と思いながらリフトに乗った時、突然僕は、今履いているスキー板とブーツ、それに手に持っているストックに感謝したい気持ちにとらわれた。
「みんなありがとう!君達は僕と一緒に北海道までも行ってくれたんだね。君達のお陰で今シーズンちょっと上達することが出来た。特にVelocityよ、ありがとう!君のテールの切れ味の良さは、僕に板を走らせることを教えてくれた。それから大好きなブーツ君ありがとう!君があまりにも僕の足にフィットしているので、休憩時間にもバックルをゆるめようと思わないんだからね。それからストック君もありがとう!コブではいろいろ助けてもらったね」
と呼びかけてお礼を言っていたら、胸がジーンとなってきた。

 僕は思うんだが、世界で最も神様に近い言葉って、「ありがとう」じゃないかな。だって、ありがとうを言える時って、誰でもみんなとってもしあわせな気持ちになるじゃないか。ありがとうって言うと、胸がとってもあたたかくて、とっても満たされるじゃないか。だから、ありがとうっていう言葉は神様から出ているんだと思う。
 いや、逆かな?人間が神様ときちんと向かい合っている時には、人間の側からはありがとうという言葉しか出てこないのかも知れない。だって、すべての恵みは、神様から無償で与えられているのだから、僕達はありがとうと言おうが言うまいが、それを受けるしかないのだからね。そこで、ありがとうと言うってことは、その与えてくれる相手(つまり神様)に対して心を開いて素直になるってことだ。そうしたら、神様は愛そのものなのだから、その副産物であるあたたかさやしあわせ感や満たされた感を、僕達に与えてくれるに決まっているさ。

 フィナーレを飾るのは、さっき一度降りた全長2.5Kmの下山コースだ。気温も上がって、いっそう雪が溶けたし、みんながどんどん滑ってお昼よりずっと荒れている。下の方はグサグサ雪で悪雪そのもの。でも今の僕には、どんな状態でも全然大丈夫。コブで培ったテクニック、すなわち外向傾と外足加重さえ徹底していれば、バランスを失うことはないのだ。コブさえ滑れれば、なんにも恐いものはなくなるんだ。
 それより、ザクザクばっかりしていてあんまりスピードが出ない。膝がパンパンになりながらノンストップでカワバンガまで降りてきて、最後に後ろを振り返ったら、もうすっかり春めいたゲレンデが微笑みながら僕に挨拶してくれたように感じられた。ありがとう雪山よ!また来シーズン必ず来るから、温かく僕を迎え入れておくれ。

 さあて、夏の間にウォーキングとサイクリングとスイミングをしながら、また次の冬に備えるんだ。結局、今の僕はスキーをするために体を鍛えているのだ!僕は一体どんだけスキーを愛しているのだ!自分でびっくりだね。

聖週間と復活祭
 「沈黙」という最上の音楽があるのだということを再確認した。4月3日聖金曜日、関口教会の「主の受難の祭儀」である。これはミサではない。十字架もろうそくも置かず、祭壇には祭壇布もかけられずむきだしのままである。司祭団の入場の祭にも歌はない。入場してくると、司祭達は床にうつぶせに伏せ、それから起き上がって祈りを始める。そしてすぐに聖書朗読に入る。その間終始音楽は沈黙・・・・。
 音楽が沈黙しているのだから、その間聖歌隊指揮者は何もやることがない。最初に指揮するのは、第一の朗読の後の答唱詩篇。しかし、これがこんなに緊張するとは思わなかった。いや、振るのが難しいとかいう話ではない。そうではなくて、僕は音楽で人一倍流れを大切にする方だから、それまでの「音楽のない空間」が美しすぎて、その流れを音楽で壊していいのか恐くなってしまったのだ。
 パイプオルガンとハーモニーのついた合唱というのは、この素朴な空間から比べると、まるで近代兵器のようではないか。沈黙に比べると、なんだかキッチュで俗物のように感じられてならなかったのだ。それほど金曜日の祭儀は、清澄で厳かで崇高であった。

 本当は関口教会聖歌隊指揮者初年度として、聖週間の全ての典礼を経験したかったけれど、聖木曜日が新国立劇場の「運命の力」公演初日とダブってしまったため、出席出来なかったのは残念であった。とはいえ、この超過密な劇場スケジュールの中で、特別な休暇を取ったわけでもなく、枝の主日と聖金曜日、聖土曜日、復活の主日に偶然出られただけで、すでに奇蹟のような気もする。
 僕の二人の娘達がまだ小さかった頃、僕は、空いているところに自分でスケジュールを入れる仕事の仕方だったし、学校関係は聖週間の頃はちょうど春休みの間だったりしたので、結構毎年家族で立川教会の聖週間の礼拝に出掛けて行くことが出来た。
 子どもたちにとっては毎晩長くて大変だったろうなと思っていたが、先日長女の志保とその事を話していたら、なんと彼女は、聖週間で歌う十字架賛歌などを全部覚えていて、空で歌っている。そして、
「聖金曜日って静かで好きだった!」
なんて言うんだ。凄いな幼児体験って。体に染みついているのだ。
 だから子どもを教会に連れて行くのに遠慮する必要はないのかも知れないと思った。聖堂のあの静寂に包まれた浄められた空間を知っている子どもと知らない子どもとでは、内面的なところで少なからぬ違いが生まれるような気がする。それに、親が信念を持ってやっていることは、子どもは子どもなりに受け止めるものではないだろうか。志保と話していながら、僕は結構感動させられたよ。

 聖土曜日の祭儀は、どこの教会も長いのだろうが、関口教会は7時に始まって終わったら9時半過ぎていた。おお、休憩なし2時間半コース!でもこの晩は、聖堂の明かりを消してロウソクの光だけで復活賛歌を歌う光の祭儀も素敵だし、四旬節に入ってからしばらく途絶えていた栄光の賛歌が「天のいと高きところには神に栄光」と歌われたときの感動を味わうことも出来る。アレルヤも久し振り。
 こうしたことを通して、復活の喜びが夜の静けさの中でジワジワとわき起こってきて、僕はとっても好きなんだ。復活祭というと、みんな日曜日の朝のミサに行くけれど、むしろ聖土曜日の復活徹夜祭の方が本家本元のような気がする。
 ユダヤの国では、1日の始まりは日没からだから、もうキリストが復活する3日目に入っているのだ。そして夜が明けたらもう復活していたので、その晩全体が神秘的なのである。キリストは、真夜中に降誕し、そして真夜中に復活するわけである。

 僕は聖金曜日聖土曜日と禁酒していた。それだけ熱心な信者だ!・・・ということでもないのです。実は花粉症がここにきてひどくなり、お酒を飲むと夜の間鼻がつまってしまうので、復活祭の日曜日に盛大に飲もうと思って、控えていたわけである。
 それに、聖週間の聖歌は1年の内にたった一度しか歌わない曲ばかりで、順番も普段のミサと違って馴れないし、間違えはしないかとずっとドキドキだったので、それがなんとか無事に済んだことを祝って、我が家で打ち上げ。ワインを空けステーキをほおばった。うふふふふ、復活祭って大好き!

Frohe Ostern!
Buona pasqua!
Je vous souhaite de joyeuses paques!
復活祭、おめでとうございます!




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