癒しのレクィエム
12日日曜日は、名古屋モーツァルト200合唱団の練習。今日の練習の範囲は、ブラームス作曲「ドイツ・レクィエム」の5曲目から7曲目まで。この5曲目を、行きの新幹線でスコアを読みながら、なんて心に染みるテキストと音楽なのだろうと感動し、その感動を胸に練習に入った。
Ich will euch trösten,このテキストから、ふたつのことを強く感じる。ひとつは、究極の慰めというものは、神にしか出来ないだろうということと、この地上で最も神の慰めに近いものは、母の慰めだろうということである。
wie einen seine Mutter tröstet.
母がその子を慰めるように
わたしはあなたたちを慰める
イザヤ書 第66章13節
そろそろ花粉症も終息かな
もうだいぶ軽くなったので今は薬を飲んでいないが、そうなると逆に油断が出来ない。予期せぬ場所でいきなり鼻が反応して、くしゃみが立て続けに出たり、鼻水がツツーと流れたりするので、ポケットティッシュの携帯が不可欠なのだ。しかし、そんな時こそ、ティッシュや顔を隠すマスクを、うっかりどこかに置いて来ちゃったりするのだ。
特に、ピンポイントで反応する場所がある。たとえば明大前の駅。出来ればここで降りたくないのだが、新国立劇場のある初台に行くために、どうしても乗り換えなければならない。それでホームに降り立った瞬間、症状が襲ってくる。花粉だけではなく、花粉と都会の排気ガスや煤煙などとのコンビネーションに敏感に反応しているようだ。それが証拠に、より花粉に近いスキー場などでは、爽快に鼻が通っているのだ。
今年の僕の花粉症の出方はかなり変わっていた。2月のニセコの後、声がつぶれて回復にかなり時間がかかったけれど、その間に花粉症の季節が到来した。しかしながら、アレルギー症状は鼻を通り越して病んでいる喉に集中した。そのため、不思議と鼻は全然大丈夫だったのだ。その一方、喉のある一点に花粉がついたなと思うやいなや、終わりのない咳が始まる。その瞬間は、まるで重症の肺炎か結核患者ではないかと思われるほどだが、直ると何事もなかったかのようである。
その後、声が回復してきたなと思ったら、ある日当然、まるで仕切り直したように通常の花粉症が始まって、鼻水が出たり鼻がつまったりし始めた。薬はアレグラ以上の強いものは飲まない。眠くなったり、頭の明晰さを欠いたり、喉が渇いたりするのが嫌だからだ。
不思議なのは、その時期にも新国立劇場では「マノン・レスコー」や「運命の力」の練習や公演が行われていて、外国人キャスト達が来日していたが、外国人達の誰も花粉症を訴える者がいないことだ。日本人がこれだけ悩まされ、街中の人達がマスクをしているというのに、どうして外国人には花粉が作用しないのだろう?誰か研究してくれないかな。あるいは、その理由を知っている人、僕に教えて下さい。
ともあれ、スキー・シーズンが終わり、花粉シーズンが過ぎ去ると、いよいよ輝く太陽の季節の到来という感じだ。鼻が詰まっている時には、プールに行く気もなくなるのだが、先日久し振りに泳いで爽やかな気分になった。掻ききった手をリカヴァリーで水から出して前に送る時、肩胛骨を使って腕を脱力すると、その間に掻いた筋肉を休ませることが出来ると、先日届いたトータル・イマージョンのメルマガに書いてあった。この肩胛骨の動きこそ、指揮の運動にプラスの影響を与える。これから演奏会が目白押しになってくるので、泳ぎながらもう一度自分のフォームを見直そうと思っている。
坂戸真美というオルガニスト
4月10日金曜日19時。関口教会(東京カテドラル)のオルガン・メディテーションで坂戸真美(さかと まみ)さんのオルガンを聴いてぶったまげた。こんな上手だったんだ。この人。実は坂戸さんとは昔から知り合いであったが、きちんと彼女のソロ・オルガンを聴いたことはなかったのだ。恥ずかしい。
以前にも書いたが、オルガン・メディテーションはオルガン・コンサートとは違う。関口教会では、毎月第2金曜日、教会歴を考慮しながら、それぞれのテーマを決めて行われる。そのテーマに沿ったオルガン演奏の真ん中には、関口教会主任司祭である山本量太郎神父の導きによる祈りの時間が入る。そうして、全体はひとつの“祈りの会”となっているのだ。わずか45分間で休憩もなく無料なので、気軽に立ち寄れる(自由意志による献金あり)。
僕は、昨年から可能な限り出席しているが、最初の頃はちょっととまどいがあった。これは一体どういう風にとらえたらいいのだろうか・・・という疑問である。ま、教会とすると、2004年に再建されたイタリア製マショーニ・オルガンを沢山の人に味わってもらうためと、せっかく教会に足を運んでもらったのだから、祈りの時間を作って多少なりとも伝道に役立てたいという、両方の想いがあり。それが合体したのである。現に、このオルガン・メディテーションで初めてカテドラルに足を運び、それが縁で信者になった人達も少なくないと聞く。
しかし僕の場合、一度音楽が鳴ってしまうと、それをBGMにして祈ることなど決して出来ないのだ。喫茶店や街中でもそうだ。音楽が鳴り始めたら、集中して聴き入るか、あるいは心をシャットアウトして全く聴かないかどちらかなのだ。そんな僕にとって、オルガン・メディテーションとは、「オルガン演奏を楽しむ+祈る+オルガン演奏を楽しむ」という互いに異質なふたつの要素の羅列でしかないのである。
でも、その晩、僕は坂戸さんの演奏を聴きながら、自分なりのオルガン・メディテーションとの関わり方の結論を出すことが出来た。これは僕にとってとても大事なことなのだ。まず、その日の内容を説明しよう。
今月は、数日前に復活祭の主日を迎えたばかりなので、テーマは、キリストが死から新しい復活の命へと過ぎ越されたことを受けて「いのちの喜び」。当然のごとく喜びに満ちた曲が並んだ。
| J・S・バッハ作曲 | キリストは死の縄目につながれたり |
| Johann Sebastian Bach(1685-1750) | Christ lag in Todesbanden |
| G・ベーム作曲 | キリストは死の縄目につながれたり |
| Georg Böhm(1661-1733) | Christ lag in Todesbanden |
| H・ピュイグ=ロジェ作曲 | 喜びの日のための祈り |
| Henriette Puig=roget(1910-1992) | Prière pour un jour de joie |
| C・トゥルヌミール作曲 | 「過ぎ越しのいけにえ」によるコラール即興曲 |
| Charles Tournemire(1870-1939) | Choral-Improvisation sur le “Victimae paschali” |
| D・ロート作曲 | レジナ・チェリによるファンタジー・フーガ |
| Daniel Roth(1942- ) | Fantasie fuguèe sur “Regina caeli” |
| 5月8日 | 廣野嗣雄 |
| 6月12日 | 野田美香 |
| 7月10日 | 草谷麻子 |
| 9月11日 | 松浦光子 |
| 10月9日 | フランチェスコ・ディ・レルニア |
| 11月13日 | マティアス・ドライスィヒ |
| 12月11日 | 堀切麻里子 |