癒しのレクィエム

三澤洋史 

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癒しのレクィエム
 12日日曜日は、名古屋モーツァルト200合唱団の練習。今日の練習の範囲は、ブラームス作曲「ドイツ・レクィエム」の5曲目から7曲目まで。この5曲目を、行きの新幹線でスコアを読みながら、なんて心に染みるテキストと音楽なのだろうと感動し、その感動を胸に練習に入った。

 Ich will euch trösten,
 wie einen seine Mutter tröstet.
 母がその子を慰めるように
 わたしはあなたたちを慰める
 イザヤ書 第66章13節
 このテキストから、ふたつのことを強く感じる。ひとつは、究極の慰めというものは、神にしか出来ないだろうということと、この地上で最も神の慰めに近いものは、母の慰めだろうということである。
 どんな悲しみの中にあろうとも、我々は愛されている。それは境界線のない惜しみない絶対的な愛である。そして、ひとりひとりがその孤独を耐え、悲しみを乗り越えていくのを、あたたかく見守っている存在がある。我々は、ずっとその存在にハグされている。それを信じるか否か。信じるだけで世界が変わる。世界は輝かしく意味のあるものとなり、その労苦は報われるものとなる。
 また、「母がその子を慰めるように」という言葉を見ると、僕は即座に思い出す。僕が小さかった頃、僕をずっと見守ってくれた母の目を。娘達が小さかった時に彼女たちを見守っていた妻のまなざしを。孫娘の杏樹を見守る長女志保の視線を。そして思う。凄いなあ!と。そんな与えっきりの無償の愛を、女性は本能的に持つことを許されているのだから。

 この美しい「ドイツ・レクィエム」第5曲目の生命を、9月にはしっかり聴衆に届けることが出来ますように!そして、苦しみの中にいる人、孤独の中にいる人に、希望の光を与えることが出来ますように!
 そう、人を慰めることは人には難しいかも知れない。だから、僕達は祈るのだ。癒しは祈りの中で成就される。母が子どものために祈るような、無心で純粋な祈りの中で・・・・。

そろそろ花粉症も終息かな
 もうだいぶ軽くなったので今は薬を飲んでいないが、そうなると逆に油断が出来ない。予期せぬ場所でいきなり鼻が反応して、くしゃみが立て続けに出たり、鼻水がツツーと流れたりするので、ポケットティッシュの携帯が不可欠なのだ。しかし、そんな時こそ、ティッシュや顔を隠すマスクを、うっかりどこかに置いて来ちゃったりするのだ。
 特に、ピンポイントで反応する場所がある。たとえば明大前の駅。出来ればここで降りたくないのだが、新国立劇場のある初台に行くために、どうしても乗り換えなければならない。それでホームに降り立った瞬間、症状が襲ってくる。花粉だけではなく、花粉と都会の排気ガスや煤煙などとのコンビネーションに敏感に反応しているようだ。それが証拠に、より花粉に近いスキー場などでは、爽快に鼻が通っているのだ。

 今年の僕の花粉症の出方はかなり変わっていた。2月のニセコの後、声がつぶれて回復にかなり時間がかかったけれど、その間に花粉症の季節が到来した。しかしながら、アレルギー症状は鼻を通り越して病んでいる喉に集中した。そのため、不思議と鼻は全然大丈夫だったのだ。その一方、喉のある一点に花粉がついたなと思うやいなや、終わりのない咳が始まる。その瞬間は、まるで重症の肺炎か結核患者ではないかと思われるほどだが、直ると何事もなかったかのようである。
 その後、声が回復してきたなと思ったら、ある日当然、まるで仕切り直したように通常の花粉症が始まって、鼻水が出たり鼻がつまったりし始めた。薬はアレグラ以上の強いものは飲まない。眠くなったり、頭の明晰さを欠いたり、喉が渇いたりするのが嫌だからだ。
 不思議なのは、その時期にも新国立劇場では「マノン・レスコー」や「運命の力」の練習や公演が行われていて、外国人キャスト達が来日していたが、外国人達の誰も花粉症を訴える者がいないことだ。日本人がこれだけ悩まされ、街中の人達がマスクをしているというのに、どうして外国人には花粉が作用しないのだろう?誰か研究してくれないかな。あるいは、その理由を知っている人、僕に教えて下さい。
 ともあれ、スキー・シーズンが終わり、花粉シーズンが過ぎ去ると、いよいよ輝く太陽の季節の到来という感じだ。鼻が詰まっている時には、プールに行く気もなくなるのだが、先日久し振りに泳いで爽やかな気分になった。掻ききった手をリカヴァリーで水から出して前に送る時、肩胛骨を使って腕を脱力すると、その間に掻いた筋肉を休ませることが出来ると、先日届いたトータル・イマージョンのメルマガに書いてあった。この肩胛骨の動きこそ、指揮の運動にプラスの影響を与える。これから演奏会が目白押しになってくるので、泳ぎながらもう一度自分のフォームを見直そうと思っている。

坂戸真美というオルガニスト
 4月10日金曜日19時。関口教会(東京カテドラル)のオルガン・メディテーションで坂戸真美(さかと まみ)さんのオルガンを聴いてぶったまげた。こんな上手だったんだ。この人。実は坂戸さんとは昔から知り合いであったが、きちんと彼女のソロ・オルガンを聴いたことはなかったのだ。恥ずかしい。
 以前にも書いたが、オルガン・メディテーションはオルガン・コンサートとは違う。関口教会では、毎月第2金曜日、教会歴を考慮しながら、それぞれのテーマを決めて行われる。そのテーマに沿ったオルガン演奏の真ん中には、関口教会主任司祭である山本量太郎神父の導きによる祈りの時間が入る。そうして、全体はひとつの“祈りの会”となっているのだ。わずか45分間で休憩もなく無料なので、気軽に立ち寄れる(自由意志による献金あり)。
 僕は、昨年から可能な限り出席しているが、最初の頃はちょっととまどいがあった。これは一体どういう風にとらえたらいいのだろうか・・・という疑問である。ま、教会とすると、2004年に再建されたイタリア製マショーニ・オルガンを沢山の人に味わってもらうためと、せっかく教会に足を運んでもらったのだから、祈りの時間を作って多少なりとも伝道に役立てたいという、両方の想いがあり。それが合体したのである。現に、このオルガン・メディテーションで初めてカテドラルに足を運び、それが縁で信者になった人達も少なくないと聞く。
 しかし僕の場合、一度音楽が鳴ってしまうと、それをBGMにして祈ることなど決して出来ないのだ。喫茶店や街中でもそうだ。音楽が鳴り始めたら、集中して聴き入るか、あるいは心をシャットアウトして全く聴かないかどちらかなのだ。そんな僕にとって、オルガン・メディテーションとは、「オルガン演奏を楽しむ+祈る+オルガン演奏を楽しむ」という互いに異質なふたつの要素の羅列でしかないのである。
 でも、その晩、僕は坂戸さんの演奏を聴きながら、自分なりのオルガン・メディテーションとの関わり方の結論を出すことが出来た。これは僕にとってとても大事なことなのだ。まず、その日の内容を説明しよう。

 今月は、数日前に復活祭の主日を迎えたばかりなので、テーマは、キリストが死から新しい復活の命へと過ぎ越されたことを受けて「いのちの喜び」。当然のごとく喜びに満ちた曲が並んだ。

J・S・バッハ作曲 キリストは死の縄目につながれたり
Johann Sebastian Bach(1685-1750) Christ lag in Todesbanden
G・ベーム作曲 キリストは死の縄目につながれたり
Georg Böhm(1661-1733) Christ lag in Todesbanden
H・ピュイグ=ロジェ作曲 喜びの日のための祈り
Henriette Puig=roget(1910-1992) Prière pour un jour de joie

山本量太郎神父の導きによるによる祈り・マルコ福音書の朗読の後、短い説教

C・トゥルヌミール作曲 「過ぎ越しのいけにえ」によるコラール即興曲
Charles Tournemire(1870-1939) Choral-Improvisation sur le “Victimae paschali”
D・ロート作曲 レジナ・チェリによるファンタジー・フーガ
Daniel Roth(1942- ) Fantasie fuguèe sur “Regina caeli”

 中間の祈りの後のトゥルヌミールが使った「過ぎ越しのいけにえ」のメロディーは、前半のバッハとベームが共に使った「キリストは死の縄目につながれ」と同じコラールであった。バッハの有名な「カンタータ第4番」の基本メロディーでもあるこの有名なコラールを使って5曲中3曲を構成した選曲は見事。
 バッハは、ドイツ的なミクスチュアの響きで統一し、ベームは木管を主体にしてオーボエ系のメロディーを浮き立たせた。ベームのコラール幻想曲の作りは、バッハよりも単純で、ラソラドレドシラというコラールのメロディーからファンタジーを飛ばしすぎないので、本来のコラールのメロディーをしっかり味わえて良かった。
 一方、トゥルヌミールといえば、冒頭からこのメロディーを使って攻撃的に攻めて来た。聖堂を響きで一杯に満たし、超絶技巧のテクニックを駆使してイケイケの音楽。およそ普通の人が考えるオルガン・メディテーションのイメージとはかけ離れているように見えながら、僕は、かえってここまでやってくれたことによって、この強烈な音の遊びの真っ直中に別の意味で“祈り”が見えたぜ!
 僕は間違っていた。オルガン・メディテーションといったって、「オルガンをBGMにして瞑想する」必要なんて全くないんだ。音楽はそれ自体が遊びである。そして、その音楽を作った神様には“遊び心”があり、その遊び心をもって全ての被造物を創造されたのだ。だとしたら、我々の人生の目的は良い意味で「人生を遊び尽くす」ことであり、神様の創造に自らの遊び心をもって答えることである。それがすなわち祈りなのだ。だから僕は、この曲を楽しんで味わい尽くしてしまっていいのだ(当たり前か)。そして、祈りはまさに鳴り響く音楽の中にあるのだ。

 正直に白状するが、僕はオルガン曲を全然知らない。くまなく知っているのはバッハのオルガン曲くらい。だから、バッハ以外はオルガン・メディテーションに何度通っても、初めて聴く曲ばかりだ。でもそれがとても新鮮!
 ピュイグ=ロジェやロートの現代的な手法の曲を聴きながら思う。オルガンの表現力をいろんな人が開拓し発展させたんだね。同時に、その中にコラールや教会の祈りの精神が織り込まれていて、それが聖堂の中で響き渡る時、我々が平凡な意味で“きれい”というのとは違うけれど、その中に新しい美の世界があるんだ。優れたプレイヤー達が、それらの曲をこうして我々に紹介してくれ、新しい表現の地平を見せてくれるのは、なんて嬉しいことか。
 山本神父の説教は、聖書の中にあって決して訳されないまま今日まで伝わっている「アーメン」と「アレルヤ(ハレルヤ)」という2つの言葉の内の「アレルヤ」について説明されていた。「アレルヤ」は、強いて訳せば「喜びの内に神に感謝!」という感じだろうか。この言葉は、復活祭の前40日の四旬節の間は、決して唱えられない。だからこそ、復活祭の時には特別喜びに満ちて高らかに「アレルヤ!」と唱えるわけである。
 その説教と、ロートの「レジナ・チェリによるファンタジーとフーガ」が見事にリンクしていた。ドシラソ・ドシラソという「アレルヤ」定番のメロディーが何度も何度も聞こえてきて、復活祭の喜びと重なった。
 可愛らしいリコーダーあるいは鈴のような音から始まり、珍しいレジストレーションの組み合わせも聴かれた。すでに、オルガン・メディテーションでは何度目かの登場だという坂戸真美さんは、この聖マリア大聖堂の残響の多い音響を熟知していて、聖堂内に響き渡る音を心底楽しみながら演奏していた。レジストレーションの組み合わせから生まれる、ダイナミックスのバランス感覚も申し分ないものであった。

 それで、最初に言ったオルガン・メディテーションへの関わり方の結論とはこうである。オルガン演奏の時は、オルガン演奏に集中して聴き入ればいい。その音楽の中に込められている祈りを感じるべし。そして祈りの時には、純粋に祈ればいいのだ。そのふたつが混じらなくても別にいいのだ。そんな時は「一粒で二度おいしい」というどこかのキャラメルじゃないけれど、2倍得したと思えばいい。また、この晩のように、説教と演奏の間に共通点が生まれたら、それはそれで「めっけもん」ではないか。
 「ひつまぶし」は、最初にそのまま食べて、次に薬味を乗せて、最後にお茶をかけて食べるべしとあるけれど、そんなもの勝手に食べればいいのよ。オルガン・メディテーションも、各自が好きに関わるべし。わははははは!
 坂戸真美さんには、演奏後お会いして素晴らしかったですと告げたら、名刺をくれたので、早速メールを送り、8月29日土曜日に行われるOB六大学演奏会で、東大アカデミカ・コールが歌うラインベルガー作曲ミサ曲ヘ長調Op.190に、オルガニストとして共演してもらうこととなった。男声合唱とオルガンために書かれた曲。
 伴奏なので、ソロ演奏会のように超絶技巧を存分に発揮というわけにはいかないだろうが、彼女の豊かな音楽性は聴けると思う。とにかく、素晴らしい演奏家を発掘した時の僕は(って、ゆーか、僕が知らなかっただけで、彼女自身はすでにとっくの昔に発掘されている)、こんな風に興奮してしまうのです。みなさんも注目していて下さい。

ちなみに、今後のオルガン・メディテーションのスケジュールだけ披露しておくので、興味のある方は是非来てみてください。

5月8日 廣野嗣雄
6月12日 野田美香
7月10日 草谷麻子
9月11日 松浦光子
10月9日 フランチェスコ・ディ・レルニア
11月13日 マティアス・ドライスィヒ
12月11日 堀切麻里子

いずれも東京カテドラル聖マリア大聖堂で19時から45分間



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