名演の予感「ばらの騎士」

 

三澤洋史 

写真 三澤洋史のプロフィール写真

名演の予感「ばらの騎士」
 「椿姫」の公演と平行して「ばらの騎士」の舞台稽古が進行している。再演はいつもあわただしい。ただでさえ稽古期間が短いところにもってきて、元帥夫人役のアンネ・シュヴァーネヴィルムスの来日が遅れたため、元帥夫人のカラミはカヴァー歌手でやっていたが、やっぱり本人が舞台に立ったら芝居が変わってくるのは自然の成り行き。レゴブロックの一片をパチンとはめるようなわけにはいかない。
 それにしても、外国人キャスト達はみんな百戦錬磨の達人ばかり。オックス役のユルゲン・リンをはじめとして、リヒャルト・シュトラウスの機関銃のようなドイツ語のラッシュをものともせずに、歌に演技にのめり込んでいく。
 R・シュトラウスは、ネイティヴの人が普通に会話する速度とイントネーションのままに音符を書き込んでいくから、これを自由自在にさばけるのはネイティヴでないと無理なような気がする。そこがワーグナーと違うところだ。
 「ばらの騎士」に関しては、このホームページ内の「オペラPlatz」に二回に分けて初演の時の原稿を載せているので参考にして欲しい。しかし何度観ても、第1幕ラストで元帥夫人が煙草を吸うのはドキッとする。時の流れの中で、オクタヴィアンとのつかの間の悦楽が長続きしないのを知っている彼女は、独りになった部屋の中で、なんとなく煙草に火をつけてみたくなったのである。外は、いつしか雨模様。うーん、いいなあ。このジョナサン・ミラーの演出!
 指揮者のシュテファン・ショルテスは、ワンマンで恐い人のように感じられるが、実はさっぱりしていて性格的には僕は好きだな。とにかく職人気質で「歯に衣着せぬ」という感じで毒舌を吐きながら稽古を進行させていく。でも、やることは確実で揺るぎない。だからみんな大船に乗ったつもりでついて行く。オペラにはこういう人こそ必要なんだ。

この「ばらの騎士」も名演の予感。

シンフォニック「おにころ」
 地味に、しかしながら確実に、怒濤の夏への序章が始まっている。というのは、家にいる自由時間は、ほとんどすべて、8月23日に高崎の群馬音楽センターで上演する自作ミュージカル「おにころ」のオーケストレーションに費やされている。
 今回は群馬交響楽団が演奏してくれるということで、これまでの小アンサンブルとはガラリと変わって、きちんとした管弦楽なのだ。とはいえ、音楽センターのオーケストラ・ピットは、1900人収容する大ホールにしては小ぶりだし、あまり大風呂敷を広げて、「神々の黄昏」のような大編成にしてしまうと、もう二度と上演してもらえないような気もするので、つつましやかに2管編成とした。
 これなら、通常のオーケストラであればどこでも上演可能である。もし、後世に「おにころ」が残ったら、これを決定版としたい。わかったあ?ブライトコップフ、ベーレンライター、ユニヴァーサル、ブーズィー・アンド・フォークス、ショット、オイレンブルク、ペータース、それからリコルディ社のみなさん、出版契約するなら今のうちですぜ!どこでもいいからさ。ちなみに編成は以下の通り。

フルート1&Ⅱ(Ⅱはピッコロ持ち替え)
オーボエⅠ&Ⅱ(Ⅱはイングリッシュ・ホルン持ち替え)
クラリネットⅠ&Ⅱ(Ⅱはバス・クラリネット持ち替え)
ファゴットⅠ&Ⅱ
ホルンⅠ&Ⅱ
トランペットⅠ&Ⅱ
トロンボーンⅠ&Ⅱ
ティンパニー
パーカッション(グロッケン・シュピール、シロフォン、和太鼓、シンバル、タンブリン、チューブラ・ベル、ウッド・ブロック、ウィンド・チャイム、タムタム、お寺の鐘etc.)
ハープ
シンセサイザー(ヤマハ・エレクトーンSTAGIA)
弦楽五部
 まあ、ベートーヴェンの編成にハープといろんな打楽器とシンセサイザーの響きが加わったという感じだけれど、これまでの「おにころ」を聞き慣れていた人はマジびっくりすると思うよ。シンセサイザーは限られた箇所しか使わず、全体はむしろかなりシンフォニックなタッチで仕上がると思う。
 オーケストレーションをしている時は、頭の中に自分のイメージする音響が鳴り響いてしあわせいっぱいであるが、書いたからには、これを一刻も早く実際のオケで鳴らしてみたくて仕方がない。早く8月が来ないかな。おっと、その前に早く仕上げないといけないんだ。いろいろな仕事の合間を縫ってやっているので、まとまった時間が取れないから、思うように進めない。まあ、これも想定内なのだけれどね。7月に入るまでに仕上げて、パート譜をプリントアウトして、群響に渡せるといいなあ。

 先日の5月12日火曜日は、高崎で「おにころ」の記者発表があった。こちらサイドは、僕と原作者の絵本作家野村たかあきさん、それに新町歌劇団の事務局長などが出席し、「おにころ」が生まれたいきさつや、作品及び上演のコンセプトなどを説明した。向こう側は、朝日新聞、毎日新聞、上毛新聞など各社の記者達。いろんな質問を受けた。芸能人の不祥事などの記者会見にあるような鋭い突っ込みを想像していたが、そんなこともなく記者発表はなごやかに進む。当たり前か。
 その日は、記者発表の前後に、高崎市の文化課の取り仕切りで、音楽センターの技術スタッフ及び群響事務局との打ち合わせや、高崎市長との会談など、分刻みのスケジュールが組まれており、あたかも自分が芸能人になったかのような錯覚に陥った。
 数日後、母親から電話があった。たまたまテレビをつけていたら、群馬テレビで僕たちが記者発表している映像が目に飛び込んで来たそうだ。前の晩に群馬の実家に泊まったので、こういうことがあるのは知っていたが、そんなおおごととは思っていなかったらしい。

独創性の証Blumine
 「おにころ」がそうやって動き出している間に、平行して、7月のマーラー作曲「嘆きの歌」演奏会の曲目や、9月のウィーン楽友協会ホールでの交響曲第2番「復活」などの勉強を始めている。
 指揮者というのは、表に現れている晴れやかな姿だけをみんな見ているが、スコアを読む勉強は、地味で根気の要る作業である。それでオケ練習の初日には、自分の中で曖昧な部分を決して残さないように勉強を終了しておかなければならない。それは、蝉が地上に出る前の7年間の地中の生活のようでもある。しかし、その勉強の期間が本当の醍醐味でもあるんだけどね。あ、蝉の地中での生活も、我々が想像するよりも案外彼らにとっては楽しいのかも知れないけどね。

 そのスコア・リーディングの日々の中で、これまで気にも留めていなかったBlumine(花の章)という小品に惹かれている。「嘆きの歌」の演奏会の前曲として「葬礼」と共に演奏されるわずか7、8分の音楽である。
 Blumineは、交響曲第1番の第2楽章として使用されるよう計画され、初演もされたが、その後マーラー自身の意図ではずされてしまった。交響曲第1番の凝縮性を考えると、結果的にはこの楽章は、はずされたのが正解かも知れないなあと思うが、今回勉強しながら、この曲の中にマーラーの独創性が顕著な形であらわれていることに気付いた。
 最初、曲を聴かないでスコアだけ読んだ時は、なんて脆弱なオーケストレーションであろうかと思った。とにかく、無欲といおうか、管弦楽の使い方が薄いのだ。弦楽器のトレモロにトランペット1本が裸のメロディーを奏で始める。中間部でも、同じメロディーが短調の和音の中、クラリネットなどで演奏される。構造的な工夫がないなあ・・・こんなんじゃ飽きてしまうよ・・・と思った。
 ところが、スコアを読んだ後、何気なくCDを聴いてぶったまげた。弦楽器のトレモロに1本のトランペット・・・・アリなのである!立派に音楽として成立しているのである!しかも、実際にオケの響きを聴いてみると、こんな薄いオーケストレーションから、なんてふくよかな香りが漂ってくることか!まるでブルゴーニュ・ワインだね。ブドウ自体は薄いのに溢れるようなアロマ!
 香りが充実しているために、不思議にも構造的な脆弱さが気にならない。これは建築物ではなく詩情(ポエジー)なのだ。ひとつの空気から次のアトモスフェールに移り変わっていって、最後にゆっくり遠ざかっていくような“あるひとときの体験”。

 マーラーは、「嘆きの歌」の初稿でコンクールに応募して落選した。審査員には、かのブラームスも名を連ねていた。うーん、僕も「ブラームスに先見の明がなかった」などと人のことを言えない。もし僕が同じコンクールで審査員をしていたら、ブラームスのようにマーラーを落としたに違いない。譜面だけ読んで審査したら、マーラーのようなタイプの天才性は見過ごされてしまうからだ。
 逆に言うと、まさにこの点が、マーラーという作曲家のマーラーたるゆえんであり、ここにマーラーを読み解く鍵が潜んでいると言えよう。つまり、マーラーは、僕たちに聞こえないものを聴いているのだ。書き記されたものは何の変哲もない平凡な譜面。しかし、そこから出てくる“おと”は、非凡なものであり、永遠なるものであり、もうひとつ言ってしまうと、その響きは“彼岸”の世界から来ている。
 Blumineを簡単に「花の章」と訳してしまうことに反対はしないが、これではBlumineというタイトルの持つ本当のニュアンスを表現出来ない。Blumineは造語である。Blume(花)というドイツ語にイタリア語の小さいものや可愛らしいものを意味するinoが付け足されているのだが、Blumeが女性名詞なので、語尾が女性形になっている。しかもその女性形の活用の仕方がinaではなくドイツ語風にineとなっているのがややこしい。だったらBlumleinとかBlumchenとかすればいいものを、あえてそうしなかったのは、単なる可愛い花とかではなくて、特別な意味を持たせたかったのだろうな。
 作曲の由来は、「ゼッキンゲンのトランペット吹き」という劇音楽の中で、ライン川の上でトランペット吹きが奏でるムーンライト・セレナーデということである。だから本当は恋歌であって花とも関係ないのだ。
 まあ、なんでもいい。とにかく、この曲の中には天才の独創性があるということを僕は言いたいのだ。やっぱりマーラーはただものではない。



Cafe MDR HOME


© HIROFUMI MISAWA