大好評の初日「ばらの騎士」

 

三澤洋史 

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大好評の初日「ばらの騎士」
 「ばらの騎士」の初日の幕が開いた。作家の赤川次郎のプログラムのエッセイは、このオペラの本質を言い当てている。

年をとっていく自分を鏡で見ながら、オクタヴィアンがやがて若い娘に心を移すのを予感して沈み込んでいるマルシャリン。彼女を心配するオクタヴィアンをわざと素気なく帰らせた後、マルシャリンがこみあげる思いで「彼を呼び戻して!」と命じるところはまことにせつない。ヨーロッパのオペラハウスでは、この場面に涙する女性客が少なくないといいう。
揺れ動く女心をこれほどみごとにオペラにした作曲家はいないだろう。
 勿論、こうした心の襞や人生の機微に触れる表現を可能にした背景に、ホフマンスタールの台本の力は否定出来ないが、それを微妙な和声的色彩感の変化で表現し尽くしたリヒャルト・シュトラウスの感性と作曲家としての力量には敬服するしかない。まさに、台本、音楽の両者相まって、このような奇跡的な「オトナのオペラ」が生まれたのである。

 こういうのは、ドイツ文化特有のもので、ラテン系民族からは生まれようがないような気がしていた。でも意外なことに、僕のイタリア語教師のイタリア人女性が、このオペラに興味を示した。なんでも知り合いに、「ばらの騎士」は素晴らしい作品だから一生に一度は観た方がいい、と言われたらしい。そこで舞台稽古に連れて行った。でも、本当の事を言うと、僕の中には少なからず躊躇があったのだ。
「あのね、オペラは長いし、音楽もきれいなところはきれいだけれど、ヴェルディやプッチーニのようなものではなくて・・・ええと・・・こみ入っていて・・・決して簡単ではないので・・・長い独白も続くし・・・もしかしたら飽きるかも知れないよ。まあ、すくなくとも、元帥夫人がひとりで煙草を吸う第1幕の幕切れまで我慢して観てね。それで気に入ったら第2幕以降を観ればいい。本当は、第3幕のラストシーンで、元帥夫人が若い新カップルを見つめながら身を引いて去って行くシーンが美しいので、そこまで観れば申し分ないのだけれど・・・・」
 これ以上言うと、あんたあたしを馬鹿にしてるんじゃない?と怒られそうなほど気を遣っていたが、なんのなんの、とっても気に入ってくれて、第2幕の後会ったら、
「あたし最後まで居る!絶対最後まで観る!」
と興奮に顔をほてらせて言う。へーえ、と思った。
 公演後は、僕もバタバタしていたので会えなかったのだが、彼女はあとでイタリア語でメールをくれた。
Maestro avevi ragione: l'ultima parte del terzo atto e molto bella! Grazie mille!
「マエストロ、あなたの言った通りね。第3幕のラストシーンは本当に美しい。ありがとう!」
おおっ、イタリア人にも分かるんだね!当たり前か。同じ人間だもの。イタリア人をなめてはいけませんね。

 ワーグナーの楽劇は、女性が罪深い男性のために自己犠牲を捧げるというのがほとんどだから、基本的に女性には評判が芳しくないが、この作品はむしろ女性がグッとくるんだろうな。さらに、日頃男性優位社会の中でなんとなく生きにくい思いをしている女性達から見て、元帥夫人の生き方がカッコよく映るのかも知れない。なにより、第3幕後半で元帥夫人が、好色なオックス男爵に向かってこういうのがカッコいい。
「あなた、紳士ならば、身の引き際が肝心なのよ。もう終わったことを潔く認めなさい!」
(三澤洋史意訳)
 それは恐らく、彼女の自分に向かっての言葉でもあったのだろう。引き際を美しく・・・この後、何度もvorbei(過ぎ去った)という言葉が元帥夫人の口からもオックスからも、また、オックスと結婚させられそうだったゾフィーの口からも出てくる。ゾフィーにとっては、彼らの「終わり」はむしろ自らの新しい愛の「始まり」であるのに・・・そして、そのすぐ後で元帥夫人自身は、ゾフィーとオクタヴィアンとの「始まり」を見届けてから、オクタヴィアンとの生活に(また自分の若さに)本当に幕引きをして・・・静かに去って行くのだ。

 「ばらの騎士」初日は、観客がスタンディング・オベイションしながらオケピット前に押し寄せてくるほどの大成功であった。終演後、通用門から出た僕を、常連客達のグループの1人が目ざとく見つけて寄ってきた。
「三澤さん、素晴らしい出来ですね!こんなレベルのものが日本で観られるならば、もう外国に出掛けていく必要はありませんわ!」
と言う。
 そこへ運良く(運悪く?)合唱団員のH君が通りかかった。彼が僕と知り合いなのを知った常連客は、彼にカメラを渡して僕と一緒の写真を撮って下さいとお願いした。彼には申し訳なかったが、彼らがそんなに喜んでいるのを見て、僕は嬉しかったなあ。お客さんの喜ぶ顔を見るのが僕達の喜びでもあるからね。

 新国立劇場「ばらの騎士」は、6月4日まで5回公演。今からでも、チケットをお求めください。後悔はしませんよ。

聖霊降臨の主日に
 5月になってから今日まで、カトリック関口教会(東京カテドラル)の10時のミサには、全ての日曜日に通うことが出来た。僕のスケジュールからすると、まるで奇蹟のようである。でもそれは、新国立劇場が「椿姫」と「ばらの騎士」との2つのプロジェクトを同時進行させたお陰ともいえる。
 すなわち、5月3日「椿姫」舞台稽古、10日「椿姫」公演初日、17日「ばらの騎士」舞台稽古、24日「ばらの騎士」公演初日、という具合で、それぞれ14:00からだから、地方に行ったりは出来なかったわけである。さらに、10日と17日には、ミサ後に聖歌隊の練習も出来た。

 24日日曜日は聖霊降臨の主日。聖霊降臨祭ともいう。ヨーロッパでは、聖霊降臨祭に特別音楽会や音楽祭を催したりして、この日と音楽との結びつきが強い印象があるが、今日、ミサの最中に指揮していながら、それを本当に実感した。
 音楽は神からインスピレーションを得て作られるものだけれど、インスピレーションの語源であるinspirareというラテン語動詞のなかのspirareは、「息をする」という意味である。ここから派生したspiritusという男性名詞は、「息」のみならず、風、呼吸、生命という意味を持ち、さらに霊、魂、精神という意味に広がっていく。spirareの前にinがついたin-spirareは、つまり、「神から息を吹き入れられる」あるいは「神という風を吹き込まれる」ということである。
 特に歌は、息を吸って行われる行為だから、教会で聖歌を歌うことは、すなわち「神の息吹を吸って、それを、神を賛美しながら吐く」ことであると言ってもいいだろう。

ミサの中で、聖書の朗読の後、この日だけは特別に「聖霊の続唱」というのが歌われる。

聖霊来てください
あなたの光の輝きで 私達を照らしてください
貧しい人の父 心の光 証の力を注ぐ方
やさしい心の友 爽やかな憩い 揺るぐことのない拠り所
苦しむ時の励まし あつさの安らい 憂いの時の慰め
めぐみ溢れる光 信じる者の 心を満たす光よ etc.....
 僕はこの曲が大好きである。癒し系の曲だが、同時に心と体に力をもらえる。1年にたった一度しか歌われないのがもったいない。先週練習したのが功を奏して、聖歌隊がきちんとしたハーモニーで歌ってくれている。その歌詞の意味を味わいながら指揮している内に、なんだか感動してきてしまった。
「ああ、みんなの一人一人の中にも、聖霊が働きかけているんだな」
と思ったら、聖歌隊だけでなく、この会堂みんなのそれぞれの命が、たまらなく尊いもののように思われてきた。そういえば、答唱詩篇の詩篇を歌ってくれた方の歌唱も、いつもにも増して美しかった。彼の中にも聖霊が間違いなく働きかけているのだ。聖霊のあるところには“美”があるのだ。

 さらに、その日の山本量太郎神父の説教も、そうした僕の思いを後押ししてくれるような内容であった。
「それぞれの信者が、それぞれの環境から様々な気持ちを抱えながらこの10時のミサに出掛けてきて、ここに集っていることも偶然ではないのです。そこには目に見えない聖霊の働きかけがみなさんの心の内に成されているのです。そこに気付いたならば、毎日が聖霊降臨だといってもいいのです」
 何故かその説教を聴きながら、僕の中に込み上げてくるものがあった。この込み上げてくるものは何だ?何故肩が震える?何故、涙が溢れそうになる?そうだ。今・・・この今現在・・・まさにこの時・・・僕は聖霊の臨在を感じている。神の息吹が僕の体を駆け抜けている。

 僕は、この東京カテドラル聖マリア大聖堂で聖歌を指揮するのが大好きだ。ここに来てミサを指揮するようになってから、何度となくこうした他では得られない霊的な感動を得てきた。それは、聖歌隊がいつもよりうまく歌ったからとか、会衆の声がいつもより大きく響き渡ったとかいうのとは、本当はあまり関係ない(まあ、今日はよく歌ったのだけれどね)。感動はそれとは全く違う次元の世界からやってくるのだ。
 だから、この「今日この頃」を読んで、
「そうかあ、指揮者自身がそんなに感動しているのだったら、そんなにいいのか?ためしに行ってみるか」
と関口教会に来てみても、指揮者である僕が、たったひとりで勝手に感動しているだけだから、がっかりしないでください。
 それでも、僕にしてみると、そんな時は、その神の臨在感は僕の心の中にあると共に、あたりにも満ちあふれている感じがするので、霊的に敏感な人は何かを感じるのではないかな。

 ここに音楽の原点があるような気もする。音楽の感動とは、すべて純粋に霊的なものである。すべての優れた音楽家は一種のチャネラーであり、感動的な音楽を奏でる時、演奏家は高次なものとのチャネリング状態にある。
 通常演奏家は、ある程度技術的に高い状態にないと、その技術にとらわれて音楽そのものに集中出来ず、そこまで無我の状態に到達出来ない。だから技術が必要なのだが、教会における礼拝の最中は、演奏行為という点では特殊な状態なのだ。
 たとえば「聖堂内にいる会衆全てが一緒に祈り、共に歌っている」という状態が、どれほどコンサートにおける客観的な聴衆と異なっていることだろう!そこにおいては、奏でられた音楽は誰かに聴かせるものではないのだ。そこで指揮する僕は、勿論ズレないように指揮をするのだが、そうして揃った音楽を誰かに届ける必要はない。しかも、物理的に揃っても何の意味もないのだ!
 そろえる目的は、聖堂内の全ての信徒の霊的な一致のためである。そして、その霊的な一致は、
「みんなでそろったね!」
で自己満足、自己完結しておしまい、ではなく、インスピレーションのやってきた高次なるものに再び向かうのである。風が吹いてきてみんなをすこやかにし、力を与え、そして再びその風が元来たところに戻っていくように・・・。
 風がとどこおりなく吹いている時、僕の霊的センサーは敏感に反応する。胸に込み上げる「感動」という形で。

間違いなく言えることは、関口教会には、時々その風が吹いているということだ。まるで神話のようだけど、現代においても聖堂には聖霊が降臨しているのだ。



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