アファナシエフのベートーヴェン
アルバムの名前はJe Suis Beethoven「わたしはベートーヴェン」(SONY SICC 10221~2)。この言い方には覚えがあるだろう。フランスの風刺週刊新聞「シャルリ・エブド」のパリ・オフィスに、イスラム系テロリスト達が押し入り、11人が殺害された事件が起こった。 これが人間の基本的な「表現の自由」を脅かす行為であるとして世界が立ち上がり、各国の代表者を含む200万人がパリで街頭デモをを行った。その時の合い言葉がJe Suis Charlie「わたしはシャルリ」である。
Je Suis Beethoven
ピアニストであるアファナシエフが新しくリリースしたベートーヴェンのピアノ・ソナタ・アルバムのタイトルJe Suis Beethovenは、それをもじったものだという。しかし僕には、その意味がよく分からない。Je Suis Charlieは分かる。わたしたちひとりひとりはみん「シャルリ・エブド」のシャルリなのだ。つまり、人間として自由に考え、行動し、表現する基本的権利を持っている個別的存在である。その存在価値という意味では、民族、宗教を問わず、万人は平等であり、それを暴力で犯す権利は何人たりとも持ってはいない。
でもね、「わたしはベートーヴェン」となると、「?」と思う人は少なくないだろう。それについてCDジャケットに本人の説明が載っているが、ちっとも説明になっていなくて、読めば読むほどますます分からなくなる。ただ、いわんとすることは推測出来なくはない。ベートーヴェンの芸術の価値や存在がこの無機的な現代に脅かされていて、それを守ろうという本人の決意表明かも知れないし、また、わたしもひとりのベートーヴェンであり、ベートーヴェンの喜びや悩みや情熱を共有し得る同じ人間である、だからあなたにもそれが届くに違いない、という願望の表現なのかとも思う。
しかしながら、Je Suis Charlieは、万人に賛同を得たスローガンではない。デモの時、あるいはそれ以後に、Je Ne Suis Pas Charlie「わたしはシャルリではない」と表明した文化人は少なくない。僕も、どちらかというとその一人である(とはいえ、あの時もしフランスにいたら、僕がデモに参加した可能性はかなり高いのだが)。
つまり、表現の自由は無制限なものではないということ。言っとくけど、僕は雑誌「シャルリ・エブド」のような言動は、はしたないことだと思っているから、
「『シャルリ・エブド』に揶揄されても何も文句言うな!」
という風潮が、あのデモ以来もし生まれたら、今度はそれに反対したであろう。中傷、嘲笑、威嚇というものを相手に対して無制限に行うことは、逆に相手の基本的人権を脅かす可能性があるのだ。
Je Suis Beethovenというのも、Je Suis Charlieと同じような独善的な香りがする。だって、「僕はベートーヴェンの音楽が嫌いだ!」
という人がいるに違いないし、いたっていい。現に僕は、ベートーヴェンの音楽がわざとらしくて嫌だなと思った時期があった。嫌でなくても、あんなキャラクターの強い音楽、いつも聴こうなんて思わないじゃないか。
ええと・・・いきなりCDの内容に触れる前に、タイトルに文句つけたことをお許し下さい。これも表現の自由の範囲内ということでご容赦願いたい。何故、こういう言い方をしたかというと、アファナシエフは作家としての活動もしているということで、CDジャケットにも短からぬエッセイを載せている。付属のDVDではインタビューもしている。
でも、僕は、そのエッセイを読んで、はっきり言って失望した。現在のところ、DVDのインタビューは観ていないし、おそらく今後も観ないであろう。彼の著作も興味ない。思考がかなりとっ散らかっており、何を言っているか分からないのだ。こういう人がいるから、
「音楽家の言葉なんか信用してはいけない。音楽家は音楽そのもので勝負するべきだ」
と言われ、こうして執筆活動をしている僕なんかも、そのような「蛇足音楽家」の代名詞のように扱われるわけである。だから、とっても迷惑である(・・・でもないんだけどね)。
このJe Suis Beethovenというタイトルも、つけるにあたってどれだけの覚悟があったのかと、問いたくなるのだ。