「嘆きの歌」に寄せて

三澤洋史 

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「嘆きの歌」に寄せて
 へんてこりんな曲である。しかしながら、どこにもない音楽である。勿論、マーラーの作品はどれもそうと言える。でも、こんなにまわりのことを考えずに思いの丈をぶちまけた音楽は、この世にそう多くはないのではないか。
 希有なる果実。でもまだ少し青い。しかしながら、その青さは未熟さとは違う。その証拠に、少し世の中のことを分かってしまった彼の、後の改訂版は、あの独創的な第1部を丸ごとカットし、第2部以降も、バンダの扱いなどに見られるように、一般受けする普通の曲に成り下がってしまった。評価されない天才性への失望と挫折感が、彼をそうした行動に向かわせたとしたら痛ましいが、それならなおのこと、もてあました才能を誰にはばかることなく吐露した初稿版を僕は愛する。
 僕は若い才能を愛する。生意気な若者を愛する。それが磨き抜かれた宝石ではなく、荒削りな原石だとしても。その割には、自尊心ばかり強く、鼻持ちならないとしても。その才能を評価し、見守り、その芽を伸ばし、守ってあげたいと思う。それが、僕達年寄の義務だと思う。
 だから「嘆きの歌」を世に紹介したい。とはいえ、マーラーはもうその後大成し、僕なんかが守らなくてもその地位は揺るがない。でも、この作品に関しては、若き才能が純粋な形で聴衆に広く受け取られるように、心を込めて演奏したい。

 6月21日日曜日。東海市勤労センターには、前の日とその日の午前中から詰めていた愛知祝祭管弦楽団に加えて、6人のソリスト達の内の4人と、合唱団グリーン・エコー、それに大編成のバンダが午後から集結した。ソリスト達は、オケのメンバーがお昼休みに入った時に、僕がピアノでコレペティ稽古をつけた。その後、急いでお弁当を食べて午後のオケ合わせに突入したので、ほとんど休む間もなかった。
 舞台裏で演奏する大編成のバンダでは、Db管のフルートやフリューゲルホルンといった特殊楽器が指定されている。このフリューゲルホルンをどうするか、というので、バンダの人達には、通常のトランペットも持ってきてもらった。両方を吹き比べてみたが、やっぱりフリューゲルホルンの方がいい。こだわりのマーラーにも、こだわるれっきとした理由があり、単なるワガママではないのだ。ごめんね、マーラーさん!疑ったりして。
 さて、このバンダはへんてこりんなバンダであって、ハ長調で始まるのだが、途中で調性がねじ曲がってきて、舞台上のオケとぐちゃぐちゃになる。いやあ、凄いよマーラーは!こんな前衛的な調性感の音楽を10代の終わりから書いていたのだからね。
 弟を殺して赤い花を手に入れ、まんまと姫を手に入れて王の位に収まった邪悪な兄の婚礼の宴の真っ最中。そこに殺された弟の骨から作ったフルートを持った楽師がやって来る。そのフルートを吹くと、楽の音に乗って弟の恨み節があたりに響き渡る。その空間のゆがみのようなものを、不協和音の連続の和声感があますことなく表現しているわけだ。

「嘆きの歌」は没落を表現している作品である。マーラー自身の台本もそうなら、音楽そのものも没落を語る。その源泉は「神々の黄昏」である。第2部の途中で、骨から作られたフルートから、弟の魂が恨み節を語り出す個所で、変ホ短調の和音が響き渡るが、これが「神々の黄昏」の冒頭の変ホ短調の和音そっくりなので、こちらが恥ずかしくなるほどだ。しかも楽器編成も「神々の黄昏」がオーボエ、クラリネット、ホルンに対して、「嘆きの歌」ではオーボエ、イングリッシュ・ホルン、ホルンと、ほぼ同じような響きがする。
 この変ホ短調という和声は普段あまり使われないので、その和声だけでライト・モチーフの役割をする。これは、最初「ジークフリート」第3幕でブリュンヒルデの目覚めのところで現れるが、その時には半音高いホ短調である。これが半音下がるだけで色彩感がガラッと変わる。つまり、それによって、喜ばしいはずの「ブリュンヒルデの目覚め」は、そのまま「ジークフリートの死」と「世界の終焉」につながるという深い意味を持つのである。
 その他、あらゆるところに「神々の黄昏」が顔を出す。若いマーラーが、必死で「神々の黄昏」の前人未踏の音楽的世界に立ち向かい、欲望と悪意に満ちた世界の没落を描き出そうとしているのだ。

 しかしながら、これだけペシミスティックというか厭世的な曲なのに、不思議と僕は、マーラーの音楽から負の波動を受けない。ベルクの「ヴォツェック」やツィンマーマンの「軍人たち」などにのめり込むと、すぐ体の具合が悪くなるほど負の波動に敏感な僕だが、マーラーは全然違うのだ。
 何故かというと、マーラーも、バッハと同じように光の音楽家だからだ。彼の音楽には常に楽園の音楽が鳴り響いているし、負の波動どころか、むしろ空間や時を超えた彼岸から来る、まばゆいほどの光の波動に満ちているのだ。
 その光が溢れる個所にさしかかると、僕の心は喜びに打ち震え、全身が光で透き通るようになり、棒の先からも光が出てくるのを感じる。
「いいかい、ここはねえ、マーラーの陶酔の世界だ!もう、どんだけ陶酔してもいいからね」
すると、例のカリスマ・コンマスの高橋広君が、パルジファルの時のように腰を浮かさんばかりにして恍惚の演奏を繰り広げる。いいなあ、このイッちゃってるオケ。まあ、このオケは、僕のワーグナーやマーラーのために集まってきたオタッキーな人達で成り立っているから、特に自分のオケという意識で接しているし、みんなの反応も素晴らしい。

 まだ最初の合わせなので、これから越えなければならないハードルは沢山ある。オケは、もっと音楽的な描き分けが出来るだろうし、バランスを整えて色彩感が際立ってくるであろう。実力のあるグリーンエコーの合唱は、もっと戦慄を覚えるようなフォルテを表現し、もっと神秘的なピアノで歌えるようになるだろう。でも僕には、今の時点で、なにかこの演奏会が特別なものになりそうな予感がする。

これで法治国家と言えるか?
 あまりこの欄で、政治のことは語りたくない。いろんなイデオロギーや考えを持っている人がいるだろうし、僕の音楽に賛同してくれる人が、僕の政治的考えに反発することで僕という人間そのものにも反感を持ち、僕の音楽に対して心を閉ざすようになったら本意ではないからね。
 とはいえ、音楽家は音楽だけやっていればよくて、政治やその他のことには口出しするなと言われても、僕だってひとりの人格を持った人間であり、地域社会のひとり、あるいは日本国民のひとりとして、選挙にも行くし、それなりの考えを持っている。ただ、どっちの考えもあり得るなと思われるところで、一方の考えに自分が賛同したことで、もう一方の人から要らぬ反発を受けたくはないなあ。

 なので、どこから見ても明らかなことを言おう。と、思っても、どこから見ても明らかに間違っているのに、今の日本政府はそれをゴリ押ししようとしている。つまり、安全保障法制整備の問題だ。以前、この欄でも語ったように、集団的自衛権の論議が出た時点で、すでにどこから見ても憲法違反なのに、さらにそれを“解釈の問題”にすり替え、一歩も二歩も推し進めようとしているから驚きなのである。
 さすがに多くの憲法学者達がこれに異論を唱えている事には多少の救いを感じる。しかし、これに同調する憲法学者が一人でもいるのに、すでに首を傾げたい。もし、あなたが車で右折禁止のところを右折しておまわりさんに捕まったとしよう。それに対してあなたは、
「これは私の解釈ではアリだと思います」
と言ったって、右折禁止は右折禁止であって、おまわりさんは赦してはくれないだろう。
 同様に「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権はこれを認めない」と言ったら、自衛隊の存在だって本来違憲なのだ。なのに、そのあってはならない自衛隊が、海外に出て行って戦闘行為に参加するなどというのは、おまわりさんの見ている前で右折禁止をし、踏切も赤信号も止まることなく高速で直進したのに、
「私の解釈では問題ない」
と言い張っているようなものではないか。
 みんな、頭悪いのか?国家そのものが、こんな詭弁で乗りきることが出来てしまうなら、もうこれは法治国家とは言えない。その前に、そもそも「陸海空軍その他の戦力は、これを保持する」としようよ。すでに保持して何十年も経っているのだから。憲法改正イコール悪というのも、一見平和主義でいいのだけれども、現実的ではないのだ。そこから話を始めないと、こんな不毛な議論が今後も延々続くことになる。

 つまり結論は出ているのだ。この法案は憲法違反なのだから、憲法自体を変えずにどうしても通したいならば、「解釈」などと寝言を言わずに、赤信号を無視して突っ切るように、
「これから日本国憲法を無視して突っ切ります!」
と宣言して通すしかない。でも、そうすると、法治国家としての尊厳も無視される。誰か捕まえてくれないかな。日本を。
 この絶体平和的な美しい憲法が日本に存在するきっかけを作ってくれたのは、他ならぬ米国だ。米国は、本当は世界の警察なんだから、こんな時こそ、
「おいおい、ストップ!これは憲法違反だぞ!」
と真っ先に日本を取り締まるべきなのだが、それはしないだろうなあ、米国は。彼らは、その時その時で自分の都合の良いように行動するからね。
 日本国憲法が出来た時、この憲法は、“基地を日本国内に作って、米軍を駐留させ、日本人に平和を依存させるために”有利だったのだ。でも現代では、正直言って、
「邪魔だなあこの日本国憲法」
と思っているに違いないのだ。安倍さんを突っついて、こんな法案を通させようとしている張本人は、なんと米国なんだもの。ふん、なんてタヌキなんだ!

 みんな自分の国のことしか考えてないんだね。だから日本も、まわりに振り回されないで、そろそろ独立国家としてのあり方を根本的に考えなければならない時期に来ているんだよ。



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