名古屋での楽しい日々

三澤洋史 

写真 三澤洋史のプロフィール写真

2週間ぶりです!
 先週、僕のホームページが更新されていなかったので、随分いろんな方達から心配していただいた。申し訳ありませんでしたが、本人はいたって元気です。コンシエルジュの用とかいろんなことが重なって、僕も自作ミュージカル「おにころ」のスコアが出来上がってパート譜のレイアウトに入ったところで、原稿に時間を費やすよりも一気に完成してしまおうと思ったこともあり、総合的に判断してお休みしてしまったわけであります。

腰越満美の蝶々夫人
 さて、そうこうしている間に、新国立劇場では、今シーズン最後の高校生のための鑑賞教室「蝶々夫人」公演が無事終了し、次のシーズン開幕が合唱のない「ラインの黄金」なので、長~い長~い夏休みに入ったのだ。
 「蝶々夫人」では、腰越満美(こしごえ まみ)さんの蝶々さんの歌と演技に圧倒された。オケ付き舞台稽古の時、第2幕はハミングコーラス以外合唱がないので、僕は客席に行って観ていたが、大砲が鳴ってピンカートンの来訪を知る蝶々さんが、丘の上から震える手で望遠鏡を持つシーンのリアリティに思わず涙してしまった。ハミングコーラスが近づいて来たので楽屋エリアに戻ると、他の女性団員達も目を真っ赤にして客席から帰ってきた。
「ううう・・・もう駄目!」
と言って、僕がいても構わずみんなワンワン泣いている。またもらい泣きしてしまった。って、ゆーか、今思い出しただけでもウルウルとしてしまう。不思議だな。全て虚構の世界なのに・・・これが舞台の醍醐味というものか。
 腰越さんの蝶々さんは、清楚でいながら凛としていて、日本人女性としての誇りを一手に背負っている感じがする。それでいて時折垣間見えてしまう女性としての弱さが胸を打つのである。僕も、これまで「蝶々夫人」は沢山指揮してきたし、いろんな蝶々夫人を観てきたけれど、腰越さんは間違いなくベストである。大声でがなり立てるばかりの“声楽家”ではなく、こういう“芸術家”がもっと世の中に増えて欲しい。

名古屋での楽しい日々
 今、この原稿を名鉄知多半田駅前のホテルで書いている。昨日から名古屋入りしていて「嘆きの歌」のオケ練習をやり、今日は半田市の練習場でソリスト、合唱、バンダなど全員集合して、最後のツメを行う。
昨晩は、練習後オケのメンバー達とイタリアン・レストランで食事をした。女性団員達が僕の横に座って言う。
「先生、あたし達ブルゴーニュ・ワインの会を開いたんですよ」
「ふうん・・・」
僕には意味がよく分からなかった。彼女たちはあきれて、
「あれ、先生が言ったんじゃないですか。『花の章』はブルゴーニュ・ワインだって!」
おっとっと・・・その話か。ああ、確かに言ったわ。5月18日の更新原稿の中でこう書いてある。

弦楽器のトレモロに1本のトランペット・・・・アリなのである!立派に音楽として成立しているのである!しかも、実際にオケの響きを聴いてみると、こんな薄いオーケストレーションから、なんてふくよかな香りが漂ってくることか!まるでブルゴーニュ・ワインだね。ブドウ自体は薄いのに溢れるようなアロマ!
1番トランペットの女の子が言う。
「だから、あたしたち『花の章』をもっと上手に演奏しようと集まってブルゴーニュ・ワインを飲んでみたのです」
おおっ、うっかりなこと言えないなあ。いや、別に口から出任せということではないですよ。ただ、ブルゴーニュ・ワインを飲んだから、ただちにBlumineが上手に演奏できるかどうかは分からないなあ。
 
 別の女性がある紙を持ってきた。見ると「三澤検定」と書いてある。僕にまつわるいろんなことがらが問題形式になっている。たとえば、
「三澤先生の最も尊敬する合唱指揮者は? ノルベルト・○○○○○」
という風に。これがみんなの間に出回っているらしい。中に僕の系図が問題になって空白を埋めるようにというのもあった。妻の名前は~千春。娘は~志保と杏奈・・・おいおい、これではプライベートが丸裸ではないか。まあ、常日頃からそのことは妻や娘達が言っている。
「パパ、これでは家の中のことが全部筒抜けだね」
自分でどんどん書いているのだから仕方ないのだけどね。
この問題を作ったり解いたりする人達は、僕のホームページを毎週欠かさず読んでいるという。だからこの原稿も、君たち今読んでいるね!うふふふふ!


Don Antonio にて

 ここから1日経って・・・19日日曜日夜。この原稿を僕は名古屋市栄のどまんなかにあるホテルで書いている。今日は朝から半田の練習場で、午前中は「花の章」と「葬礼」のオケ練習。午後は「嘆きの歌」のオケ合わせ。驚いたことに、ブルゴーニュ・ワインが本当に効いたと見えて、「花の章」が素敵になってきたぜ。「葬礼」も緊張感溢れる良い演奏に仕上がってきた。
 午後の「嘆きの歌」では、東京から前川依子さんを迎え、これでソリストが全員揃い、合唱団のグリーンエコーとバンダも揃った。6台のハープだけは前日にならないと来ないが、今日の練習で本番どんな演奏になるか、全容が見えてきた。
 オケがめちゃめちゃノッている。ヤバいほどだ。整然とした演奏からはほど遠い。でも・・・なんだろうな・・・めっちゃ面白い!「嘆きの歌」のこんなエキサイティングな演奏は、きっとプロでも出来ない。うぬぼれて言わしてもらうと、僕とこの愛知祝祭管弦楽団のコンビでしか成し得ない。世界で一回こっきりの名演になる予感。そして、この予感はきっと的中する。

 明日は、午後からモーツァルト200合唱団の練習。ブラームスの「ドイツ・レクィエム」。その前に・・・この原稿も完成させなければならないけれど・・・午前中に笠寺にある50メートル・プールに行く。指揮ばっかりしていると体がなまってしまって・・・というのは半ば冗談だけれど・・・でもね、指揮では汗は掻くけれど、体よりも頭脳や神経を使う。それをほぐすのには水泳が一番だ。

・・・・・今、この原稿を、モーツァルト200の練習場である幅下幼稚園で書いている。7月20日月曜日の午後。合唱団は発声練習をしている。笠寺の日本ガイシ・アリーナ50メートル温水プールが素晴らしかったので、どうしてもひとこと書いておきたいと思ったからだ。
 都内でも50メートル・プールといったら、東京体育館しかないし、地方に行ったらなおさらだけれど、やはり50メートル通しで泳ぐことは、自分のフォームを確認しながら泳げるので、とてもいい。体幹を考えることは指揮をするのにも大いに役立つし、連日パーティー続き(昨晩もモーツァルト200の団員達のご招待を受けた)のオーバーカロリーの消費として理想的なのである。今日は、コンシェルジュが東京からわざわざ「ドイツ・レクィエム」を歌うためにここに来ているので、この原稿を書き上げたらUSBドライブで渡そうと思う。

さて、そろそろ発声練習が終わる。練習に行かなくっちゃ!
 

姑息な国を憂う
 安保法案がまんまと衆議院を通過してしまった。前にも書いたけれど、この法案が良い悪いという前に、“日本国憲法の解釈”という無謀なるやり方で乗り切ろうとした事が、後世に禍根を残すことは免れない。日本が自ら法治国家であることを断念した記念すべき日となるであろう。
 憲法学者の大半が違憲であることを表明し、国民の反対運動がこれだけ高まっているというのに、国会内の与党の数の論理だけで全てが決まってしまうなんて、民主主義というものはそんな薄っぺらなものなのか。
 この国には“真の議論”というものは存在しないのだなとも思う。よく、「充分に議論を尽くしたか?」とか言われているけれど、議論なんて誰もしていないじゃないか。“結論”だけ最初からあって、最後は数で押し切るのだから、この先どれほど審議を引き延ばしたとしても同じなんだ。
 では、何故自民党は、こんなに国民が反対してもこの法案を強行するのか?沖縄の基地の問題もそうだけれど、そういう時は決まってアメリカが裏にいる。アメリカのいいなりになるしかないのだ。逆に、そうじゃない問題になると、政府はいくらでも“空気を読む”やり方をする。たとえば新国立競技場の問題。工事費の莫大さに国民の非難が集中してくると、安倍総理大臣はその空気を読んでさっさと「白紙撤回」とする。もう主義主張もなければ恥も外聞もなければプライドのかけらもない。

 この2つの相反するような態度には、戦後日本の抱える根本的な問題が現れている。すなわち、アメリカに安全保障を完全に依存しておきながら、自らは経済原理を最優先して国を発展させてきたこの国の狡さである。まあ、それをさせたアメリカはもっと狡いんだけどね。
 日本国憲法は、絶対的平和を歌っていて美しい。それは僕も認める。ただこれは、これまで一度として実現されたことはない。何故なら、仮に自衛隊がいなくても、日本には即座に戦争が出来る軍隊がいる。米軍の駐留だ。日本の軍隊であろうと米軍の軍隊であろうと、軍隊は軍隊だ。それが日本国内にあるのだ。つまり「すべての戦力は、これを保持しない」と歌った第9条とは、すでに最初から矛盾しているのだ。
 アメリカに平和を依存している限り、日本はアメリカに決して逆らえない。だから沖縄の基地問題も安保法制問題も絶対に解決しない。解決するための一歩は、日本が独立国家としての毅然とした態度を持つことに始まり、自分で判断して、時にアメリカに対してノーを突きつけるだけの強さを持たないといけない。ところが、今回のやり方はなんだ。政府ともあろうものが、まるでちんぴらヤクザのように姑息なやり方で、この法案を押し切ってしまったのだ。もう太鼓持ちもいいところだ。

 さて、新国立競技場の問題も、一見関係ないことのようだが、全部つながっている。分かりやすく言うと、みんな東京オリンピックに経済原理を重ね合わせているのだ。だから、新国立競技場に何千億かかっても、そこに経済原理が働いてみんなが最終的に儲かればOKだったわけだよ。誰も倫理観なんてないんだから、クレームつける人がいなかったら、あのまんま行っちゃったわけだね。途中でみんなよってたかって甘い汁を吸ってね。ところが予想に反して「そんなに高い競技場に税金をつぎこむなんて」と誰ともなく言い出して、それがひとつのうねりになってしまったものだから、みんなあわてたわけだ。

 とどのつまり、今の日本は、アメリカの言いなりになりながら、全ての価値観の上に経済原理(アベノミクス)を置く国なんだ。儲かれば全てよし。宗教もないから、毅然とした態度など取れるはずもない。寄らば大樹の陰。長いものに巻かれろ。卑屈で姑息に立ち回るがいいさ。
ああ、情けない!
我が愛するニッポンが、どんどん腐っていく!



Cafe MDR HOME


© HIROFUMI MISAWA