この一週間
先週は、7月26日の愛知祝祭管弦楽団の「嘆きの歌」演奏会と、翌27日月曜日の「復活」の合唱稽古の後は、8月1日土曜日の東京バロック・スコラーズの練習及び来年の「ロ短調ミサ曲」演奏会に向けてのキックオフ・パーティーがあるまで、公の仕事は何もなく、火水木金とゆったり過ごす事が出来た。
とはいっても、「おにころ」のソリスト稽古や、イタリア語のレッスンに行ったり、秋の文化庁スクール・コンサートの編曲を開始したりと、何かと用事はあって、何もしないでボーッとしているわけにもいかなかった。
考えてみると、僕みたいな仕事というのは、休日だから休み!っていうものでもない。特に、これまで「おにころ」のオーケストレーションで他のことをかなり置き去りにしてきたので、それらを整理しているだけで日が過ぎて行った。
現在の時点で、すでに締め切りの過ぎている原稿がふたつほどある。あのう・・・この原稿を読んでいる人達の中で、「あ、これは自分たちの団体の原稿だな」と思った方には謝っておきます。ごめんなさい。この原稿を仕上げたらすぐに仕上げて送りますからね。
本当は、妻とどこか一泊くらい温泉にでも行こうかとも話していた。ところが、志保が、稽古ピアニストとして関わっていた二期会「魔笛」の鳥取公演に照明キューで駆り出され、杏樹を2泊3日でまるまる預かることになった。僕は、杏樹に合わせて6時過ぎに夕食を取り、8時過ぎに寝かしつけ、そのまま杏樹より先に寝ちゃったりして、妻に、
「何やってんの?」
と9時半頃に起こされたりして、実に健康的な生活を送っていた。
7月31日金曜日は、後で記事を書いているが、午前中谷合ひろみさんの葬儀に参加した。妻は葬儀の受付をやっていて、志保も杏奈も僕と一緒に参加した。そういえば、志保も杏奈も子供のためのオイリュトミーをやって谷合さんに習っていたんだね。
午後は、久し振りに新国立劇場合唱団テニス・クラブに参加した。年が明けてから「おにころ」オーケストレーションなどの理由で一度も参加していなかったのだ。この夏最も暑い日だった午後の炎天下のアウトドア。新米の僕と前川依子さんだけ初心者扱いで特別に1時間早い3時からコーチに習うということで、結局3時から6時まで3時間テニスしっぱなし。おまけに僕は、国立の自宅から東久留米のコートまでロード・バイクで行ったから、熱中症にならなかったのが不思議なくらいですなあ。ま、水分はたっぷり採ったけれどね。
結局参加者は僕を合わせて6人であったが、インストラクターの先生はとても優秀な人で教え方がうまかった。黒澤明子さんのコーチである。僕は名前を教えたのに、黒澤さんが僕のことを先生と呼ぶものだから、彼も僕のことを先生と呼ぼうと決めたらしい。みんなの前で、
「セーンセイ!打つ時めっちゃ力んでますよう。フォームを作ってボールを見てただ当てれば自然に飛んでいきますからね」
と言うのでみんなが笑う。それが全然気にならないどころか、逆に楽しい。何故なら、いつもみんなの前で偉そうに指揮している僕が、今はみんなと一緒になって先生に怒られたりなんかしているから。
そういえば、僕がテニス・クラブに通えなくなって、僕みたいな足手まといがいなくなってみんな活気づいたに違いないと思っていたら、例会を設定してもなんとなく用事が出来た人が何人も出て来たりして参加者が少なくなって、中止にしていたりしていたという。一時は20人くらいにメンバーが増え、2面コートを借りないと出来ないほどになっていたのに。
もしかしたら、自分より下手な人がいて「あいつよりマシ」と思いながら参加しているのがみんなにとって心地良かったのかも知れない。そしてそれがいつも自分たちの上に君臨している合唱指揮者だったらなおさらか。だとすれば、僕のような下手っぴいが参加していることも、下手っぴいなりの存在意義があるってことか。要するに、今後もあまり遠慮する必要もないらしい。
さて、翌8月1日土曜日は、東京バロック・スコラーズの練習と、新国立劇場内のレストラン「マエストロ」でキックオフ・パーティー。演奏会は半年も先なので、気が早いと思われるでしょうが、僕はこのTBS10周年記念の演奏会に命を賭けているんだ。これまでの練習で、いちおう音取りが最後まで行って、こんな状態で演奏会を迎えてしまう団体も少なくないだろうというレベルに来ているが、だからこそ、これから僕の理想とするバッハ演奏に向かって音楽作りを開始する宣言の日なのである。
パーティーには、アルトソロの加納悦子さんや、オーボエの小林裕さんやコントラバスの高山健児さんはじめ、何人かのオケの方達も出席してくれた。なごやかな雰囲気の中ではあるが、合唱団の一同あらためて良い演奏会めざしての決意を固めてくれたと信じている。
僕はその後、幡ヶ谷の渋谷区スポーツセンターでひと泳ぎしてから帰途に向かった。そういえばこの週は小学生のようにほぼ毎日プールに通った。室内プールなのでそんなには焼けていないが、テニスもあって多少日焼けしていると思いますよ。
8月2日は、朝から関口教会。久し振りに歌ミサを指揮する。東京カテドラルの聖マリア大聖堂は、天井がとても高いので涼しそうに見えるが、いやあ、暑かった!でも、今の僕は、この祈りの空間を我が家のように感じる。それに、とても離れていて合わせるのが難しい2階のオルガンと聖歌隊と一般会衆の声が溶けあった時の至福感は何にも代え難い。この腕一本でその一致を手助け出来る充実感!この歳になって、こうした場を僕が与えられたことが、神のはからいでなくて一体何であろうか?
ミサの後の聖歌の練習では、聖歌隊が4声体でしっかりハモッってきて、とても嬉しかった。やるじゃん、関口教会聖歌隊!その調子で少しずつ頑張っていこうね!僕は、溢れるような至福感を感じながら関口教会を後にした。この生活を、もう僕は自分の人生から決してはずせない。
僕の中で生きているオイリュトミー
オイリュトミーのレッスンからは遠ざかってしまったが、オイリュトミーは僕の中で今日でもしっかり根付いている。もし誰かオケの楽員が、僕の指揮のもとではカンタービレのラインが作りやすいと感じたり、もし合唱やオペラなど歌のある楽曲を僕の指揮で歌っている人が、歌い易いなあと感じてくれたとしたら、それは間違いなく僕の指揮の中にオイリュトミーの要素が入っているお陰である。
つまり僕が歌詞のある管弦楽曲を指揮している時には、僕は指揮しながら音楽オイリュトミーと言語オイリュトミーとを同時に行っているのである。それらは、グレゴリア聖歌のアルシス(高揚)とテーシス(沈静)の精神ともある部分では共通するものなので、キロノミー(グレゴリア聖歌独特の指揮の仕方)で読み解くことも出来る。
最近僕は水泳やスキーをやることによってカラヤンの指揮法を解読している。僕の著書である「オペラ座のお仕事」で、レガートの方法を水泳のストロークの動きと関係づけているけれど、そもそも、もっと根本的な次元で、僕の全ての指揮運動の原点は、オイリュトミーにあるのだ。
シュタイナー教育
今、自分の近くに孫の杏樹がいるようになって、シュタイナー教育の本を読み直しているが、シュタイナー教育って本当に素晴らしいと再確認している。というか、これこそ霊的な観点からのみならず、実践的観点からも、人間存在の根本から導き出された理想的教育法であると確信する。
どうして世の中はシュタイナー教育の価値に気付かないのだろうか?どうして、もっと一般的にシュタイナー教育が取り入れられないのであろうか?まあ、日本は、シュタイナーが最も強く警告している知育教育偏重の巣窟であるから、難しいのかも知れない。
ちなみに、シュタイナー教育では、子供は「7歳までは夢の中」なのだから、そういうものとして育てなさいと教えられる。子供は、“知性の足りない大人”などではなく、“大人の未成熟な状態”などでもない。子供は、大人とは全く違った存在であり、大人とは全く違った感性を持ち、全く違った世界観の中で生きている。子供にとって“世界”とは、まだ自我と分離し対立する客観的存在ではなく、自我と渾然一体となっている存在である。
我が国で一般的に通用している価値観として、子供になるべく早くから知的教育を施さないとみんなから立ち遅れるというのがある。しかし、そうやって幼児期に詰め込み教育をしてしまうと、子供の魂はとてもゆがんでしまう。子供の知能は、体の運動性の発育と分かち難く結びついている。だから、たとえばじっと体を動かさないで長い間テレビに見入っているような状態は、子供の健全な育成を妨げるのだ。
頭は良いけど感性や情緒に乏しい人間や、妙に冷めていて可愛げのない優等生の小学生や、残酷なことが平気で出来る知的人間が、今日我が国の至る所に見られるであろう。これが歪んだ知育教育の結んだ果実である。つまり、知性は本来人格の中で感性や意志とともにバランスよく育まれるべきなのに、冷たい知性が人間性と完全に遊離してしまっているのだ。
シュタイナー教育の現場では、たとえば算数の授業の時にも歌を歌い詩を朗読したりする。時には踊りを踊りながら算数をする。“教育は芸術である”とシュタイナーは説き、全ての行為を芸術とつなげようとする。
杏樹を見ていると、本当にシュタイナーの言う通りだなあと思う。彼女は今、体の発育まっさかり。歩いたり走ったりジャンプしたり階段を上り下りしたり、あらゆる運動性にとても興味を持っている。そして、そのひとつひとつをクリアしていく毎に、知能も一緒に発達していくのに僕は驚かされる。
そして彼女は、植物がいつも光を求めているように、愛を・・・溢れるような愛を常に求めている。これが子供というものだ。
児童教育の専門家達は、机の上で考えるだけではなく、子供をよく見て欲しいとつくづく思う。
子供から教えられることは無限だ。