ウィーンに向けて~命賭けて!

三澤洋史 

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魔のイヤイヤ2歳と付き合う方法
 孫の杏樹の様子がおかしい。あんなに素直で明るくていいこだったのに。急に短気になってきた。缶や瓶の蓋、あるいは何かのチャックを開けようとしているので、手を貸してあげると、大泣きしてそれを投げる。また、開けてはいけないものを一生懸命開けようとしている。中の物がこぼれると大変なので取り上げざるを得ない。勿論癇癪を起こす。そんな時は、
「チッチッ・ポーン!」
と言いながら、スプーンやフォークや食べ物をわざと上に放る。床に落ちると、今度は、「ない!」
と言って泣く。
 自分でズボンが脱げるようになってきた。楽しいのでどんどん脱ぐ。やっぱりこれも、手を貸そうものなら激怒するので放っておくと、紙おむつまで脱いでスッポンポンになってしまう。はかせてもはかせても脱ぐ。しまいに笑ってしまう。すると笑ったといって怒る。
 言葉を覚えている最中で、だいぶコミュニケーションが取れるようにはなってきたのだが、杏樹にしてみると肝心なことがなかなか伝わらないらしい。一方、こっちは相手が必死になって何か要求しているのは分かるのだが、そんな時に限って、ハナモゲラ語のような解読不可能な言語をもの凄い速さでしゃべるので、こらえきれずに笑ってしまう。すると笑ったといってキレる。
 どうしちゃったのこの子?という感じで、最初はみんなで途方に暮れていた。ある時、志保が笑いながらあるサイトを見せてくれた。

https://cuta.jp/649

http://matome.naver.jp/m/odai/2136110076966134701

 そうかあ、これが魔の2歳児というものなのか。そのサイトに書いてあることは、多かれ少なかれ全て杏樹に当てはまる。杏樹はまだ1歳9ヶ月なのだけれどね。はっと思った。そして妙に感動してしまった。そうなんだ。このイヤイヤこそ、杏樹が成長するために必要なことなんだ、と。

 そういえば、最近杏樹は自分のことをアンジュと呼び始めた。そのジュの発音がドイツ語のウのウムラウトになっている。時々自分の鼻のあたりを人差し指で差しながら、
「アンジュ・・・ここ」
とポツリと言う。自我が芽生えているんだ。シュタイナーによると、幼児の意識では、自己とそれを取り巻く周囲(自然も含めて)は分かち難く一体となっているというが、そこからしだいに自分とそうでないものとの違いを認識してくるのだ。
 いつのまにか自分という意識がある。痛いとか痒いとか、お腹すいたとか喉渇いたとか、満腹とか良い気持ちとか感じる“自分というもの”がいる。また、嬉しいとか悲しいとか、愛されているとか侮辱されたとかいう“感情”を感じる自分そのものがいる。その自分は、他の子供達とは違って、アンジュと呼ばれてみんなにも認識されているし、自分でも個別的な存在として認識している。
 また、その自分は、“自分の手”でものをつかみ、“自分の足”で歩行し、ジャンプしたり踊ったりする。ひとつひとつ自分で開拓し、体感し、自分でやり遂げたという達成感を、生まれてからずっと得てきたことに気が付く。

 こうした自我が目覚めた杏樹は、自己主張をする。イヤイヤもそのあらわれ。それは杏樹の成長過程においてどうしても通らなければならない道なのに違いない。それならば、僕たち杏樹を取り巻く者達も、そのイヤイヤをむしろ楽しみながら(といっても決して笑わないで)付き合っていかなければならない。それに、彼女は、自分の起こしたアクションに対して大人達がどんな反応をしてくるのか注意深く観察している。ここできちんと向き合ってあげないと、子供心に、
「この親は自分のことを所詮分かってくれない」
という不信感が生まれてしまうだろう。
 同時に、駄目なことは駄目と、きちんと分かるように根気よく教えてくれないと、今度は、
「その場しのぎでやる気がない」
と見透かされてしまう。
 テレビでよく幼児虐待などというのが報道されている。聞くだけで深く心を痛めるけれど、その中には、こうしたイヤイヤに対して、気の短い親が逆ギレしてしまうケースだってあるのかも知れない。でも、そんなことしたら、子どもの魂は深く傷つきトラウマとなって、その子の人格形成に大きな陰を投げかけてしまうだろう。このイヤイヤの時期で問われているのは、実は親の向き合い方なのだ。

 1歳9ヶ月の今の杏樹は、まるでETが、
「ET・・・おうち・・・帰る」
と言うように、接続詞がないまま単語を並べる。毎日毎日どんどん新しい単語を覚える。何か言うとみんなオウム返しに反復するので、うっかりなこと言えない。
 先日、杏奈が遊びに来た。遠くから走ってきて、杏奈が杏樹の近くまで顔を寄せたら、
「ちかっ!」
と言った。
「だ、誰が教えたの?」
とみんなでびっくりした。

 ある時、どこかにぶつかって痛そうにしていた杏樹に、志保が、
「痛いの痛いの飛んでけ!」
と教えた。すると、それが楽しかったと見えて、僕の前でわざと自分の手を床や壁に打ち付けて、
「痛い!痛い!」
と、わざと辛そうな顔をしてくる。
「痛いの痛いの、飛んでけえええ!・・・あっ、痛いのが飛んで行くところが見えるよ。ほらあ、あそこだー!」
とサービス精神を発揮してオーバーにやったのがいけない・・・・その後、何度手を叩いては僕の所に来たことか。
 パソコンで仕事していると、
「ジージ・・・おいで!」
と、まるで犬でも呼ぶように、上から目線で手を引っ張る。多忙なマエストロ三澤といえども、
「はいはーい!」
と尻尾振ってついて行くしかありませんなあ。

 子どもの成長はらせん状。人間が、言語をはじめとして、いろんなことをひとつひとつ覚えて、大人になっていくって大変なことなんだ。勿論、志保や杏奈もその道を通ってきたので、僕も妻も経験しているはずなんだが、忘れているんだね。

ブラームスとマーラー
 ブラームスの「ハイドン変奏曲」や「ドイツ・レクィエム」をやった後、再びマーラーの第2交響曲「復活」のスコアに向かう。ある種の完璧主義者であるブラームスの、あの少しの曖昧さも許さない譜面から見ると、マーラーって、なんて「とっ散らかっている」んだろう!
 まずマーラは、すぐffff(フォルティッシッシッシモ)やpppp(ピアニッシッシッシモ)を書くものだから、そもそもただのpがどのくらいの大きさで位置づけられるのか分からない。
「マーラーの場合、ピアノひとつというのは、案外大きくていいのかもね」
なんて言ってると、そうでもない所もあるからややこしい。クレッシェンドやディミヌエンドの行った先、どのくらいの大きさになって、結局どうしたいのかがよく分からない。 また、同じ音型なのに、後で出てきた時には、微妙にフレージングが違ったり、音が違ったりするが、そのどこまでが意図的で、どこからがうっかりなのか分からない。

 「復活」には、カルマス版、あるいはユニヴァーサル版の旧版及び新版などをはじめとして、おびただしいヴァージョンが存在する。しかし、それらを見比べてみると、つまらないところでのどうでもいい変更が多すぎる。かと思うと(演奏してみて初めて分かるのだが)、オケが無意識に走り易い所にnicht eilen !(走らない)などと書いてある。練習していて、
「みんな、走らないように!」
と言いながら気がつくと、もう書いてあるんだ。
 トップクラスの指揮者でもあったマーラーは、「復活」に関しては、ウィーンでもニューヨークでも何度も指揮している。その時、そのれぞれのオケの練習時に、自分で言った注意がそのままスコアの表示記号となっている。ボーイング(弦楽器の弓の上げ下げ)も丁寧に書いてあるが、たいていは、大きなお世話といえるもの。版によって全く違う・・・って、ことは、マーラーも、いろいろなオケでやる度に、オケの特性を見ながら思いつきで決めていたのだから、こっちも勝手に決めてしまっても、いいんだと思う。それでも、これ見よがしに変わった弓づけがなされていると、気になってしまう。

 そうした、やたら余計な指示ばかり多くて統一性のないとっ散らかっている譜面だが、しかしながら、マーラーという人物のスケールの大きさは、ブラームスの比ではない。では、この機会だから、このふたりをちょっと比べてみよう。
 「ドイツ・レクィエム」と「復活」では似たような歌詞の場所がある。

Die mit tranen saen, werden mit Freuden ernten.
Sie gehen hin und weinen und tragen edlen Samen und kommen mit Freuden und bringen ihre Garben.
涙と共に種をまく人は、喜びの歌と共に刈り入れる。
種の袋を背負い、泣きながら出て行った人は、
束ねた穂を背負い、喜びの歌を歌いながら帰って来る。
   詩篇第126編5~6節(新共同訳)

Wieder aufzubluh'n, wirst du gesa't !
Der Herr der Ernte geht
Und sammelt Garben
Uns ein die starben !
再び花開くために、お前は種をまかれている!
我々が死んだ時、刈り入れの主が来て、
(我々の魂という)収穫された穀物の束を集めるのだ。
   クロップシュトック詩(三澤洋史意訳)
 両方とも、saen(種をまく)Ernte(刈り入れ、収穫)あるいはGarben(収穫された物束)という言葉が用いられている。「種まきのたとえ」は、イエスも弟子たちに語っているように、聖書における常套句で、ヨーロッパでも広く知られていたが、ブラームスとマーラーが取りあげた目的が全く違うのが興味深い。

 癒しの「ドイツ・レクィエム」では、
「今は悲しんでいても、それが後で必ず喜びに変わる」
という風に、あくまで現世的な意味で、悩み苦しみ悲しむ人を慰めるためにこの言葉を用いている。極端な言い方をすれば、
「そんなに気を落とさないでね。生きていれば、また良いこともいっぱいあるからね」
という感じである。
 ところが、マーラーでは、種まきと収穫との関係は、この世の生と死を超えた永遠の生命を前提にして語られている。宇宙には本当は生も死もないのだ。宇宙には貫き通した絶対的生があるのみなのだ。だからそもそも、我々の感情なんて「小さい、小さい」と言っているかのようである。
 般若心経にこういうくだりがある。
是諸法空相、不生不滅、不垢不浄、不増不減
(この世の全ての現象や存在は空すなわち錯覚なのだ。だから本当は、生まれる こと、あるいは生きることや死ぬこともないし、汚れたりきれいになったりする こともないし、増えたり減ったりもないのだ)
   三澤洋史超意訳
 このくだりの最も分かり易い説明がある。「おにころ」で、
「行かないで!」
とすがりつく桃花に向かっておにころが語るセリフである。

おにころ
僕たちがどこにあっても、この川を見つめている限り、
僕たちの命は、この川を通してつながっているんだ。
僕たちの魂は、本当は別れもしなければ死にもしない。
どんなに離れていても、心はひとつなんだよ。
さらに「あなたの瞳の中に」の前奏で桃花が語るセリフ

桃花
おにころ、そうだったわ。
この大きな宇宙の調和の中に、
あなたの命も、あたしの命もあるのね。

 つまり、このセリフの出所は般若心経なのである。分かったあ?これだけ理解出来たら、もう般若心経は読まなくていい・・・というわけでもないが、とにかくマーラーが、どれだけ凄いテーマを扱っているかが分かるだろう。さらに、僕がどれだけのテーマを背負って「おにころ」を作っているかも、ちょっぴり理解していただけたら嬉しいな。
 ということで、ブラームスはブラームスの素晴らしさがあるし、還暦まで生きて来た自分にとっては、悲しみも苦しみも経験した中で、自分なりの「癒しのレクィエム」を語れたかなとは思っているけれど、マーラーは、また全然別な意味で、僕の人生観の根本のところで深く深くつながっているので、自分にとっては、まさに今こそマーラーなのだ。僕のマーラーは今が旬!よく熟れてますよ!トローリとろけるほどですよ!

ウィーンに向けて~命賭けて!
 さて、9月12日(土)と13日(日)の2日間、マーラー・フェスティバル・オーケストラ・ジャパンのウィーンに向けての最後の集中練習が行われた。2日目の朝は旅行社の人による旅行説明会だったので、みんなよりちょっとだけ外国旅行に慣れている僕は失礼して、ホテルをチェックアウトした後、大好きなコメダ珈琲店(名古屋が本拠地だからね)に行き、午後の合唱団付きの練習に備えてスコアの勉強をする。

 僕は、どの曲を勉強する時もそうだけれど、勉強の初期にはほとんどCDを聴かない。たいていスコアを見ながらピアノを弾いたり、じっと譜面を読み込むばかりで、自分なりのテンポ感や、バランス感を決めて、こんなサウンドにしようという計画を立てる。だから一般の人たちのようには、誰がどんな演奏をして、という情報量を持っていない。というより、あまり他人の演奏には興味がない。
 でも、自分の解釈が隅々まで決まって、もう揺るがないとなると、今度は人がどんな演奏をしているのか興味を持ち始める。これまで持っていたCDは、インバル指揮フランクフルト放送交響楽団、アッバード指揮のシカゴ交響楽団とウィーン・フィルの両方であった。この中で、一番好きなのはアッバードのシカゴ交響楽団の方であった。ウィーン・フィルのは名盤とされているようだが、シカゴ交響楽団の方がややテンポも速く、緊張感がある。
 さて、先週の金曜日になって、3枚CDを買った。学生時代にLPで持っていたメータ指揮ウィーン・フィル、それとワルター指揮ニューヨーク・フィルの盤。それと、バーンスタイン晩年の1987年のニューヨーク・フィルの実況録音である。驚くべき事に、今の自分の解釈に一番近いのはワルターだった!
 高校時代、角皆君がワルターのマーラーを絶賛していたが、凄いなあいつ、そんな時から聴く耳持っていたんだ。バーンスタインは、期待して聴いたのだが、超失望した。遅いし、全然緊張感もなければ、作品のテーマにも触れていない。晩年の、名声うなぎ登りと相反して、大成とはほど遠く、むしろ迷走ではないかと思わせる。バーンスタイン・ファンには申し訳ない!僕もファンではあったのだけれど・・・。

 さて、コメダ珈琲店で、スコアを見ながらi-Podで聴いたのは、まだ買ってから聴いていなかったメータ盤であった。これは合唱がウィーン国立歌劇場合唱団で、合唱指揮は僕が敬愛してやまないノルベルト・バラッチュである。メータの指揮は全体にキビキビしたテンポで進んでいく。時々、テンポの変わり目が不自然な個所もあるが、全体としては好きな演奏である。
 5楽章の合唱を聴いて思わず鳥肌が立った。最初の出だしが結構大きいのでミステリアスな要素には欠ける。でもそこにあったのはまぎれもないバラッチュの音であった。徹頭徹尾バラッチュの音!バラッチュの音!バラッチュの音!あの夢見るようなバラッチュ・サウンド!
 プロの仕事だ!コメダでひとり涙が溢れてきた。ヤベエ、誰かに見られたかな?あたりを見回す。隣の老夫婦は、もう11時なのにモーニングの卵の殻をふたりで一生懸命むいている。しょうもない愚痴をお互いこぼし合っている。そんなこと話している場合じゃねんだよ。ほら、男声合唱があんなに均一で筋肉質なサウンドでBereite dich !(備えよ!)と歌ってるじゃねえか!
「怖がることをやめよ!しかし備えよ!」
とね。死ぬ時に後悔しないようにだよ。いや、Bereite dichのあとは、zu sterbenではなくてzu lebenなんだよね。つまり「死に備えよ」ではなくて、「その死を突き抜けた先の生」に備えよともとれるし、死を見つめながら、それに見合う生き方をしなさいともとれる。実に奥が深いんだ。
 分かったあ?名古屋の老夫婦よ。しかしなんだね。名古屋というところは、こうしてわざわざ朝食を食べに喫茶店に来るんだね。家で作るのが面倒くさいとかいうのではなくて、これが名古屋の文化なんだね。
 ええと・・・何の話をしていたんだっけ?あっ、そうそう、老夫婦なんかどうだっていいんだよ。バラッチュの仕事に感動したんだ。それで、決心した。ウィーンの本番までの間に、僕は、僕のこれまでの60年の人生を賭けて出来るだけのことをしよう・・・と。この「復活」の演奏を、本当にかけがえのないものにしよう・・・と。
午後の練習に熱が入ったのはいうまでもない。会場のある刈谷の街の気温が3度くらい上がったに違いない。

 ということで、19日に出発する一行に先駆けて、僕達夫婦は17日の木曜日に出発します。時差ぼけを直してベストコンディションで本番に臨むためです。僕は、毎日が忙しくて、生まれて初めて行くのに、ウィーンの事まだなんにも調べていないのだが、妻の持っているガイドブックを見て驚いた。凄い付箋の量!なんだい、同行人はお気楽だねえ。僕は、本番まで出来るだけのことをすると決心したばかりなんだ。ホテルにこもって勉強ばっかりしているからね。
 すみませんが、コンシェルジュ夫婦も今回はこのツアーに同行するので、来週の更新はお休みします。再来週に、写真とか載せてたっぷりお送りします。
成功に酔ったおたよりが出来るといいねえ。
いいや、絶対にそうならねばならぬ。
命賭けて!!!



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