マーラーと出遭う(ウィーン演奏旅行報告)

三澤洋史 

写真 三澤洋史のプロフィール写真

飛行機の中なのでフヌケが目立たない!
 今、この原稿を、ウィーンから日本へ向かう飛行機の中で書いている。行きの飛行機の中ではずっとスコアの勉強をしていた。でも、帰りは久し振りにスコアから離れて、ボーッとしている。ボーッとしてフネケになっていても、飛行機の中だから目立たなくていいなあ。
 さっきまでメリル・ストリープ主演の映画「マンマ・ミーア」を観ていた。母親をめぐる3人の男の誰かが自分の父親に違いないと思った娘が、自分の結婚式にその3人とも招待して、父親を捜し当てようとする荒唐無稽な物語。その設定からして馬鹿馬鹿しいが、ストーリー展開も馬鹿馬鹿しく、さらに結末も馬鹿馬鹿しい。でも、とってもとっても面白かった。特に、超ステレオタイプのミュージカル仕立てで、突然音楽が始まると、街中のみんなが大量に踊り出す。これって、もしかしたらインド映画のパロディー?

 しかし、観ながら思ったんだ。
「ああ、自分はもう1作だけミュージカルを書きたいなあ」
こんな風に馬鹿馬鹿しく、それでいて泣けてしまうおはなし。あはははは・・・・どこにそんな時間があるのだろうか・・・・。
 でももし今度書くとしたら、絶対書きたいテーマがある。それは娘と父親の物語。勿論それを支える内的テーマは“愛”なんだけど、どこにでもあるストーリーではつまんないなあ。僕はね、孫の杏樹をとっても可愛がっているけれど・・・その前に・・・2人の娘の志保と杏奈を、目の中に入れても痛くないほど可愛がっているのだ・・・って、ゆーか、赤ちゃんの時からメロメロで、今でも同じようにメロメロ。でも、そんなメロメロ状態をミュージカルで描いたところで誰が観るかって感じなので、一度、自分の私生活から突き放さないとな。ちょっと複雑で、飛び切り素敵な展開・・・書けるような気はするけれど、肝心の時間がない。
 こう思うのも、昨晩の楽友協会ホールにおけるマーラー第2交響曲「復活」公演が大成功に終わったお陰だろう。なにせ今の僕は、世界中の人に感謝し、愛を与えきりたい気持ちなのだから。とってもとっても自分の人生に満足し、しあわせ感100パーセントなのだから。
 さて、話を数日前に戻そう・・・。


ウィーン楽友協会


ウィーンの街
 生まれて初めてのウィーン。しかし僕は、初日から何の違和感もなくこの街に溶け込んだ。ここは様々な文化が混じり合う不思議な街。たとえばコーヒーは、エスプレッソを中心としたラテン的文化。メランジェと言われる飲み物は、何のことはない、エスプレッソに泡立てたミルクを混ぜたカプチーノ。だからイタリア文化かと思うが、melangeという言葉はフランス語で、「混じり合った」という意味。
イタリア文化ともフランス文化とも融合している。建物の感じも、いろいろが混ざり合っている。勿論それは、マリー・アントワネットをフランスにお嫁にやり、ミラノと深い交流があったハプスブルグ家の繁栄と無関係には考えられない。
 それに、人々の雰囲気が(勿論街には外国人で溢れているとはいえ)、ドイツ人ほど硬くなく、イタリア人ほどゆるくなく、日本人にはちょうどいい。街全体にゆったりとした余裕のような雰囲気が流れている。こういうところに文化というものは育つのだな。


演奏会用ポスター


 17日木曜日。ウィーンへの直行便が予定より1時間も早く午後3時半頃到着したので、なんだかんだあってもホテルには4時半過ぎに着いた。それで、荷物をほどいてから、僕と妻は早速街へ繰り出した。
 僕たちが泊まっているホテルは、シェーンブルン宮殿のすぐ脇のパークホテル・シェーンブルン。宮殿には毎朝お散歩することになり、立地条件はとても良かったが、その一方で旧市街には少し遠い。
 ホテルから歩いて2分の地下鉄4番線Hietzing駅から、旧市街の南端にあたるKarlsplatzに出て、まず国立歌劇場を眺める。それからトラムの1番線に乗って街を時計回りに半周する。王宮庭園や国会議事堂、ブルク劇場、市庁舎などをトラムの窓から眺めたら、もうウィーンを半分知った気になった。
 旧市街の時計で言うと12時の位置にあたるシュヴェーデン広場Schwedenplatzで1番線を降りる。そこから街を横切って6時の位置のカール広場Karlsplatzまで歩きながら、街を観光することにした。歩き出してすぐにレストランがあった。そこで食いしん坊な僕たち夫婦は、まだシュテファン寺院も見ていないのに、とにかく夕食を食べることにした。
 しかしながら、全くあてずっぽうで入ったのだが、なんとそのGriechennbeislグリーヒェン・バイスルという店は、1400年代から続くウィーン最古のレストランとして有名で、ベートーヴェン、シューベルト、ワーグナー、ブラームスなども通ったという。その店のテラスで僕たちは道行く人達を眺めながら、ウィーン風カツレツとグラーシュをほおばり、ビールと白ワインを堪能した。
 その後、街を縦に横切って帰ってきたが、途中国立歌劇場の横を通ったら、上演中「椿姫」を大きなスクリーンでライブビューイングとして映し出していた。結構、沢山の人達が見入っている。若者達も多い。うーん、太っ腹だなあ。でも、今はこういう時代なんだ。

 18日金曜日。朝のお散歩はシェーンブルン宮殿。その規模の大きさに驚く。ホテルからすぐのところに横門があり、そこから宮殿に向かっていくと、突然あたりが開けて、左手に宮殿、それから右手にネプチューンの泉と高台にあるグロリエッテが見える。壮大な景色に息を呑んだ。


シェーンブルン宮殿の庭

 高いところが好きな僕は、即座に決心してグロリエッテまで登っていくことにした。少し登り始めたらリスが横切った。それから約1時間の散歩の間、何匹のリスに出遭ったことか。カメラを持っていたので、なんとかベストショットを撮ろうと試みたが、人なつこいリス君達は、足下まで寄ってくるほど人なつこいのに、カメラを向けるとチョコチョコ動いてしまって、こんな写真しかありません。でも、本当に可愛かったよ。シェーンブルンのリス君達。




シェーンブルンのリス君


ハイリゲンシュタット~ベートーヴェン~マーラー
 さて、この日はハイリゲンシュタットに行くと決めていた。つまり、ベートーヴェンが難聴で苦しんだあげく遺書を書いたとされるベートーヴェン・ハウスと、彼が田園交響曲の第2楽章「小川のほとり」の構想を練ったと言われている散歩道を訪れるためだ。

 不思議だな。こうしてベートーヴェン・ハウスの中にいると、
「へえっ、ベートーヴェンって本当に生きていたんだ。それで、かつてここで食事したり作曲したり寝たり、つまり実際に日常生活を営んでいたのだ」
と思う。考えてみれば当たり前のことなんだけれど、その実在感にかえってとまどう。
 しかし、ベートーヴェン・ハウスに限って言えば、本当はあまり実在感がない。何故なら、ベートーヴェン・ハウスは、このウィーンに無数にあるのだ。というのは、ベートーヴェンは前代未聞の引っ越し魔で、このウィーンの街中だけで、なんと70回以上も引っ越ししたという。70回だよ!
 まもなく22歳になろうとする時に、郷里のボンからウィーンに移住して以来、56歳で亡くなるまでの30数年の間に70回・・・ということは平均して1年に2度以上引っ越ししなければ計算が合わない。うひゃあ・・・ばっかじゃないの?理由はいつも騒音を原因とする隣人や家主との不和であったと言われている。これで、
「全人類よ、抱き合おう!」
と偉そうに言うんだから、笑いたくなるが・・・うーん・・・笑ってはいけないのかも知れない。逆に、そうだからこそ、ベートーヴェンは「苦悩を突き抜けて歓喜」の音楽を書けたのだ。 なので、ベートーヴェン・ハウスは70もあるわけ。それぞれが、「○○を書いたベートーヴェン・ハウス」と歌っているんだけど、そう言われてもねえ・・・ここだけでもいいよ。


ハイリゲンシュタットの遺書の家


 さて、ベートーヴェンの散歩道の方がはるかに興味ある。しかし、行って見ると・・・確かに小川のほとりではある・・・うーん、その肝心の小川があまり美しくない。「田園」の第2楽章の方が全然美しい。そりゃそうだよな。音楽に現された小川は、ベートーヴェンの心象に映し出された「妙なる小川」だから。でも、その散歩道を妻とゆっくり辿っていたら、とても心が洗われる気がした。


ベートーヴェンの散歩道

 実は、その散歩道の右手側にはずっと丘があり、一面のブドウ畑が広がっている。その景色がとても爽やかなんだ。このあたりはワインの産地として有名であり、散歩道の先のグリンツィングという街は、ホイリゲといわれるワイン酒場が密集していて、特にワインの収穫のこの時期は新酒の話題で賑わっている。
 ホイリゲは、午後遅くからでないと空かないので、散歩道を歩いてグリンツィングの街に辿り着いたた僕たちは、カフェで昼食をとった。見ると、壁に「Strumあります」というポスターが貼ってある。
「おっ!」
と思った。


散歩道の脇のワイン畑

 シュトルムとは、収穫したブドウを発酵させてワインを作る途中の半発酵状態の濁ったお酒である。恐る恐る飲んでみる。う、うまい!味は、甘酒と濁り酒を足して2で割ったようだが、同時にワインの酸味や風味もあって、これまで飲んだことのない味。弱く発泡している。発酵の途中だからね。生酒なのでこの先もどんどん発酵するから、輸出などが出来ない。瓶が爆発してしまうのだ。だから、まさにこの時期に、この地でしか飲めない一期一会のお酒なのだ。
 シュトルムはこの後もいくつかのレストランや酒屋で飲んだが、どこもみんな味が違って面白かった。sturmとは嵐という意味。昔習ったでしょう。ドイツの古典派文学のあたりに起きた疾風怒濤運動というやつ。あれはSturm und Drangと言って、その疾風がシュトルムというわけ。嵐のようにやんちゃなお酒という意味か。

 さて、シュトルムを味わいながら昼食をとった僕たちには、もうひとつの目的地があった。というより、もしかしたらこの旅の間の最も重要な目的地かも知れなかった。それは、マーラーのお墓である。それがグリンツィングの町外れにあるのだ。
 まもなくお墓に着いた。僕はよく、墓地に来ると寒気のようなものが襲ってくる。でも、それは悪霊のようなネガティヴなものとは限らない。今日も、ふっと何者かが自分に寄り添ってくるような感覚を感じた。特にマーラーの墓標を探し当てた時にそれを感じた。妻は、
「どうせだからお花を添えましょうよ」
と言って、入り口にある供え用の花束を2つ買った。
「アルマにもあげようね」
マーラーの墓の反対側の少し離れたところにアルマのお墓もあるのだ。
「あっ・・・あのう・・・でもさ・・・アルマって、あんまり良い奥さんじゃなかったんだよね。男性遍歴が派手で、クリムトなんかとも関係があったし・・・マーラーの晩年には建築家のグロピウスという男と浮気をしていて、晩年のマーラーは始終それに苦しみ、フロイトの精神分析の診察も受けたということだ。実際、マーラーが死んだ後は、そのグロピウスと再婚したんだけど、彼ともうまくいかなくなって、また別の11歳年下のヴェルフェルという新進作家と再々婚したんだよ」
「あら、そんな人だったの?じゃあ、やめようかしら・・・」
「いやいや、もう買っちゃったんだから、今更あげないと、そんな女だから、今度はへそ曲げて、僕たちの演奏会に対しても、どんな邪魔をしてくるか分かったもんじゃない」
「そうね・・・」
というので、アルマのお墓のところにもお花をあげる。
「あ、やっぱり・・・墓標にはアルマ・マーラー=ヴェルフェルと書いてある。最後はヴェルフェルの妻として死んだんだから、潔くアルマ・ヴェルフェルとして別の所に葬られてくれればいいのに。なんで今更マーラーの名前を墓標に書いて、マーラーのすぐ近くにいるのさ。全く、どこまでも厚かましい女だね」
「まあ・・・アルマがそうしたというより、後でマーラーがこれだけ有名になったから、周りの人達とすると放っておけなかったんでしょうね」
「アルマ・マーラー=ヴェルフェルねえ・・・ホントはアルマ・マーラー=グロピウス=ヴェルフェル・・・・うーん・・・なんとなくマーラーって可哀相だね」
「そうね」


マーラーの墓標にて


モーツァルトの見ていた景色
 それから旧市街に戻ってきて、今度はモーツァルト・ハウスに行った。モーツァルトもウィーンの中で度々引っ越しているが、最も長く実りある時を過ごした住居が博物館になっている。日本語で案内する機器を貸してくれて、部屋毎に丁寧な説明がなされているが、すでに知っていることも多いので最後はどんどん飛ばして次の部屋に行く。後ろで妻があわてている。
 人気作曲家としてもてはやされ、経済的にもうるおっていたモーツァルトは、建物の1フロア全部借り切って贅沢な暮らしをしていた。ザルツブルグから出てきたお父さんがあきれたという。今見ると、確かに広いけれど、そうとんでもなく豪奢な館という感じでもない。それより僕には、窓から見える景色が気になった。へえ、こんな景色をモーツァルトは毎日見ながら作曲していたのか。


モーツァルトが見ていた路地

 彼の心の中から湧き出でてくる天国の調べと、日常生活とのギャップとを考える時、彼にとって一体どちらが現実だったのだろうかと思う。ともあれ、ベートーヴェン、マーラー、モーツァルトに思いを馳せた充実した1日でした。

お前にはその覚悟があるのか?
 19日土曜日。僕は午前中はホテルでスコアの勉強。マーラーの音楽がどんどん近くなってくる感じがする。でも、変な話、あまり勉強しすぎると、個々の音ばかり気になってきてしまって、かえって肝心のマーラーの理念とかから離れてしまう気もする。スコアは至近距離だけから眺めるだけでは駄目なんだ。一度離れて大きな視点から俯瞰することも大事。ドレミがドレミを超えて夢やファンタジーに飛翔しないと、スコアの勉強が完成したとは言えない。ここが難しいところ。
 お昼に街に出る。マリアヒルファーMariahilfer通りの生地屋で買い物していた妻と落ち合って、ナッシュ・マルクトと呼ばれる市で昼食を食べ、その後、そこからほどなく近い「シューベルト最期の家」に行った。残念ながらたまたま閉まっていたので、外から眺めるにとどまった。まあ、ヨーロッパの都市では、みんなアパートだから、楽聖の住居といっても特別な風情はない。 

 それから再び妻とは別れて、僕がひとりで向かった先は中央墓地であった。ここには沢山の音楽家のお墓が集まっている。その一画に入ると、再び例の寒気が襲ってきた。変な話だが、その寒気の度合いで、今の自分とそれぞれの音楽家との関係が分かる。墓標の前に立った時、一番寒気が感じられたのはブラームスであった。僕はブラームスに向かって、先日の「ドイツ・レクィエム」のお礼を言いながら祈った。ブラームスが微笑んでくれているように感じられた。


ブラームスの墓

 ベートーヴェンのお墓では、祈り始めたらそよ風が巻き起こって僕の周りを包んだ。見ると、墓に添えられた沢山の花が揺れている。勿論風のせい・・・うーん・・・揺れ過ぎない、これ?
 10月に第九とハ長調ミサ曲の演奏会を指揮する。その演奏会がうまくいきますようにとお願いするのも虫が良すぎる感じがしたので、
「インスピレーションを下さい、守って下さい!」
と心を無にして、欲を出さないようにしながら祈った。


ベートーヴェンの墓

 意外だったのは、フーゴー・ヴォルフの墓標の前でビビッと感じたこと。実は僕はヴォルフの歌曲が大好きなのだ。国立音大声楽科にいた頃、ヴォルフの歌曲を歌いたくて仕方なかったのだけれど、テクニックがなくて歌えなかった。ヴォルフはシューマンと並んでデリケートな表現が出来ないと話にならない。音大の学生など歯が立つはずがないのだ。
 でも、僕の師匠である原田茂生先生の演奏会などに行って、いつかこんなの歌えるようになったらいいなあ、とあこがれの気持ちだけ募らせていた。その内、指揮者になろうと決心し、その夢はとうとう叶わぬものとなってしまった。それが、ここにきてこんな形で出遭うとは・・・。日本に帰ったらもう一度ヴォルフの歌曲を聴いてみよう。


ヴォルフの墓


 巨大な中央墓地の真ん中に大きな教会が建っている。でも、街中のペータース教会などとは違って中の装飾は質素なのでかえって落ち着く。ふと見ると前面の上方に何か書いてある。よく見て鳥肌が立った。勿論、ここは死者の眠るお墓だもの。この言葉は当たり前あも知れないが、今の僕にとっては、
「勉強し過ぎてこのことを忘れるなよ」
と言われているに等しかった。その言葉とはこうである。
Ego sum resurrectio et vita.
(わたしは復活であり、命である)
これはヨハネによる福音書第11章25節からのイエスの言葉である。
イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか?」
 僕は知っていたのだ。このイエスの言葉の最後に「このことを信じるか?」と彼が問うていることを・・・。だから鳥肌が立ったのである。自分は一生懸命スコアの勉強をしているけれど、本当に分かっているのか?分かろうとしているのか?マーラーが必死で訴えたかったこと、すなわち、
「お前がこの世で生きて悩んで戦ったことは無駄ではなかったのだ。お前は復活するのだから」
というメッセージを・・・・?
「このことを信じるか?」
イエスが我々に向けて発した簡単な問いだ。しかし、この問いに対し、「はい!」と答えることの重みよ!僕の心よ・・・お前にはその覚悟があるのか?

ミサのありかたについて
 20日日曜日。オケや合唱団の一団は、昨日の午後から晩にかけて到着した。今日は、午後からこのウィーンでの初めての練習。しかし今日は日曜日なので、僕たち夫婦は、午前中にミサに行く。ウィーン最大の教会であるシュテファン寺院での10時15分のミサは、聖歌隊がオルガンに合わせて歌う壮麗なもの。このミサの様子は、オーストリア国営放送にて生中継されているという。
 しかし、KyrieあるいはGloriaなど、大事なミサ曲は聖歌隊が全部歌ってしまう。会衆は聴いているだけ。確かに、一般の人がとても歌えない高レベルな多旋律の楽曲を、指揮者に合わせて聖歌隊は見事に歌う。旅行者がお客様として一回くらい味わうのは悪くない。シュテファン寺院は立派だし聖歌隊は上手・・・でも、もし自分がこの小教区の信者だったとしたら、どうなんだろう?
 ミサに参加した気がしなくて欲求不満になるに違いない。だから、かつてマルティン・ルターは、簡単なコラールを作って一般会衆にも歌えるようにして、会衆がミサに自分から能動的に参加しているという意識を強めたかったわけだ。
「行きなさい、主の平和の内に」
「神に感謝」
 この後、日本では閉祭の歌が歌われる。しかしここでは閉祭の歌はない。まだ司祭団が動き出さない内に、オルガンが派手に「追い出し」の曲を奏でる。一般会衆は、司祭団を見送ることなく席を立ち、知り合いと話を始め、どんどん帰って行く。たしかにミサというものは「派遣の祝福」で終わるとされているので、教義的には閉祭の歌は必要ない。うーん・・・でもさあ、やっぱり司祭が完全に退場するまで見送りたいというのが日本人的心情だよね。
 僕は思ったね。こうした素晴らしい教会で素晴らしく響き渡る音楽に触れて「素晴らしずくし」なんだけど、こうした中にいると、信仰しているような気分にはなるけれど、本当の信仰は育たないんじゃないか。ここで聖体を拝領して元気をもらったような気になるのは錯覚ではないか。
 豪奢な大寺院の中に湧いたかすかな疑問。勿論、信仰はひとりひとりのもの。自分は自分なりの祈りがミサの中で出来たからいいんだけど・・・。

初日練習~難題山積み
 さて、いよいよ練習が始まった。もう観光気分ではいられない。練習は楽友協会の建物の地下3階グラスホールで行われた。この演奏会にはリスクがいっぱい待っている。まず、チェロとコントラバス及びコントラ・ファゴットなどの大型の楽器は、全てこのウィーンで借用することになっていたが、たとえばレンタルのチェロは、体の大きいヨーロッパ人に合わせて、指板から弦までの高さが高く、強く指で押さえないと音程も決まらないし音自体も出ないという。チェロ団員達が、うわあ、これに慣れないといけないのかと悲鳴を上げている。
 2人のハープ奏者と、第5楽章の大量のバンダ奏者(舞台裏の打楽器、トランペット、ホルン奏者)もこちらで調達。その他にもヴィオラ、チェロ、コントラバス及び打楽器などにもエキストラが入った。みんなヨーロッパ人。予想した通り、曲のことをよく分かっていない。僕たち、熱い想いを抱いてわざわざ日本から来たマーラー・プロジェクト・オーケストラの団員との温度差はいかんともし難い。しかし、これをなんとかしないことには先に進めない。2人のチェロ奏者の若いお兄さん達なんてほとんど音を出していない。
 気がついたら僕は、2人のハープ奏者の女性が、入りを間違えたり落ちたり変な音を出す毎に止めて、ドイツ語で、
「ハープさん、また落ちましたよ」
などと、かなり厳しい口調で直していた。相手には怒っているように見えただろうから、なんと生意気な日本人と思っただろうが知ったことではない。

 バンダにははっきりいってかなり手こずった。合唱の最初の入りの直前の、拍子もテンポもフリーになる箇所がある。ここは事前に勉強してきて、オケ中のフルートとピッコロ、あるいはバンダ同士のトランペットとホルンとの関係が分かっていないとグチャグチャになるだけだ。案の定、彼らは手ぶらで何の用意もなく来た。あはははは・・・・ったくよう!
 僕はドイツ語で根気よく説明し、何度も何度も繰り返した。やる毎に誰かが間違う。特に3番トランペットの若い男の子がトロくて、これには同じトランペット仲間も、
「お前なあ・・・いい加減にせえよ!」
という感じで、コヅかれながらやっていた。
 そのせいで、初日のオケ練習は、第5楽章のバンダと合唱の近辺の練習に終始してしまい、全曲通らなかった。やむをえない。優先順位をつけて必要不可欠なところから攻めていかないと、本番が出来ないからね。

 一方、合唱は、合唱指揮者の奥村泰憲(おくむら やすのり)さんが、僕のオケ練習と平行して、男声を中心とした大量のエキストラと日本から来た人達との合同合唱稽古をつけていた。奥村さんは、現在僕がやっている東京バロック・スコラーズでも指導をお願いしているが、ウィーン生活が長く、彼がかつて所属していたシェーンベルク合唱団から大半の男声エキストラをお願いしてくれた。
 日本全国から公募した日本人合唱団と、この現地エキストラとの響き合わせには、奥村さんも大変苦労したと思われるが、そのお陰で、オケ合わせの時の合唱団の響きは、日本で練習していたのとは見違えるようになった。
 マーラーはバス・パートに低音部記号の下の加線2本の下のBフラットまで書いている。そんな低い音など、体も声帯も小さい日本人には誰も出ないが、その超低音までしっかり聞こえたのには驚いた。
 人選も含めて奥村さんに頼んでおいてよかった。また平行して稽古を組んだのがよかったね。僕は何でも自分でやりたがる性格だけれど、オケも合唱も、エキストラとの調整を含めた練習を全てひとりで引き受けたら、体がいくつあっても足りなかった。やはり合唱は合唱指揮者に任せるのが一番!って、ゆーか、いつも反対の立場で合唱の責任を負っているのは、他ならぬ僕だからね。


グラスホールでの練習


 稽古をつけながら、僕はバイロイト時代の合唱稽古を思い出していた。音楽の練習で使うドイツ語は、日常会話とは随分違うが、ドイツ語での練習が何の苦もなく出来たのは、勿論ベルリン留学時代が基礎になってはいるものの、バイロイト時代の5年間のたまものである。
 違うのは、日本人との混成メンバーなので、ドイツ語だけだと日本人が分からないため、両方の言葉で稽古をつけないといけない。しかし、一度頭がドイツ語回路に入ってしまうと、今度は日本語が出てこなくなる。たまりかねて、ドイツ語をしゃべれるEsクラリネットの団員が(彼女は、かつて僕が京都教育大学で指揮法の集中講義をやった時の生徒)、僕のドイツ語を団員向けに日本語に通訳してくれた。これはとても楽。しかしね、これでは自分がドイツ人になったみたいだね。

 21日月曜日。練習2日目。昨日とは見違えるようにオケがまとまってきた。オケ中のエキストラ達も徐々に音を出してきた。さすがに彼らも、これはちゃんとやらないとヤバイと思ってきたようだ。ハープ奏者は相変わらず時々落ちている。何カ所は、僕がアインザッツを出さないと絶対に出てくれない。でもきちんと出来た時には良い音を出している。元来は良い奏者である。ただちょっと日本人をナメてただけだな。
 バンダもだんだん合ってきた。うまく出来た時には、指を立てて、
「グート!」
と言ってあげる。すると、
「イェーイ!」
と喜んでいる。イェーイじゃねえよう。最初からちゃんと勉強して来いっちゅーの。
 日本人オケの団員達は、ここがウィーンの楽友協会の内部だというだけで興奮し舞い上がっている。時々ガリガリ音を出すので、
「そんなに頑張らないで、楽友協会のホールをイメージして、もっと楽に美しい音を響かせようね」
と言う。そう、いたずらにテンパッていないで、今の僕達は、良い意味で“ウィーン風”を学ばないといけない。余裕のある包容力のある音。それがウィーン風。


前川依子さんと


そして本番の日がやってきた。

楽友協会ホールに入る
 初めて入る楽友協会黄金の間(大ホール)。キンキラキンであることをのぞけばただの箱。床板は古く、譜面台も素朴な木製。勿論指揮者用譜面台も同じようにとても素朴なもの。指揮者楽屋に案内される。
 うわあっ!この楽屋にカラヤンやベームなど歴代の巨匠が入って出番を待っていたんだね。ベーゼンドルファーのグランドピアノが置いてある。弾いてみた・・・ウッソー!・・・夢見るようなしなやかな音!こんな素晴らしいピアノでなんと「おにころ」の「神流川」を弾いてしまった。このバチあたりが!


指揮者楽屋

 ゲネプロは朝の10時から午後1時まで。観客のいないホールの響きはオペラシティよりももっとお風呂場状態。ただ、オケのメンバーにとっては、お互いの音を聴き合うのは決して難しくはない。ホール全体のつくりがシンプルな箱形なので、音は複雑な飛び方をするわけでないので、とてもやりやすい。
 バンダは、いろいろ試行錯誤した結果、舞台裏ではなく、後方の「立ち見席」に配置して、直接見ながら演奏してもらうことにした。距離があるので遅れがちになるが、サウンドチェックで懇切丁寧に(というか威嚇的に)、もっと棒に合わせて早く吹くように指示して、合ってきた。

垣間見たウィーン・フィル・サウンド
 ゲネプロが終わって、僕は一度ホテルに戻ったが、午後7時半から始まる本番までの間に、なんとウィーン・フィルの練習が入るという。なんていう時間の使い方!練習なので、舞台の設営を完全に変える必要はないが、ウィーン・フィルが練習出来るようには変えなければならない。つまり僕達の打楽器奏者達は、練習後本番までの間にセッティングを二度行わなければならない。
 ホテルから5時にバスが出た。楽友協会ホールに着くと、舞台ではまだ練習していた。モーツァルトの交響曲第39番変ホ長調の第4楽章。指揮者はエッシェンバッハ。本当はいけないのだが、客席後方の立ち見席の入り口から間違って迷い込んだフリをして、妻と2人で盗み聴きする。なんという音!クラリネットなんて夢のようなサウンドで弦楽器と溶けあっている。なあるほど・・・このホールあってウィーン・フィルのサウンドありなのだな。ほんの10分ほどで練習が終わったけれど、とても貴重な体験をした。

いよいよ本番
 さて、いよいよ本番の時がやって来た。ホールの響きは、ゲネプロとはガラリと変わった。聴衆が適度に音を吸収して、ちょうど良い残響になったのだ。最初の弦楽器が出た瞬間、ゲネプロほど響かないのであせったが、曲が進んでいく内に、響きすぎないので内声がクリアに聞こえるし、舞台上のアンサンブルがゲネプロよりももっとし易いことに気付き、安心した。さらに、ここで作り上げてまとまった音が、客席に飛んで行くのが見えるようで、ああ、やっぱり良いホールと絶賛されるだけのことはあるなと思った。

 オケのメンバーはとても集中している。一方、僕の方は、自分で振っているというよりも、音楽が勝手に流れていくように感じられる。勿論僕は、現実に響き渡るオケよりもワンテンポ早く振り下ろしていくのであるが、振り下ろした瞬間には、もうその次に実際のオケがどのような音で鳴るのかが分かっており、そして実際その通りになる。うーん、これって当たり前のようだけど、かなり霊能者的なんだよ。つまり、2つの時を持つ僕とオケとは、それらを包み込む大きな音楽の流れの中にいるということだ。

 僕は、腰を浮かせんばかりにフォルテを弾くイカれたコンサート・マスターのピロシ君が大好きだ。第1楽章382小節で僕の眼の合図に「はい、分かりましたよ」と少しだけ微笑んで見つめ返してくる第2ヴァイオリンのUさんが大好きだ。タイミングを決して逃すまいと挑むようなまなざしを向けてくるチェロのTさんが大好きだ。
 ちょっと辛そうな顔をしてフルートを吹くKさんや、左右に体を振って楽しそうにクラリネットを吹くWさんや、ガッツなまなざしのトランペットのHさんや、ちょっと体を傾けてやさしいお姉さんのように(しかも確実なタイミングと適切な音で)第2ティンパニーを叩くSさんや、なんと客席後方のバンダと掛け持ちしていて演奏中全速力で舞台を走る北海道から来たパーカッションのお兄さんなど、みんなみんな大好きでたまらない(ごめんね、特にコメントしなかった全てのみなさん、ガッカリしないでね)。合唱も、全国から集まったので、名前と顔が一致しない人が多いけれど、本当にみんな大好き!僕は、一緒にやってくれるプレイヤー達全てをたまらなく愛している!愛さずにはいられない!
 みんなみんなこのウィーンの地に集結して、心をひとつにしてマーラーの音楽に向かい合っている。オケも合唱も日本全国から公募したまさに一期一会の団体なのだが、こんなかけがえのない仲間達と一緒に演奏出来るなんて、なんて素晴らしいことなんだ!僕は、なんてしあわせな人生を送っているのだ!

 第4楽章に入って、三輪陽子さんが深い人類の苦悩と、暗闇の中に灯をともして生きようとする密やかな決意を語る。派手ではないけれど、内面的なものを表現できる良い歌手だ。そしていよいよ第5楽章に突入した。悠久の時を感じる壮大な音楽。啓示的な金管楽器のコラール。それから、苦悩の滅却を望んで、強く人生を生き抜いていこうとする勇壮な行進曲。曲は快調に進んでいく。
 さて、合唱が入ってくる前の、最も難しいバンダの個所にさしかかった。あの何度も繰りかえした練習が実って、客席後方のバンダと舞台上の演奏者とのコンビネーションがピッタシ決まったぞ!そして合唱が入って来た。僕がこだわって何度も何度も繰り返し練習した箇所。ほとんど地の底から響いてくるいいようのない呻きともつかない声。最初のaufersteh'n(よみがえる)のテキストは聞こえなくていいんだ。だが次のJaと、もう一度繰り返すaufersteh'nは、
「なんだあの響きは一体?どうやら『よみがえる』と言っているらしいぞ・・・」
と認識されなければならない。いいぞ・・・その調子。
 ブリリアントな豊嶋起久子さんのソプラノと、三輪さんの、ソロやデュエットが合唱とからみながら、曲がどんどん進んでいく。

そしてやってきた大いなる存在

Mit flugeln, die ich mir errungen, werde ich entschweben.
(翼を得て我々は飛翔していくだろう)
 最後のフーガが始まった。曲はクライマックスに向かってどんどん盛り上がっていく。
Sterben werd' ich um zu leben.(生きるために死ぬのだ)
のところにさしかかった時、突然僕の眼前に、あの中央墓地で見た、
Ego sum resurrectio et vita.(わたしは復活であり、命である)
という言葉が啓示のように見えた。イエスが僕に問うているのを感じる。
「このことを信じるか?」
僕は何の躊躇もなく、心の中で、
「はい!」
と言った。ここまで素直に信じられたのは生まれて初めてかも知れない。どこまでもイエスについて行こうと思った。この上なく従順な自分がいた。この上なく自由で、満たされた自分がいた。
 オルガンが加わる。合唱がaufersteh'n, ja, aufersteh'nと高らかに歌うとトゥッティのオケが大音響で支える。楽友協会ホールそのものが響きで満たされた。マーラーが意図した音の洪水。
 その時だ、何ものかが僕の中に降りてきた。まばゆい光を放っている存在。この作品を世に産み出した創造の火花が僕の内部で炸裂し、僕とその存在とが重なった。僕の体全体が透明になった。その状態は曲が終わるまで続いた。これを言ったらみんな笑うだろうが、僕は今でもそれはグスタフ・マーラーその人であったと信じている。

 ラスト数小節。鐘が全地に響き渡り銅鑼(どら)が世界にこだまする。いつまでも続くように思われる変ホ長調の音の洪水。しかし、それは突然断ち切られる!

沈黙・・・・

長い・・・・

長すぎる・・・・

 それから拍手が起こった。同時にブラボーの響きが沸き起こった。何人かが立ち上がってスタンディング・オベイションをしてくれた。はっと我に返った。終わったとはまだ信じられなかった。しかし例の存在はいつしか僕から離れ、僕はいつもの僕に戻っていた。終わった・・・・。終わったんだ、この凝縮したひとときが。この充実した一刻一刻が。何もかも一瞬にして終わってしまった。
 見ると、オーケストラのメンバーも合唱団もソリスト達も、みんなとっても良い顔をして輝いている。みんな、本当に持てる力を全て出し切ってくれたね。みんな、最高の仲間だね。僕はみんなを誇りに思うぜ!世界中どこに出しても恥ずかしくない団体・・・・って、ゆーか、もうウィーン楽友協会に出しちゃったんだから恥ずかしいはずがない。
(事務局注 2021リニューアル時に追加)
 後で聴いた話だが、ウィーン楽友協会の常連客は、このホールの最後の残響が消えるまその響きを楽しむので、「復活」交響曲のような最強音で叩き付けるように終わる曲でさえ、即座に拍手をしたりしないんだそうだ。打ち上げで僕たちは楽員達や合唱団員達とその話題について話したが、みんな口々にこう言っていた。
「終わってしばらく拍手が来なかったから、どっちなのかなと思いましたよ。これでブー!が来たらどうしようか・・・・と」

 そうね、僕もちらっと脳裏にかすめたけれど、アマチュアとはいえ、これだけ充実した演奏して、もしブーなんか言ったら、僕はウィーンの聴衆の良識を疑うね・・・なんちゃって。
今だからこんな傲慢な意見が言えます。


仕掛け人達と打ち上げ


 それにしても、さっきの何かが降りてくる体験!僕は特にバッハの演奏会をする時、これまでにもよくあるだけれど、今回は、それらの経験の中でも最も強い光であった。これをみなさんは笑ってもいいのだけれど、言っとくけど、僕の中では本当に本当にリアルなんです。みなさんも一度でもその体験をしたら、もう神様というものを信じずにはいられないと思う。
 あるんです。人知を超えた大きな力が。それが生命を産み出し、そして芸術も産み出しているんです。そしてこの「復活」交響曲も産み出し、その演奏の最中にもパワーを送ってきているわけです。だから芸術とは、人が日常を離れて、生命の根源に触れる、人間にとって大切な大切なイニシエーションなのだ。

 ウィーン、素晴らしい街・・・といってもどこにもいかなかったけれど、いいのである。僕はもうウィーンを内的に知ったのだ。それにウィーン風カツレツも、ハンガリー・グラーシュも、ターフェル・シュピッツも、ザッハ・トルテも、ちゃっかし食べているのだ。また行きたい。今度は純粋に旅行に行って、楽友協会にはウィーン・フィルの演奏会を聴きに、そして国立歌劇場にオペラを観に行こうっと!


!打ち上げ会場にて全員集合!

愛知祝祭管弦楽団 「ウィーン公演」紹介ページへのリンク
(事務局注 2021リニューアル時に追加)



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