ああ、ベートーヴェン!

三澤洋史 

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「ナディーヌ」合唱団員大募集
 来年の8月27日(土)28日(日)に、駒込にある聖学院講堂で行われることになったミュージカル「ナディーヌ」の合唱団員を募集している。この10月から練習が始まり、12日の月曜日には、僕が指導に行き、そのままキックオフ・パーティーを行った。

 ミュージカル「ナディーヌ」は、僕のミュージカルの中では最も新しい作品である。2004年に国立芸術小ホールと群馬県高崎市の新町文化ホールで初演された。この作品の台本作成及び作曲は、僕がバイロイト音楽祭で働いていた時の公演の間を縫って行われたが、その構想のきっかけは、ある事件による。
 あれは2002年だったと思う。バイロイト音楽祭の合唱練習は毎年6月20日から始まると決まっている。僕は、その前に、留学中の長女志保のいるパリに寄ってからバイロイトに向かって飛ぼうと決めていた。ところが6月19日の朝の飛行機が、あろうことか空港のストライキで飛ばなくなってしまったのだ。
 もしかしたらストが途中で解除して、飛行機が飛んだら、どの便でも乗せてもらおうと淡い期待を抱いて空港に詰めていたが、どうしても飛ばないと分かったのが午後であった。今から列車に切り替えても、もう今日中にバイロイトに着くのは不可能だ。
「練習の初日に遅刻!」
僕は落胆しながら、バイロイトの事務局に電話をかけて詫びた。一方、志保の方は、ピアノ科の試験の直前だったので、僕は彼女のアパルトマンに戻るのも気が引けた。そこで、空港からホテルを予約した。そのホテルは、モンマルトルの丘のすぐそばにあった。
 夕暮れ時、失意の内にモンマルトルの丘に登り、眼下に広がるパリの街を眺めた。昼間の観光局で溢れる賑やかな丘の風景とは打って変わって、そぞろ歩きする恋人達が夕映えの空に映し出されていた。街には次第に灯がともり、パリは夕暮れの中に沈んでいく。
 その時、ふとひらめいたのだ。このモンマルトルの丘で悲しい別れをする恋人達の物語を書こうと・・・。出来上がったものは、人間と人間とが、かけがえのない出遭いをするということはどういうことか?人間と人間は、果たしてかけがえのない関係を築くことが出来るのか?といったテーマを内包する純愛物語になった。
 今、来年の上演に向けて台本を書きかえている。初演版は、「おにころ」よりも30分も長く、正味で3時間かかるので、少なくとも「おにころ」のサイズにしたいし、無駄なところもあるような気もしたのだ。ところが再び台本と向き合ってみると、なかなか良く出来ていて、そう簡単には削れない。作品としては「おにころ」よりも数段洗練されているのだ。

 それで、みなさん!今からでも遅くないので、この合唱団に是非入って下さい。歌も踊りもお芝居もありますが、歌が得意だけど踊りはちょっと・・・とか、その反対に、踊りは得意だけど・・・歌はちょっと・・・とか、いろんな人がいていいです。毎週月曜日の夜に練習。
詳しくはホームページの「ナディーヌ」の項をクリックして詳細を確認してね。
絶対に楽しいからね!
では、みなさん、連絡を待ってるよ!

今日この頃
 志木第九の会の演奏会が終わって放心状態・・・といいたいところだが、明日から京都に行くため、のんびりもしていられない。普段からよくやっている演目が並んでいるけれど、それらの曲をオケで指揮するのは久し振りなので、もう一度スコアをよく読み込まなければならない。
 でも、この京都市交響楽団との「オペラ音楽セレクション」が終わると、7月から続いた「嘆きの歌」演奏会、「おにころ」公演、ラインベルガー「ミサ曲ヘ長調」、ウィーンにおける「復活」演奏会、帰国後すぐの長い文化庁の演奏旅行、そして志木第九の会と続く“怒濤の還暦プログラム”がひとまず終了し、新国立劇場内に戻って本来の合唱指揮者業務に戻る。
 でも、なんて楽しい人生!マーラー、自作、ベートーヴェン・・・それにミサ曲の演奏。自分のやりたい事を職業にし、その中で最も自分がやりたい曲を演奏する喜び!そういう意味では、人生長く生きるもんだね。

ああ、ベートーヴェン!
 10月18日に、埼玉県和光市市民文化センター サンアゼリア大ホールで行われた、志木第九の会第17回 定期演奏会。
ミサ曲ハ長調 作品86を指揮していて、ミサ曲なのにこんな楽しくていいのだろうかと思っていた。いやいや、わざわざミサだからといってつまらなく演奏する必要もあるまい。ベートーヴェンの音楽の中には案外ユーモアがある。よくいるけど、笑い顔ひとつ見せないで、ふっとユーモアを言う人。そんな人だったのかも知れない。怒りっぽくて、女中をすぐクビにした逸話には事欠かないのだけれど、音楽の中には、その人間の真実の姿が現れるものだ。

 特にCredoの、それぞれのテキストにつけられた音楽がウケる。

et ex Patre natum ante omnia secula
そして、全ての世に先立って父から生まれた
の個所では「全ての」の意味のomniaが何度も繰りかえされる。「全ての」には、そんなに繰りかえすような特別な意味はないだろう。
crucifixus etiam pro nobis sub Pontio Pilato
わたしたちのために、ポンツィオ・ピラトのもとで十字架にかけられ
というシリアスな場面でも、基本はシリアスに作曲はしているものの、「ポンツィオ・ピラトのもとで」につけられたリズムは、まるでおちょくっているのではとも感じられる。その後の、
passus et sepultus est
苦しみを受け、そして葬られ
では、悲劇性を強調しようとするあまり、大袈裟すぎて笑える。
まあ、このあたりに関しては、ユーモアではなく、ベートーヴェンは大真面目で取り組んでいるのだけれど、出来上がってみたら、そうなってしまったのだろうな。

 こんなことを楽しみながら指揮していたら、あっという間に終わってしまった。このミサ曲を依頼したのは、長年ハイドンを召し抱えていたエステルハージ侯爵。有名なベートーヴェンだから素晴らしいミサ曲を作ってくれると期待していたのに、あまりに型破りな曲が出来てきたのに激怒したそうな。それで、1807年9月3日アイゼンシュタットの侯爵の城で演奏されたきり、ベートーヴェンの生前には2度と演奏されることがなかった。
 勿論、ワーグナー、マーラーなどの音楽さえすでに過去のものとなっている現代の我々の耳からすれば、怒るほどのものではない。むしろ、その中に潜む独創性や革新性の方に焦点がいく。でも、モーツァルトのミサ曲のようなつもりで臨むと、本当に驚きの連続だ。

 独唱者の選択に関しても、極端に言うと、ヴェルディのレクィエムを歌える表現力を持つ人材を連れて来ないと務めきれない。スコアの外見だけで判断して、古楽系の歌手など連れてきたら大変だ。だから、今回のように第九とカップリングで、第九用の歌手をそのままハ長調ミサ曲にあてはめたのは理にかなっているのだ。
 それにしても、これまた手前味噌になるけれど、今回のソプラノ=黒澤明子、アルト=松浦麗、テノール=岩本識、バス=大森いちえいの人選は、我ながらちょっと自慢したい。全員新国立劇場合唱団のメンバーで、普段から一緒にアンサンブルしているので、ベネディクトゥスの重唱などは夢のように美しかったし、第九の独唱者達のアンサンブルなど、普段みんなそれぞれが「あっち向いてホイ」なので合ったためしがないけれど、あんなに美しくハモったでしょう。
「へえ、第九って、こんなにきれいな曲だったのか」
と思った聴衆も少なくなかったのではないか。それでいて、さっきのCredoのpassusのくだりでは、大森さんといい黒澤さんといい、パーンと張りのある声で合唱を先導する。この表現力はオペラ歌手でないと無理。

 そんな人材なので、Sanctusの冒頭は思い切ってソリスト達の重唱にしたり、Agnus Dei の後半でも、初演の時にやったように重唱にして合唱と交差させた。さらに、全曲の終わりで、冒頭のキリエの音楽に回帰して静かに曲を閉じるのだが、ソリスト達にも、合唱団に混じって一緒に歌ってもらった。こうすることで、ミサを全員の一致の中で終了することが出来た。こうした配慮に快く応じてくれるのも、通常の仲間だから成し得ることである。

 さて、第九では、僕の演奏は以前と大きく変わった。きっかけは、ハ長調ミサ曲とのカップリングなので、あまり重たく演奏しすぎないようにしようという配慮から始まった。そこで、僕はもう一度自問自答してみたのだ。自分はこれまで誰から影響を受け、どのような演奏を目指していたのか?そして、それは果たして自分の演奏として本当にふさわしかったのか?
 すると、ひとつの事実が浮かび上がってきた。実は、僕の第九演奏の中には、フルトヴェングラーの亡霊がいたのだ。つまり、バイロイトのフルトヴェングラーのような演奏をしたいという欲求が僕の内部に巣くっていたのであるが、現在の僕には本当のところ、ちょっと合わないのである。
 そこで、テンポの設定から始まって、くる日もくる日も、どういう第九をしたいのかという検証が始まった。これまでの僕は、随所でテンポの変更やリタルダンドあるいはアッチェレランドを行っていたが、もともとベートーヴェンのスコアには何の指定もないので、全てを取り去ってみた。すると・・・ホントだ・・・結構なしでいけるじゃないの。たとえば、展開部から再現部に戻る時、音楽はティンパニーが連打するクライマックスとなるが、ここに入るときのリタルダンドを取って、完全にインテンポで入ってみた。うーん・・・こっちの方が緊張感があっていいぞ!こんな風に、僕の新しい第九の構想がかたまってきた。
 東京ニューシティ管弦楽団は、これまで何度か僕と第九をやっていたので、初回のオケ練の時に、ここで彼らは自然にリタルダンドをかけてクライマックスに突入した。僕が練習を止めて、
「すみませーん、インテンポで入ります」
と言ったら、あれっという顔をされた。

 結果的に言うと、たとえば第1楽章は、「なにか壮大な世界のはじまり」というよりか、いわゆる通常のベートーヴェンの交響曲の第1楽章アレグロという感じで仕上げることになったが、かえって緊張感と推進力が増し、引き締まった演奏になったと思う。こんな風に、全ての楽章に自分なりに新しい風を吹き込み、僕の内部では、まるで生まれて初めて第九を振るような新鮮な気持ちで演奏できた。かえって、こっちの方がベートーヴェンが喜んでいるように僕には感じられた。

 終わって、いろんな人たちが僕を訪れてくれたが、
「ハ長調ミサの冒頭から第九の終わりまで、ひとつにつながっていた感じがしました」
という意見が最も嬉しかったし、それはみんな感じてくれていたようだ。

 ウィーンの中央墓地のベートーヴェンのお墓を訪れた際、僕の目の前で揺れていた花たちよ。君たちは、もう今日の演奏会の成功を知っていたのだね。そう・・・僕も、あの時、すでに感じていたのだ。これが具体的にどんな演奏会になるのかは分からなかったけれど、きっとこれまでにない「かけがえのない演奏会」になるであろうという予感を・・・・。
僕の“怒濤の還暦プログラム”の全ての演奏会に、なにかこの世ならざらぬ力が働いている。それは、これで終わるわけではなく、これからもっといろんなことが起こってくるような気がする。

そして・・・この予感は・・・必ずあたる!

角皆君の「2016年のスキー」
 白馬五竜スキー場を根拠地として、日本でも珍しいフリースタイル・スキー専門の学校「エフ-スタイル・スクール」でキャンプやレッスンを行っている角皆優人(つのかい まさひと)君が、2016年のレッスンの方向性をまとめた本をKindle(キンドル~電子書籍)から発表した。
 僕も、今年の年末にまた家族で白馬に行くことに決めており、その際に彼から個人レッスンを受けることになっている。勿論、個人レッスンとなると、個人の力量やタイプに合わせてフレキシブルに対応するわけであるが、その前に彼自身が、自分の方向性を決めていてそれを発表しているのは、こちらとしても理解しやすくて良い。
 一昨年も「2014年のスキー」を発表していた角皆君であるが、彼の中ではスキー技術そのものに対する大きな路線変更は起きていない。ただ、キャンプのクラス分けの仕方に変化が見られるのと、説明の仕方がより丁寧になっている。

 たとえば、コブを滑るのにスライド・ターンとバンク・ターンの両方からアプローチしていくけれど、その両者は、どちらがより良いというものではない、という説明はとても分かり易かった。
 基礎スキーヤーには、スライド(スキーをずらす)に抵抗を持つ人が少なくない一方で、モーグルスキーヤーにはバンク・ターンのような深く丸い弧を嫌う人がいる、というくだりは、僕にはちょっと目からうろこであった。
 僕自身は、やっと昨年あたりからバンク・ターンを習い始めたところで、きっと2年前だったら彼の言うことは何一つ理解出来なかっただろうな。ゆっくり滑る場合、スライド・ターンの方がバンク・ターンよりも易しく感じられる。バンク・ターンはどうしてもある程度スピードが出てしまうから、初心者にはバンク・ターンの方が上級に感じられるのだ。でも、スピード・コントロールが容易なスライド・ターンは、逆に精度を高めていけば、モーグルのワールドカップくらいまでそのまま使えるテクニックなのだ。
 実際にソチ・オリンピック女子モーグルの上位入賞者は、スライド・ターンを基本としていた。しかしながら彼女たちの滑りは、とてもスライドしているようには見えない。その点についても彼は言及している。つまり、「スピードアップしたなら、自然にスライド幅が狭くなり、カーヴィングに近くなる」ということである。
 彼のレッスンを受けたりキャンプに参加しない人でも、スキーに興味ある人には、読むことを薦めます。世の中にはスキーに関する様々な本が出回っているし、頭でっかちな僕は、かなりの数を網羅しているけれど、どうもアスリートの出す書籍は、本人の体感と経験論を主にしているからか、よく分からないものが多い。その点では、角皆君の場合、経験論と知的判断力及び分析力の両面に優れているので、言っていることがスーッと理解出来る。

 この本で驚いたことがひとつある。それは、スキーの本なのに、巻末のエッセイ「東京オリンピックの周辺事情から」では、エンブレムの問題から始まって、阪神大震災の際の高速道路の倒壊による安全神話の崩壊、姉歯建築士などの耐震強度偽装など、日本人の様々な倫理観の喪失が語られていることだ。タイムではなく、点数で評価されるフリースタイル・スキーの中でも、ジャッジの不正や判断の間違いなどにも触れているし、タイムを競う競技の中ですら起きている、あり得ないような「疑惑」にも触れている・・・。
 こうした情けない我が国の状態が、どうして生まれてしまったのか。その原因に関して、彼は、終戦直後からアメリカによって行われたWar Guilt Information Programの存在も影響していると説く。

これは日本人の心から誇りや信念を奪い、代わりに悔悟の念を植え付け、日本人を骨抜きにしようという計画です。
(本文より)
 また、現代の平和憲法をめぐる様々な論争には根本的な矛盾点があるとも彼は言う。
もう少し政治について突っ込んで考えてみると、日本のすべての政党にごまかしがあるようにも思います。
いくつかの理由を挙げてみましょう。
まず、保守と呼ばれる政党が改憲派であること。そして、左翼と呼ばれる政党が護憲派であること。この組み合わせは理としておかしいです。
次に、改憲派が安保推進派であること。護憲派が安保反対派であること。これも矛盾しています。なぜなら、平和憲法と安保はセットで成り立っているのですから。
 こ、これは・・・スキーの本を超えている!まあ、最後には、こう言って終わっているので、つじつまは合っているけれど・・・。
自ら選択し行動できる人間の時代を、わたしたちは創造しなければなりません。
そんな時代に、容赦なく過酷な選択を迫られるコブ斜面こそ、みなさまにとって絶好の修行の場所となるのではないでしょうか。
 うーん・・・言っていることは、ほとんど僕には理解出来るし、良く白馬などで2人で語る話題でもある。でも、凄いな。勇気あるな。これからレッスン受ける人たちがこれを読むんだものな。
 スキーに興味のある方は、白馬でエフスタイルのレッスンを受けない方でも読んでみて下さい。いろんなことが頭の中で整理されると思うよ。僕も何度でも読んで、心して彼のレッスンを受けるようにしよう。



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