京都の「オペラ音楽セレクション」無事終了

三澤洋史 

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京都の「オペラ音楽セレクション」無事終了
 10月18日日曜日の「志木第九の会演奏会」の余韻に浸る間もなく、すぐ京都の演奏会のスコアとにらめっことなった。とはいっても、19日月曜日は、午前中に先週号の「今日この頃」を仕上げ、午後は新国立劇場で尼崎「蝶々夫人」の立ち稽古。夜はカテドラル(関口教会)に行って、来月のミサで使う聖歌を決める会議に出席した。スコアを読むことが出来たのは、午後の立ち稽古と夜の選曲会議の間だけ。それで20日火曜日の朝から京都に向けて出発だったから、たっぷり時間があるとは決して言えなかった。
 それでもね、京都のプログラムは、みんな一度はやったことのある曲ばかりだったし、新幹線の中というのは、僕の場合、とても集中して勉強が出来るので、京都に着いた時は、
「ようし、これで大丈夫!」
という感じにはなっていた。

 京都市交響楽団の練習場は久し振り。びわ湖ホール専任指揮者として若杉弘さんの元で、「ドン・カルロ」「群盗」「ジョヴァンナ・ダルコ(ジャンヌ・ダルク)」のアシスタントをやっていたので、当時は毎年来ていたのだ。その随分前の90年代の中頃、京都教育大学の主催で、指揮者として第九のコンサートを振ったことがある。でもその時は、まだこの練習場ではなかった。
 練習を始めて見て驚いた。メンバーが随分若返っていて、記憶の中の京響とは別のオケのよう。考えてみると、びわ湖ホールの専任指揮者を辞めたのは、2001年秋に新国立劇場合唱団指揮者になった時だから、もう15年くらいご無沙汰なのだ。そりゃあ若返るに決まっている。
 でも、若返っただけではない。先日の群馬交響楽団もそうだったし、在京のオーケストラみんなそういう傾向があるけれど、一皮むけた感じ。音符を弾く能力には、昔と今とでそう大きな違いはない。でもサウンドが違う。音量を出すために頑張りすぎた硬い音は影をひそめ、しなやかな美しい音になった。
 そのせいもあって、同じダイナミックスでも様々なサウンドが可能になった。たとえば、突き刺さるような鋭いフォルテから、深みのある柔らかいフォルテまで、あるいは、軽くてコケティッシュなピアノから、あたたかくて柔らかいピアノまで、表現の幅が格段に広がったのだ。
 若い人達をとりまく音楽的環境が変わって情報量が増えたせいかも知れないし、留学する人や、向こうとこっちを自由に行き来する人が増えたせいかも知れない。なによりも、総合的な意味での音楽的能力がより高くなってきていて、あらゆる面でインターナショナルになってきている。実際、チェロやトランペットのトップ奏者には外国人の顔が見える。

 さて、オペラの曲は、やり慣れないと難しい。まずテンポの変化が多い。曲によっては毎小節違ったりもするけれど、楽譜には何も書いていないことがしばしばだ。こういうのはトラディションと呼ばれる。
 その中でも、歌手の能力を披瀝するために行われるトラディションには要注意。何故なら、こういう箇所では、イニシアチブは歌手にあるので、そのテンポの揺れ幅も、最高音を伸ばす長さも歌手次第なのだ。だから指揮者といえども、絶体権力者ではないのである。オペラを演奏する時のオーケストラは、このことをまず知らないといけない。
 これを知らないとどんなことが起こるかというと、次のようなことだ。もし最高音を伸ばしている歌手の喉のが調子が悪くて、予想に反して急に降りてきたとする。すると、指揮者も、
「おっとっと!」
と、あわててついて行くことになるが、その指揮者の動きを見てからついて行くオケは、それよりもワンクッション遅くなるのだ。つまり、指揮者だけ見ていたら、永久に合わないのだ。
 ではそんな時、オペラに慣れたオケはどうするのだろう?簡単だ。歌手と直取引(じかとりひき)するのだ。だって、歌手と合うことで結果オーライなんだから、決まってるだろう。
 ウィーン国立歌劇場管弦楽団などは、本当に良く歌手を聴いていて、どんな玉が飛んできてもキャッチする外野手のように、自主的に合いの手を出す。そのタイミングが、CDなんかで聴いていても絶妙。逆に指揮者がもたもたしていようものなら、すぐ馬鹿にされてしまう。これはこれで恐い世界。

 さて、普通のコンサート・オケでは、毎日オペラをやっているウィーン国立管弦楽団のようにはいかない。京響のオケ練習の初日では、最初の内、僕に右に左に無理矢理揺らされて、彼らみんな船酔いしそうになっていたに違いない。僕も、全て棒で表現できればよかったんだけど、随所でインテンポで突っ切られるので、その度に止めて説明しなければならなかった。
 それでもね、本来午後2時から7時までかかるはずだったオケ練習は、4時半くらいに終わってしまったのだよ。何故だか分かる?それは、京響の能力がそれだけ高いからだ。元来、曲を弾くことに関しては、テクニック的に何の問題もなかったところにもってきて、曲のしくみや意味を説明して、彼らが一度納得したら、もう次にはきちんと弾けている。さっき書いたように、今や表現の引き出しが沢山あるので、飲み込みがとても早いのだ。

 次の21日水曜日には、新国立劇場合唱団が東京から乗り込んできて、京都府合唱連盟合唱団と初コラボのオケ合わせ。最初、気後れして全然声を出さなかった合唱連盟も、僕が、わざと彼らだけで歌わせたり、新国立劇場合唱団だけで歌わせたり、それから合同で歌わせたりしている内に、だんだん慣れてきて声が前に飛んでくるようになった。

それで迎えた。22日木曜日の演奏会。

 歌が入って内容が分かってくるにつれて、京響が俄然変わってきた。本番は文句なしに素晴らしい演奏だった。「カルメン」でソリストに寄り添う微妙なテンポのニュアンス!「カヴァレリア・ルスティカーナ」の間奏曲で見せたカンタービレ!「ナブッコ」の「想いよ、金色の翼に乗って」のゆりかごのような伴奏!また、「ローエングリン」第3幕前奏曲の爆発的歓喜の表現!「こうもり」の「ドゥイドゥー」」のテンポの揺れに伴う音色の変化など、随所で音楽を奏でる楽しさが沸き立ってくるような演奏であった。

 この演奏会では、ソリスト達も新国立劇場合唱団のメンバーから出した。先日、志木第九の会演奏会でハ長調ミサ曲と第九を歌ってくれた松浦麗さんは、今回はカルメン役で「ハバネラ」を歌った。声を聴きながらしみじみ良いメゾ・ソプラノに成長してきたなあと思って嬉しくなった。
 それから、エスカミーリォ役の細岡雅哉さん、「こうもり」のファルケ役の秋本健さん、ロザリンデの黒澤明子さん、オルロフスキーの北村典子さん、アイゼンシュタインの二階谷洋介さん、「椿姫」の「乾杯の歌」における、ヴィオレッタの佐藤路子さんとアルフレードの渡辺文智さんなど、それぞれが持ち味を生かして本領を発揮してくれた。とても満足している。みんな、ありがとう!

 新国立劇場合唱団のある女性団員が、
「三澤さんのこうもり序曲を聴いていたら、あんまり素敵で涙が出そうになりました」
と言ってくれたのは嬉しかったな。「こうもり序曲」って、別に聴いて涙を流すような曲でもないんだけど、言いたいことはとても良く分かる。多分僕の演奏からは、ワルツの部分も含めて、あらゆるニュアンスのウィーンの香りがぷんぷん出ていたと思う。先日、生まれて初めてウィーンに行ったんだけどね・・・・いやいや、もともとヨハン・シュトラウスが好きなんだってば。
その、
「ヨハン・シュトラウスが大好き!」
っていう気持ちを、僕はこの演奏会で初めて表現し切れた気がするんだ。この曲が終わった瞬間、聴衆から大きなブラボーの声が飛んだ。
 また、演奏会が終わってから、そのまま各自尼崎まで移動したのだが、その尼崎のホテルで、一足先に着いていた男声団員達の群れに出くわした。その時、みんなが口々に、
「本番の時の三澤さん、めちゃめちゃカッコ良かったですね」
と言ってくれた。
「ゲネプロまでは、合唱のこと気を遣ってくれて、親切な棒だったけど、本番では打って変わって指揮者っぽくなったのが良かったな。おお、入ってる入ってる・・・なんてね」
みんな偉いな。
「本番で親切じゃなくなった。俺たちを見棄てた」
と言って怒っているわけじゃないんだ。それどころか、こうやって評価してくれる。やっぱり、ひとりひとりが芸術家なんだな。いやあ、君たちのことを僕は芯から尊敬するよ。
こんな風に、僕としては合唱団員達との絆がもうひとつ深くなったことを実感した、かけがえのない演奏会であった。

旅の空から
 今、この原稿を尼崎の都ホテル・ニューアルカイックの一室で書いている。京都の演奏会が終わって、これからしばらくは、オケを指揮する大きな演奏会がない。ヤッター!自由だ・・・・いやいや・・・・そうでもないんだけどね。「ナディーヌ」の台本や曲の改作を集中してやらなければならないし、そろそろ愛知祝祭管弦楽団の「ラインの黄金」のスコアを見始めなければならないし(12月に初練習と講演会がある)・・・いろいろ止まっていたものが山積みになっている。
 でも、とにかく、ずっと頭の上にのしかかっていた重圧からひとまず解放されたのだ。それで、僕はずっと前から読みたいと思っていた本を読み始めた。それは前島良雄著のマーラー「輝かしい日々と断ち切られた未来」(アルファベータ)である。あまりに面白く、一気に読み終えてしまった。その読書感想文は後で書く。

 尼崎の高校生のための鑑賞教室「蝶々夫人」の指揮者は、今年は城谷正博(じょうや まさひろ)さん。「蝶々夫人」を尼崎で3年間指揮した僕だけれど、合唱指揮ということになると、こんなに楽でいいんだろうかと思える。とにかく、京都まで忙しかったから、この旅の空で少し休養しよう。
 22日木曜日の京都から移動してきた晩、僕は珍しく禁酒した。本来ならば演奏会の打ち上げという気分で大いに飲むところだが、志木第九演奏会からの疲れがなんとなく残っているし、今後も飲む日々が続くだろうから、肝臓にも休養させようとアルコールを断って早く寝た。
 そしたら、次の朝、すこぶる体調が良いので、23日金曜日の晩も禁酒した。このまま禁酒しようかな。お酒なんて、なくっても差し支えないさ!お金と時間の無駄だ。お酒飲まなければ食事は15分で済んでしまうし、その後も酔っ払っていないから、読書とか勉強とか夜が有効に使える。あしたも禁酒しよう。いつまで続くか試してみるのもいいな。
 ところが24日土曜日の舞台稽古の後、やっぱり飲んでみたくなって、以前尼崎に来た時に通ったワインバーに行った。ワインを飲みながらモッツァレッラとトマトのカプレーゼを口にほおばった瞬間、
「ああ、これが文化というものだ!これは、僕の人生にやっぱり必要なんだ!」
と思った。
 酔った時に世界の空間が曲がるこの感覚よ!生ハムと赤ワインのコンビネーションの素晴らしさ!やっぱり、お酒なくて何の人生よ!神様、僕がいつまでもお酒が飲めるように健康でいさせてください!なんだ、その祈りは?
 25日日曜日の午前中は、大阪のカテドラルであるカトリック玉造(たまつくり)教会の10時のミサに行く。ここも東京カテドラルと同じように聖マリア大聖堂という。内部はとても明るく、色とりどりのステンドグラスが朝日に映える。正面には日本風のマリア様が描かれている。そのマリア様の顔が素晴らしくて、ミサの間ずっと見入っていた。うーん・・・マリア様というより観音様みたいだけれど・・・。

 こんな風に、旅の日々は続いている。国立の自宅では、週末、次女の杏奈が遊びに来て、志保ともども杏樹を連れて多摩動物公園に行ったという。きりんや象などがでっかいのに心底驚き、ライオンバスにも乗ってゴキゲンだったそうだ。電話で、
「ライオンバス、乗った!」
って、きちんと言えたよ。
 いいなあ!早く東京に帰りたい。杏樹を抱っこして、彼女の体温と重みをこの腕で感じたい。それに、東京でないと出来ない仕事がいろいろたまっているからね。

輝かしい日々と断ち切られた未来
 前島さんとは個人的に面識がある。仲が良いというほど近くはないが遠くもない。名古屋に住んでいることもあって、7月の愛知祝祭管弦楽団「嘆きの歌」演奏会に来てくれて、打ち上げにも出席してくれた。しかもその前には、最新刊の「マーラを識る~神話、伝説、俗説の呪縛を解く」(アルファベータ)という本を僕の自宅にまで送ってくれて、そっちの本はすでに読んでいたのだ。
 肝心の「輝かしい日々と断ち切られた未来」に関しては、親友の角皆優人(つのかい まさひと)君が、以前から絶賛していたので、いつかは読もうと決めていたが、いろんなことに忙殺されていた。しかしながら、読み終わって、ウィーンに行く前に読んでおかなかったことを後悔した。
 何故かというと、これを読んでおいたら、マーラーの妻アルマに対する気持ちが随分変わっていたであろうと思ったからだ。マーラーのお墓を訪ねた時、妻が、近くにあるアルマのお墓の分のお花も買って供えた話は、ウィーンの紀行文で書いた。その時、アルマのことをただの「自己チューで気が強くふしだらな女」だと信じていた僕は、心からお花をあげなかったのだ。

 この本の内容に関しては、ある程度まで知っていた。前島さん自身からも聞いていたし、角皆君はとても詳しく話してくれていたからね。最新刊の「マーラを識る」で受け継がれているエピソードも多い。
 つまりこうだ。マーラーが晩年心臓を患っていて、自分自身の死に怯え、それ故に自分の交響曲を第九と呼ばれることを嫌い、「大地の歌」、第9番などに死に対する想いを投影させていた・・・などというエピソードは、全てアルマのでっちあげである、というものだ。
 それは、前島さんが提示した様々な資料を見る限り、全て正しいように思える。マーラーはある時確かに、医師によって心臓疾患の診断を下されたが、今日ではそれ自体が誤診であったとされている。そうでなければ、ニューヨークに渡ってから彼の死の直前まで続く、あの超人的ともいえる精力的な活動を説明することは出来ない。そして現実に彼の死因は、「連鎖球菌による亜急性細菌性心内膜炎」すなわち感染症によるものであって、心臓疾患とは何の関係もない。
 それらの嘘の出所がアルマだとしたら、アルマはとても信じられる人間ではない・・・と、僕は思っていた。そこまでは間違ってはいない。嘘をついたのは事実だから。しかし僕が勘違いしていたのは、アルマがそのような虚言をはいた原因である。

 それは・・・心を病んでいたのはマーラーではなく、むしろアルマの方だったというのである。

新しい生活が始まることにかなり昂揚していたであろうマーラーとは対照的に、アルマは精神的に相当まいっていたと思われる。しかし、そのことにマーラーはあまり気が付いていなかった。(本文211ページより)
 生粋のウィーンっ子であったアルマにとって、ウィーンを生まれて初めて離れて、アメリカという遠い新天地で暮らすことが、どれほど心細かったことだろう。ただの旅行者としてちょっとだけ滞在した僕でさえ、ウィーンという街の居心地の良さを感じたのだから、ウィーン人と呼ばれる人達が生涯にわたってウィーンを愛し続ける気持ちは、今の僕にはとてもよく理解できる。
 もともと才女であったアルマは、しかしながらマーラーという巨星に出遭い、この才能の炎に焼かれ、自分自身の能力を投げ打ってマーラーに尽くしてきた。マーラーの成功を誰よりも喜び、今や有名人となったマーラーに一番近い存在として人々からもうらやまれる女性となった。
 しかし、創造活動の真っ直中にあって有頂天になっているマーラーと同じものを見つめて生きることは出来ない。アルマはアルマだから。ウィーンという土壌に、これまでの人間関係も含めてしっかりと根を張っていたアルマだったから。そこをマーラーは見落としていたのかも知れない。
 また、マーラーの側からしか語られることのない、長女の死から来る痛手だって、母親であるアルマにはもっとこたえたに違いない。何故その事実に人々の目はいかなかったのだろうか?それと、前島氏は、マーラー夫婦が初めてアメリカの地を踏んだ直後、アルマが流産したと言っている。
 そんな孤独なアルマの心に、画家のグロピウスがそっと忍び込んだとして不思議はないなあとも思う。勿論、不倫したアルマが悪かったのは確かだが、こうした一連のことを振り返って見ると、僕はちょっとだけアルマに同情的になる。
 アメリカに渡ってから死ぬまでのマーラーのことを、後に記述したアルマが、いろいろな事実を湾曲した背景には、自分の傷を舐めながら書いていたという事実があるに違いない。だとしたら、これは、けしからんというより、痛ましいことなのかも知れない。
しあわせでない人は、しあわせでない眼で世界を見るから、世界がゆがんで見える。
しあわせでない人は、しあわせでない心で人を見るから、その人に自分の不満や恨み心を投影する。
しあわせでない人は、しあわせでない境遇で自らの体験を綴るから、自分が書きたくないことは書かず、自分が書きたいように事実を曲げてしまう。
こうして、しあわせでない人の連鎖が始まる。
アルマは、ずっとかわいそうな人だったのかも知れない。もっと心を込めてお墓にお花をあげればよかった。前島さん!いろんなことに気付かせてくれてありがとう!



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