さらば、尼崎!

三澤洋史 

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さらば、尼崎!
 早朝、尼崎の街を散歩する。阪神尼崎駅やJR尼崎駅に向かって、おびただしい数の自転車が猛スピードで駆け抜けていく。恐くて仕方がない。アルカイック・ホールの脇から北に延びる道路は、JRの線路と立体交差するために上り坂になるが、歩行者と自転車は地下通路を通る。この地下通路には何重もの柵が置かれ、
「危険、自転車は降りて通行して下さい」
と立て札が建っているが何のその。自転車が真っ直ぐ通れないように互い違いに置かれた柵を、次々にまるでアルペンスキーのスラロームのように見事にかわしながら降りてくる自転車通行者の群れ!誰も手で押してる人なんていないんだ。危ねんだよう!誰か取り締まってくれ!
 その他、道路における自転車通行者の信号無視や斜め横断などは当たり前。さらに、僕がニョキラーと呼んでいる、ニョキッと道路に飛び出してくる自転車通行者の危ないことといったら・・・僕が見ているだけでも、何件か、
「あっ、ぶつかる!」
と、自転車と車が衝突しそうになり、両方が急ブレーキをかける場面に遭遇した。どちらも直前までよけようとしないんだ。きっと僕の知らないところで衝突事故が沢山起きているに違いない。それともナニかな?車も自転車も直前急ブレーキの達人が多いので、結局何事もなく毎日が過ぎていく街だったりして・・・。

 おばあさんたちの服装は、絵に描いたようなヒョウ柄だったり、ウワッと驚くような派手な色彩だったりする。みんな歩きながら煙草を吸っている。道ばたで大きな声でしゃべっているけれど、だいたい声がしゃがれている。一方、おじいさんたちはゆったりと自転車に乗りながら煙草を吸っている。いずれにしても、今や我が国では当たり前のようになっている「公道における禁煙」という条令は、この街には届いていないらしい。

 ある居酒屋に歌手達3人と一緒に入った。入り口が自転車でほとんどふさがれていて、とても入れる雰囲気ではなかったが、バリトンの秋本健さんは、こういうのに慣れていて、
「こういう店こそ、地元民が行くんだ。絶対においしいよ。行こ行こ!」
と言いながら、どんどん行くので後について入った。
 ほとんどカウンターだけの店。でも入り口にひとつだけテーブルがあった。その上に沢山荷物が置いてあったが、あっという間にどかしてくれた。3人はまず生ビールを注文した。あるアルト団員は冷酒を頼んだが、冷酒はないと言われた。でも冷たい日本酒ならあると言われて注文した。すると普通のコップに並々と表面張力で盛り上がった常温のお酒がつがれてきた。こぼれないように唇を突き出してコップ酒をすする彼女の姿を見た時、とっても飲んべえに見えて笑えた。
 カウンターには、厚揚げと茄の煮付けや、いわしの煮付け、枝豆などが置いてある。それらを注文した。すると、それらにプラスして、注文してないものをどんどん持ってくる。素朴で庶民的な味つけ。みんなとてもおいしい。しかし・・・こんなに勝手に持ってこられると不安になる。僕たちは小声でひそひそと話し始める。
「こんなにどんどん料理が来て、最後に勘定書き見てビックリなんてね」
「いいカモにされて、ボラれたりして・・・」
カウンターから突然マスターのおじさんが大きな声で言う。
「お客さん、隣の店に入らなくてよかったですワ。ちょっと飲み物注文しただけで1万円でっせ、なんていったってコレ(頬を斜めに切るしぐさ~つまりヤクザ)ですからね」
ヤベエ、僕たちの会話、聞かれていたらしい。
「そ、そうですか、恐いですね。いやあ、こっちに入ってよかった!あはははは・・・・」
って、ゆーか、このマスターの地獄耳の方が恐かったりして。ひととおり飲んで酔っ払った後で、
「なんかご飯ものとか、食べるものありますか?」
と聞くと、
「とっておきのものがありまっせ」
と言う。
「とっておきのもの・・・何ですか?」
「オムライス!」
お・・・オムライス・・・シメに・・・・あまり得意げに言うので、断れないような雰囲気・・・まあ、いいか・・・。
「4人用に特別なの作ったげる!」
そして・・・出てきました。巨大な皿に4人前、いや、それ以上の量の超特大オムライス!僕はとっさに絵本の「ぐるんぱのようちえん」を思い出した。なんでも超特大を作ってしまう象のぐるんぱの物語。このマスターはぐるんぱか・・・・?
でも、その味は絶品であった。そして、
「お勘定お願いします!」
緊張の瞬間・・・・おおっ!わずか8千円!あんなに飲んで食って、ひとり2千円!

 これ以外にも、いわゆるB級グルメの安くておいしいのが尼崎の特徴。あるトンカツ屋の牡蠣フライ定食は絶品だったし、焼き肉屋はどこもハイレベルで値段はリーズナブル。アルカイック・ホールの近くの中華料理屋の麻婆豆腐は、北京で食べたのと同じ味がする。お昼によく通った定食屋は、お盆を持ってバイキングのように自分でおかずを選んで、カウンターでごはんと味噌汁を注文してお勘定をする。ここも安くてうまい。
 あるパン屋のパンは、どれも一個100円でとっても美味。でもね、このパン屋が入っているアマゴッタというショッピングモールは、駅中に最近出来たショッピング街の影響で、中に入っていたスーパー・マーケットをはじめとする多くの店がつぶれてしまって、その内アマゴッタ自体も取り壊されるという噂だ。
 同じ種類のパンが、駅中に出来たリトル・マーメイドでは倍以上の値段で売られている。こちらの方がうまいのに・・・・若者達は、よりおしゃれなリトル・マーメイドに流れていくのか、リトル・マーメイドはいつもいっぱい。こっちの店は閑古鳥が啼いているけれど、僕達新国立劇場のメンバーは、合唱団員でも舞台スタッフでも、このパン屋に足しげく通い、楽屋で食べている。

 現在では、どこの街でも、商店街やアーケード街がさびれてしまってシャッターが閉まっている状態だが、アマゴッタはともかく、尼崎商店街だけは、超元気で活気に溢れている。たまにこうしてこの街を訪れて、この商店街を歩く度に元気をもらう。それを支えているのが、この街のどまん中で、ヒョウ柄のジャケットを着て自転車に乗り、煙草をくわえながらガラ携をかけているおばあさん達だとしたら、それもアリかもな。頑張れ、尼崎商店街!駅前のこじゃれたショッピング街なんかに負けるな!

 僕の指揮する「蝶々夫人」で始まったこの高校生の為の鑑賞教室尼崎公演は、僕が3年間指揮した後、石坂宏さんや城谷正博さんの指揮する「愛の妙薬」「夕鶴」などを経て、今年の城谷さんの「蝶々夫人」で幕を閉じる。
 何故なら、出資元のローム・ファンデーションが京都にローム・シアターを建てることに伴って、鑑賞教室の本拠地を京都に移すためだ。ローム・シアターはまだ建っていないけれど、僕が指揮した先日の京都コンサートホールにおける「オペラ音楽コレクション」は、そのプレ・コンサートの意味を持つ。
 来年は、広上淳一さん指揮、京都市交響楽団の「フィガロの結婚」が決まっていて、それからは毎年京都公演となる。勿論、京都の街の方が洒落ていて、何の不足もないが、関西の人たちからも「アマ」と呼ばれる、このガラの悪い(失礼!)尼崎を離れるのは、なんだかとっても淋しい。

いつの間にか、僕は尼崎を愛しているのだ。
尼崎よ、ありがとう!
またいつか来るよ。

村上春樹「職業としての小説家」
 夏から続いた大きな本番が一段落して、人生ハッピーと言いたいところだが、かえって張り合いがなくなってしまって、つまらない。
「ああ、これさえ終われば・・・・」
と思いながら、緊張した日々を送っているまさにその時こそが、本当は人生最も充実している時だったのかも知れない。
 とはいえ、大好きな読書が思うように出来なかったので、それだけはありがたい。先日紹介した前島良雄さんの「マーラー~輝かしい日々と断ち切られた未来」(アルファベータ)を読んでいる最中、京都から尼崎に移動中に、大阪駅内の書店でふと見つけて買った村上春樹氏の自伝的エッセイ「職業としての小説家」(スイッチ・パブリッシング)を同時進行して読み始めた。この村上氏の本は、章ごとに完結していて、どこからでも読める内容なので、前島さんの本をメインに読みながら、ちょっとした合間に村上氏の本を一章だけ読むという読み方をしていた。
 
 村上氏のエッセイを読みながら、僕はつくづく、村上春樹って凄い人だなあと思うと同時に、僕と考える事や行動パターンがとても似ているなあと思った。まず、作家はフィジカルな強さが大事と考える点。僕たちがなんとなく考えるステレオタイプの作家の生活ってどんなだろう?酒や女に溺れ、自堕落な生活のあげくに自殺・・・なんていうのは極端な例かも知れないが、村上氏のようにジョギングなどの運動を日常に取り込み、1日5時間と決めてきっちり仕事する(書く)といった規則正しい生活をしている作家には、いいものは書けないんじゃないか、という常識のようなものはないだろうか?
 だが、バッハから始まってマーラーに至るまで、音楽家の創作の生活も、思ったより規則的なのだ。僕もそうである。朝起きてお散歩をし、朝食を食べてから、
「さあ、書くぞう!」
と腹を決めて、スコアを読んだり作曲や編曲をする。
 1作くらいたまたま凄いものを書いて、そのまま消えてしまうような人なら、もっといきあたりばったりの創作生活を送ってもいいだろうが、長年にわたって沢山の作品を産み出し、それが常に一定の評価を受けているような作家となると、自分の作家としての生活パターンを決め、それに沿っていかないと、とてももたないのだ。

 それと、村上氏が“走ること”を生活の中に取り入れて、その行為に対してある特別な意味を感じているという点も、今の僕にはとても分かるのだ。僕は、走ることはしないで、毎朝「お散歩」をしているが、彼の“走ること”は、それとはすこし意味が違う。何故なら、走ることは散歩より疲れるから。でも、僕の水泳が、きっと彼の“走ること”に相当すると思う。彼は言う。

日々走ることが僕にとってどのような意味を持つのか、僕自身には長い間そのことがもうひとつよく分かりませんでした。毎日走っていればもちろん身体は健康になります。脂肪を落とし、バランスのとれた筋肉をつけることもできますし、体重のコントロールもできます。しかしそれだけのことじゃないんだ、と僕は常日頃感じていました。その奥にはもっと大事な何かがあるはずだと。
   (173ページ)
・・・・その文句は今でも、僕にとってのひとつのマントラみたいになっています。「これは僕の人生にとってとにかくやらなくちゃならないことなんだ」というのが。
   (174ページ)
 ここからは僕の意見であって、村上氏は全く言っていないのであるが、僕はこう思っているのだ。村上氏の言うような意味での運動は、ジョギングであれ水泳であれ、ある程度きつくないと意味がないのだ。つまりこうである。
 これは快楽を享受する行為と真逆である。つまり、自分の体を意図的に痛めつけることによって、自分自身の筋肉と対峙し、自分自身の肉体と対話する。自分をストイックな状態に置くことによって、肉体に対して自分が主人であることを確認する。その意味では、ある種の宗教的な行為と言うことも出来る。
 その時、人は、肉体が肉体だけでないことを発見する。つまり、肉体は、その肉体に密着している低次元の自我と一体となっているのだ。そして、それを見つめて制御しようとしているもうひとつ高次元の意識が同時に存在していることを発見するのである。分かり易く言うと、
「いやだな。辛いな。もうやめたいな」
という自我と、
「いや、我慢するのだ。あそこの目標まで続けるのだ」
という意識とがスポーツを通して対話しているわけである。
 多分、これを見つめることが、村上氏の言うところの「その奥にあるもっと大事な何か」なのだと思う。自己の内部には、少なくともこの2種類の意識が存在している。もっと覚醒が進むと、さらに高次元の意識に自ら目覚めてくる。

 キリスト教では、大部分の信者が、「救われた、救われない」あるいは「赦された、赦されない」の次元に留まっているが、救われ赦された人間の中でも程度の差が存在し、その程度の差というものは、実はとても大きいのである。
 カトリック教会では、聖母マリアをはじめ沢山の聖人を敬う。一方で、プロテスタント教会では、多くの宗派でこれを否定する。
「人は神の前に等しく罪人であり、その意味で平等なのだ」
という考えは、間違いではない。しかし、ギリギリで救済する方に入れてもらえた人と、たとえばキリストの生き方を真に理解し、大きな働きをした人物の間には、(仏教的に言えば)悟りの高さの違いが横たわっているのである。
 罪ということにとらわれすぎると、どんなに素晴らしい人でも罪のない人間はいない。その意味では、確かに神の前に平等であるかも知れない。けれど、救われた人は救われた時点で思考停止していいわけではない。我々は、キリストに従って生きるだけではなく、キリストに向かって魂のステージを上げていかなければならない。
 そこに気付いてくるならば、聖人を敬うことは間違いではない。何故なら、彼等は、凡人が見る事の出来ないものを見、感じる事の出来ないものを感じるから。つまり、より覚醒しているからである。

 その覚醒への入り口にスポーツが導いてくれるとしたら、村上氏が“走ること”を自分の生活から決して手放せない理由も理解出来る。さらに、だから村上氏の小説は、宗教書や哲学書の重みを持たないながらも、魂の領域に達しているのだ。僕が、村上氏の小説を読みながら、自分の高次なる精神が喜んでいるのを感じるのは、彼の達している領域がかなり高いからなのだ。高次なる精神の話は、またいつか宗教的あるいはスピリチュアルな話題の時にゆっくり話したい。ちなみに、スキーは僕にとって解脱と覚醒への入り口であり、そのゴールには涅槃の境地があると信じている。
 
 とにかく、この本はとても面白い。それに・・・僕が文章を書く時に最も大切にしていること・・・すなわち、「なるべく平易な文章で読みやすく」というモットーを最大限に実現していることに驚かされる。
 だって、あたかも、リラックスしてその場で思いつくままスピーチしているような文章なんだ。これって究極の簡素化で、誰にも書けそうで、本当に実力がないと書けない。僕の目標にしているスタイルでもある。なにせ、
「三澤さんの本を読みましたけど、決して簡単な内容ではないはずなのに、読み易いので一気に読みました!」
と、言われることがなによりも嬉しい僕なのだから。
 そういえば、この本のタイトル「職業としての小説家」は、僕の「オペラ座のお仕事」となんとなく似ていないかい?

米軍というオムツ
 米軍が東シナ海で挑発的軍事行動に出ている。勝手に人工島を作って自分たちの領土だと言い張っている中国をけん制するためである。やっぱり頼もしいな米軍。アメリカの圧倒的な軍事力にかかっちゃ、中国とて真っ向から対立するわけにもいかないしな。こんな風に、いざとなったらしっかり守ってくれるんだもの、日米の安全保障条約はハズせないな。アメリカが日本の安全を保証してくれるんだものな。
 これがあるから、あの絶対的平和を歌った日本国憲法を僕たちは守ってられるんだもの。我が国は戦争を永久に放棄しているのだ。美しい憲法!私たちの息子を戦地になんて送らせてたまるもんですか。永久にノー!

 でも・・・もし米軍の威嚇行動に対して中国が発砲してきて、それが米軍のイージス艦に当たったら、米国民が送り出した息子達は死ぬ可能性があるんだよね。日本人が差し出さない貴重な命を、アメリカは差し出しているんだよね。自分の本土の領域外で・・・。そうやって軍事的に守って貰っていながら、日本人は平和憲法に酔っているんだよね。これって虫が良すぎない?
 安保法制の騒ぎの後、街中にポスターが溢れている。特に○○党のポスターには首をかしげる。

アメリカのいいなりになるな!
日本国憲法を守ろう!
 この2つの文章を並べる矛盾に気が付かないほど、日本国民は阿呆なんだろうか?そして、この党は、こんなキャッチフレーズで日本国民のゴキゲンを取ろうとしているのか?先日の安保法制反対のデモでも、目立ったのは、
「あなたの息子を戦地に行かせたいですか?」
だった。
 そりゃあ、行かせたい親はいない。アメリカの親だって行かせたくはない。でも、現実にアメリカの息子は命の危険にさらされているんだから、日本はアメリカのお世話になっているんだ。
 それで、お世話している方が本当に奇特な国で、何の代償も求めなければそれは美しい物語だろうが、そうはいかないだろうね。アメリカが仮に。
「これだけやってやってんだから、多少理不尽な要求をしてもいいだろう」
と思っていたって不思議はないよね。そして我が国はそれに反対出来ないだろうね。それだけのことをしてもらっているんだから。

 安倍総理は知っていたのだろうね。
「安保法案が成立したらすぐに俺たちは東シナ海を守ってやるよ」
という取り決めが出来ていたのだろう。だから、あれだけ無理して急いで法案を通したわけだ。こうして実際の軍事行動で示せば、日本国民は、
「アメリカは頼もしい」
と思って、さらに、
「安保法案を通しておいてよかった」
と思ってくれるに違いないと、安倍総理もアメリカも思っていたのではないか。
 今ではアメリカは、日本国憲法なんか鼻でせせら笑っているだろうね。そして、
「日本国憲法を守ろう」
と国民が言っている内は安泰だと思っているだろうね。

 断言するけど、アメリカが息子を戦地に送らせている限り、我々日本はアメリカの要求をなにひとつ退けることは出来ない。その権利はない。アメリカは日本を属国と思っているから。
 美しい平和憲法を守っている我々は、
「絶対に自分の手なんか汚さない!」
と言いながらアメリカによってオムツを取り替えてもらっている赤ちゃんに等しい。それでいて、
「もう子供じゃない。あなたの言うことはきけない」
と一人前に言うとしたら、親から見たら嘲笑の対象でしかない。

 もうそろそろ独立した法治国家になろうと思い始めようよ。法をねじまげて非論理的な憲法解釈でアメリカに迎合するのを「屈辱的」と感じるように成長しようよ。様々なねじれを、どうやったら解消できるか、本質的な話を国民レベルで出来るように、マスコミも、もう少し国民の教育をしてくれないかなあ?それとも、権力に屈して、このまま国民を愚かなままでいさせるつもり?

目覚めよ!国民!
まずオムツを取って自分でうんちしよう!
それから自由に発言しよう!
独立国家として。



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