戻ってきた日常生活と「トスカ」
やっと新国立劇場の通常業務に戻って、例年のように劇場にサラリーマンのように通い出した。先週は、「トスカ」が合唱音楽練習を終えて立ち稽古に入り、平行して「ファルスタッフ」の音楽稽古を行っていた。
「トスカ」では、初演時にマダウ・ディアツのアシスタントをしていた田口道子さんがミラノから来日して立ち稽古をつけている。道子さんにはミラノ留学の時にいろいろお世話になった。彼女は、スカラ座では顔パスで、証明書など何も持っていないのにいつでも自由に入れるし、事務局の人達とはみんな友達だ。合唱指揮者のブルーノ・カゾーニ氏とでさえ冗談を言い合う仲である。特に仲の良かった演出家のディアツが最近亡くなったので、沈んでいるかなと思ったら、なんのなんの。元気溌剌!
この道子さんの行動や発想は、今日の原稿の最後の方で触れている本の「最後は何故かうまくいくイタリア人」のように、全くイタリア人そのもので、実に興味深い。第1幕途中の聖歌隊のシーンの立ち稽古では、通したら5分くらいの場面なので、すぐ終わると思っていた。18時から始まって、18時40分にはひと通り終わったので、解散かと思っていたら、
「これからトスカとカヴァラドッシの2重唱のシーンの立ち稽古をするから、20分くらい待っていてね」
という。
ところがこの2重唱のシーンが思うようにいかずに、7時20分になってしまった。ここでは決まりとして20分の休憩をとらないといけない。
「うわあ、7時40分再開かあ。7時には終わると思っていたけれど、まさかの8時まで練習だね」
「いいや、甘い甘い!9時まで練習かもよ」
「まさかあ!」
と合唱団同士の会話。
そして7時40分に休憩が終わると、今度は、
「はい、第1幕冒頭から行くわよ!」
という。ところがそこでさらにひっ掛かりひっ掛かりして、聖歌隊の場面が再びやってきたのは、8時半近く。
「うわあ、まさかの9時まで練習だった!」
これがもしオケの練習だったら、こんな風に待たせられたら、楽員達は間違いなく怒りまくるだろうな。でもね、歌手達は、ベルカント唱法発祥の地であるイタリアが大好きだから、こんな時には怒らないんだ。
それどころか、一度冷却時間を置いて再び立ち稽古に向かった合唱団員達は、とても集中して稽古するし、道子さんも頭が新鮮になっていて新しい指示を出す。終わってみたらとても良い出来に仕上がっていた。これが、一見非能率的に見えて、最後には何故かうまくいくイタリア人というものなのだ。詳しくは後の記事を読んでね。
終末主日
11月8日日曜日。カトリック関口教会(東京カテドラル)10時のミサにおける山本量太郎神父の説教は、こう始まった。
「季節の移り変わりを何で知るかというと、アレルヤ唱のメロディーで知ります」
確かに今日からアレルヤ唱のメロディーが変わった。11月1日の「諸聖人の日」と次の日(2日)の「死者の日」に始まる11月という月は、教会の暦では「死者の月」と呼ばれる。
教会の暦では、降誕節(クリスマス)の前4週から始まる待降節Adventをもって、新しい年度になる。待降節は、今年の場合11月29日から始まるが、その前の年間第32主日、33主日、「王であるキリストの祭日」という教会歴の最後の3つの主日は、特に終末主日と呼ばれている。教会歴も終わりに近づき、福音書の内容も、終末の色が濃くなっていく。
山本神父の説教は続く。
「アレルヤ唱のメロディーは、どことなくもの悲しい色を帯び、私達は、世の終末・・・そして自らの人生の終わりに思いを馳せます・・・」
そうだなあ・・・僕は一体どんな死に方をするのだろうか。身内でも、最近癌を患い、痛がって苦しんで亡くなっていった方がいる。僕なんか、今でこそこうやって偉そうに信仰の話などしているが、もし自分がそんな状態になったら、果たしてどうなるのだろう?死にたくないと叫びながら暴れのたうち回り、神も仏もあるものかとやけっぱちにならないと誰が保証できようか。って、ゆーか、山本神父の話を聞きながら、神父の話題を離れて勝手にこんな心配をしているんだから、なんという集中力のなさ!
今日の第1朗読の列王記(上17・10-16)では、預言者エリアと、あるやもめとの対話が描かれている。エリアがそのやもめにパンを求めた。やもめは、自分が持っていた最後の食物をエリアに差し出した。
「それを食べてしまえば、あとは死ぬのを待つばかりです」
という状態であったのに・・・。しかし、その後、やもめの家の壺の粉は尽きることなく、瓶(かめ)の油もなくならなかった。
ヨブ記と同じように、旧約聖書らしい“無理矢理ハッピーエンド的結末”であるが、この朗読を聞いてから、僕の心の中に何かが残っていた。また、今日の福音朗読では、マルコによる福音(12・38-44)の、神殿でなけなしのお金を捧げる貧しいやもめの話が読まれていた。これらの聖書朗読に関する山本神父の説教をぼんやり聞いていた僕は、神父の話はよく覚えていないのだが(失礼)、何かが胸の中でぐるぐる回っているのを感じていた。本当に、こんなミサへの関わり方でいいんだろうかとも思うが、僕の場合、こういう状態の方が、インスピレーションが降りてくるのだ。
ミサが終わっても、僕の心の中では、列王記とマルコによる福音書の2人のやもめの話がずっと引っ掛かっていた。この2つの話は、ともにやもめの話だというだけでなく、内的につながっているのだ。そして・・・考えている内にだんだん分かってきた。これはパンやお金の話ではない!それらは比喩であって、本当は信仰の神髄に触れる話なのだ。
すなわち、真に信仰するというのは、こういう生き方をするということなのだ。「それを食べてしまえば、あとは死ぬのを待つばかり」の状態でも全てを捧げること・・・あるいは、無一文になるのが分かっても、そのお金を全部献金すること・・・それこそが捧げ切るということであり、神に託して生きるということであり、委ね切るということなのだ。自分の分を取っておいて、失ってもどうってことのない部分を捧げているのでは、信仰者の生き方とはいえない。そう気が付いた瞬間、心の中がパアーッと温かくなった。
家に帰って何気なく別の宗教本を開けた。するとこんな文章が目に飛び込んできた。
人生において迷ったならば、驚いた!こういうことが最近よくある。要するに、エイヤーッと自分の身を投げ出して、神の側に飛び乗れということである。明日のことは心配するな、神の側に軸足を乗せて生きよ、と僕は言われているのだ。今、この場で言われているのだ!他ならぬこの瞬間に、僕自身が直接、ダイレクトにメッセージを受けているのだ!そう思うとね、鳥肌が立ってきたよ。
最後は信仰をとってください。
最後はなぜかうまくいくイタリア人
ドイツ人、フランス人、イタリア人と、自分が興味持った国民に関するこのような本を、これまで一体何冊読んだことだろう。しかし、その中で、これほど共感を持ち、しかも目からウロコと思わせるほどいろんなことに気付かせてくれた本はない。これまで、イタリア人は間違いなく“宇宙人”だと思っていたけれど、今では、誰よりも自分の本性に対して正直な人種であり、それでいて最後には、きちんと結果を出す人達であると確信している。
最後はなぜかうまくいくイタリア人
イタリア人は厳しい規則が大好きだというと、多くの人が不思議そうな顔をする。ただ、これは事実である。もちろん最初から守るつもりはない。だから、規則は厳しければ厳しいほど、「恰好いい」のである。時間にルーズなのもそういうところからきているのだろうが、規則破りに対して異常なほど寛容だというのは、ある事に限っては日本人にもとても当てはまると思う。
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