“いつくしみの特別聖年”を生きる
カトリック教会では、今年の12月8日火曜日から“いつくしみの特別聖年”というのが始まる。12月8日は“無原罪の聖マリアの祭日”であり、教会にとって革命的ともいえるイノベーションであった第2バチカン公会議が閉幕してからちょうど50周年にあたる日だ。
それに引き続き、12月13日の待降節第3主日には、ローマの司教座聖堂であるサン・ジョバンニ・ラテラノ大聖堂の聖なる門が開かれ、それにならって全世界のカテドラル(司教座聖堂)で、“いつくしみの扉”を開く儀式が行われる。我が東京カテドラル関口教会も例外ではない。
ところで、どうも“いつくしみの特別聖年”と聞いてもピンとこない。カトリック中央協議会が出している小冊子「イエス・キリスト、父のいつくしみのみ顔」は、教皇フランシスコが直接出している勅書で、読んでとても感銘を受けたのだが、まだよく分からないところがある。これは日本語に問題があると思った。いや、訳し方が悪いとかいう問題ではなくて、日本語の持つ根本的な問題だ。
そう思った僕はインターネットで調べてみた。オリジナルはMisericordiae Vultusというタイトルを持つラテン語で書かれている。ラテン語は、文法書を片手に読めば理解出来ないことはないけれど、とりあえず僕は、メインとして著者である教皇フランシスコのネイティブであるイタリア語のテキストを読み、分かりにくいところはフランス語、ドイツ語も参照した。勿論ラテン語をにらみながらである。
どの言語も、みんなラテン語から正確に訳してあった。というより、日本語って、ヨーロッパ言語からなんと遠く隔たっているのであろう。日本語に訳すのって、なんて難しいのだろう。ケチをつけるのは簡単だが、ではお前が訳してみろ、と言われたら無理だと思った。
ラテン語
https://w2.vatican.va/content/francesco/la/apost_letters/documents/papa-francesco_bolla_20150411_misericordiae-vultus.html
イタリア語
https://w2.vatican.va/content/francesco/it/apost_letters/documents/papa-francesco_bolla_20150411_misericordiae-vultus.html
フランス語
http://w2.vatican.va/content/francesco/fr/apost_letters/documents/papa-francesco_bolla_20150411_misericordiae-vultus.html
ドイツ語
https://w2.vatican.va/content/francesco/de/apost_letters/documents/papa-francesco_bolla_20150411_misericordiae-vultus.html
読んでみると、うーん・・・当然といってしまえばそれまでなのであるが、日本語の印象とだいぶ違う。それに、日本語以外はみんなとっても良く分かる。あ、なんだ、そういうことだったのか!
Gesu Cristo e il volto della misericordia del Padre.
「イエス・キリストは、父のmisericordiaのvoltoである」と言っている。misericordiaとはmiserabile(悲惨な、哀れな、乏しい)なもの(つまり人間存在)に対する哀れみ、憐憫、同情である。これを“いつくしみ”と訳してしまうと、きれいなのだが言葉に具体性がなくなってしまう。
また、voltoは“顔”だが、転じて“特性”“性質”、あるいは“面”という意味も持っている。これも“み顔”と訳してしまうと、“父のありがたい顔”という風に限定されてしまう。
このタイトルの本意はこうだ。父なる神には、正邪を分ける“正義としての面”と、弱きものを憐れみ赦し受け容れる“misericordiaとしての面”がある。そして「イエス・キリストは、父のmisericordiaとしての面のあらわれである」。これを「父のいつくしみのみ顔」と言っても、分かる人には分かるが、なんとなくありがたそうなだけで何も伝わらない可能性がある。一般の信者に、
「なんだ特別聖年とか言っているけれど、いつも教会で言われているのと一緒ではないか。なんにも特別ではないではないか」
と思われてしまう危険性があるのだ。
最初の文章を見てみよう。
イエス・キリストは、御父のいつくしみのみ顔です。キリスト者の信仰の神秘は、ひと言でいえばこの表現に尽きる気がします。いつくしみは生きたもの、見えるものとなり、ナザレのイエスのうちに頂点に達しました。ほとんど同じように見えるが、ちょっとした違いがある。ラテン語のChristianae fidei mysterium(イタリア語ではil mistero della fede cristiana)は、“キリスト者の信仰の神秘”ではなく“キリスト教信仰の神秘”と訳すべきだと思う。もっと単純に“キリスト教の神秘”でもいい。
Gesù Cristo è il volto della misericordia del Padre. Il mistero della fede cristina sembra trovare in questa parola la sua sintesi. Essa è divenuta viva, visibile e ha raggiunto il suo culmine in Gesù di Nazareth.
イエス・キリストは父のmisericordiaとしての面のあらわれである。キリスト教信仰の神秘は、要約すれば、この言葉(misericordia)の中に見出されるように思われる。misericordiaは(この世の中で具体的に)生命を持つもの、目に見えるものとなり、ナザレのイエスの中で頂点に達した。(三澤訳)
いつくしみには、教会の垣根を越える価値があります。いつくしみは、神をよりよく特徴づける俗世の一つだとしてそれを重んじている、ユダヤ教やイスラームとわたしたちとのきずなになっています。(本文41ページ)つまり、もっと分かりやすく言うと、カトリック教会は、フランスやアメリカといった「キリスト教国家」の出した結論や行動(たとえば武力による解決)とは一線を画しますよ、という宣言をしているに等しい。自分たちは閉鎖的になるまい、侮蔑的にはなるまい、暴力には頼るまい、差別は決してしまい、と、徹底的に友愛精神と平和主義でいくのだという意思表示をしているのだ。
(中略)
いつくしみのうちに過ごすこの特別聖年が、こうした宗教(ユダヤ教やイスラーム)や、また他の優れた宗教的伝統との出会いを促す一助となりますように。この年を通して、さらによく知り合い理解するために、わたしたちがより対話へと開かれた者とされますように。いかなる姿であろうと閉鎖的・侮蔑的態度は根絶され、いかなる暴力も差別も斥けられますように。(本文42ページ)
飢えている人に食べさせること、乾いている人に飲み物を提供すること、着る物を持たない人に衣服を与えること、宿のない人に宿を提供すること、病者を訪問すること、受刑者を訪問すること。死者を埋葬すること(本文26ページ)などであり、精神的なmisericordia spiritualeとは、
疑いを抱いている人に助言すること、無知な人を教えること、罪人を戒めること、悲嘆に打ちひしがれている人を慰めること、もろもろの侮辱をゆるすこと、煩わしい人を辛抱強く堪え忍ぶこと、生者と死者のために神に祈ることである。
(本文26ページ)