常駐する劇場とエキスパート達

三澤洋史 

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劇場の日常に戻りました
 びわ湖ホールの「さまよえるオランダ人」で、新国立劇場の外でオペラの仕事をしていたが、久し振りにいつもの仕事場に戻ってきた。すると、それまで当たり前だった事がいろいろ新鮮に感じられて面白い。まず、一度定期券を買ってしまえば交通費を使わなくていいし、初台駅から雨に濡れないで仕事場に入れるなんて夢のよう!そして、自分のデスクがあって、稽古場と劇場空間が同じ屋根の下にあるんだ。なんと恵まれた環境!

 劇場では、「ウェルテル」が初日を迎え、同時に「アンドレア・シェニエ」の立ち稽古が始まっている。「ウェルテル」では、6人の子供役が登場する(TOKYO FM少年合唱団)が、第4幕で、絶命するウェルテルとかぶって、舞台裏からクリスマスの歌を歌う少年合唱の歌を補強するために、8人の新国立劇場合唱団のソプラノ団員が雇われている。
 彼女たちは、衣裳もないし、僕も終わってからカーテンコールに出るわけではないので、まあある意味気楽ともいえるけれど、悲惨な室内での成り行きなど何ひとつ知らぬ無垢な児童合唱の響きがコントラストとなって、舞台上の悲劇性をいっそう強調するマスネのドラマトゥルギーの見事さを考えると、きちんと取り組まないといけない。
 ドラマのクライマックスでもあり、オーケストラの響きが厚いので、大人の声でサウンドを補強するのが一般的であるが、6人の少年合唱の音色と溶けあい、全体として子供の声に聞こえないといけないのだから簡単ではない。ハーモニーの美しさとピュアな音色を決して逸脱してはならない。ちなみに、舞台裏でもマイクは使用しておらず、距離感を持ちながらしっかり生声で客席まで届かせている。

 それにしても、この公演はかなり高水準に仕上がっている。なんといってもウェルテル役ディミトリー・コルチャックの歌が素晴らしい。僕の大好きな「何故私を目覚めさせるのか?」のアリアを惚れ惚れするような美声とフレージングで見事に歌い切った。
 ウェルテルにはぴったりの音色で、音程がすべてピシッと決まっているのがいいな。こういう音楽的で知的な歌手はなかなかいないのだよ。特にテノールには(笑)。彼は、二転三転した降板劇の末の登場となったが、結果として、一番良い人が来たのではないかな。
 指揮者にも降板があった。本当は高齢なミッシェル・プラッソンのはずだったが、転倒して右腕を骨折してしまったため、稽古始めからアシスタントとして参加していた息子のエマニュエル・プラッソンが急遽父親の代わりを務めることになったのだ。しかし、彼は手慣れたもので、決して代役という印象ではない。東京フィルハーモニー交響楽団から、マスネ特有の艶やかな音を引き出している。なかなかの逸材。
 やっぱり、ヨーロッパって凄いな。もし日本で、誰かが急遽降板しなければならないような事態になったとすると、カバーやアンダー・スタディを立てていなければお手上げだ。「椿姫」や「カルメン」はともかく、いきなり「ウェルテル」の主役や指揮を出来る人材なんて、そう探せないものな。
 とにかく、相次ぐ降板で、チケットを買った人達を不安にさせたかも知れませんが、仕上がった公演のレベルは保証します。是非、劇場に足を運んで下さい。 


常駐する劇場とエキスパート達
 さて、「アンドレア・シェニエ」立ち稽古では、あらためて目を丸くした。手前味噌のそしりを覚悟で言うが、現在の新国立劇場のスタッフのレベルと合唱団のレベルは、間違いなく世界のトップレベルだと思う。もしかすると世界一かも知れない。

 演出家、フィリップ・アルローの回り舞台を駆使した演出は、とても複雑だ。回り舞台がまるでメリーゴーランドのようにぐるぐる回る真っ最中に登場や退場をしなければならなかったり、回り舞台の中で演技をしている人達と、そこからはずれて登場してくる人達との立ち位置の摺り合わせやタイミングを考えなければならなかったりする。
 イメージ出来ますかね?
「回り舞台がここまで回って来たら舞台に登場してください」
と言われて入ったら、回り続ける舞台の中で、もう自分の立ち位置がずれているんだ。それで別のところに歩かされて向きを変えさせられたら、自分がもうどこにいるか分からなくなっちゃうのが普通だ。こちら側に退場して下さいと言われても、
「え?どこよ?」
となるだろう。
 こんな風に回り舞台ほどイメージしにくいものはない。それだけではない、アルローの演出は、人の動きや出入りがとっても複雑なんだ。合唱団は、第2幕前半なんて全く歌がないのに、ずっと出ずっぱりなのである。

 その、超複雑な舞台の稽古をするのに、立ち稽古の稽古場では全員が乗れる回り舞台を組むことなど不可能なので、場面毎に道具を飾り直してから区切って稽古するしかない。その移行に関しては、頭の中でイメージするしかないわけだ。
 結構、お手上げって感じでしょう。ところがね、我が新国立劇場の舞台監督の「チビタ」こと斉藤美穂さんと、演出補の澤田康子さんの黄金のコンビが、素晴らしい連係プレイで信じられない速さで稽古をつけていくのだ。彼女たちは、舞台模型や紙で作った回り舞台の模型などを駆使して、みんなに丁寧に説明していく。それがとても分かり易い。
 しかも彼女たちは、
「今は全部分からなくてもいいですよ。あとでもう一回説明するからね。なんとなく、そういう動きがあるんだなあと思っていてくれればいいからね」
と全体的なことを掴ませておいてから、後で、個々の場面の個々の場所にいる人達をつかまえて、もう一度説明する。
「この音楽が鳴ったら、あなたたちはこっちに行くよ。その時に、あのグループが来るから、通らせてやってね。それから、あなたはこの椅子を持ってあっちに行くのよ。あなたは、この椅子を・・・・」
という具合に、個人個人の細かい動きまで指示する。

 そうした手際も素晴らしければ、そもそもこの複雑な群衆の流れを、彼女たち二人は、よくぞここまで頭に入れているなあと、その記憶力にまず驚いてしまう。その背景には、このスケジュールの中で、この水準までは絶対にやってみせるという信念と熱意がある。そして人の見ていないところでの勉強と努力がそれを支えている。まったく頭が下がる。

 新国立劇場合唱団のそれぞれの演目の人選は、全て僕がひとりで行っている。特に再演演目の場合は、なるべく経験者を優先して人選する。それが、こうした複雑な演出では必要不可欠なのだ。しかし、どうしても初心者が何人か混じることになる。その場合、経験者の立ち位置はそのままにしておき、初心者は、
「前回の誰さんのところにあなたが入ります」
という風に初心者を前任者の位置に当て込む。すると、面白い事が起こるのだ。
立ち稽古が進む内に、経験者がだんだん色々な事を思い出してくる。たとえば、
「前回、隣にいた誰ちゃんと、ここでコンビを組んで会話していたな」
とか、
「誰ちゃんは、ここでこんな表情でこんな演技をしていたよ」
とか、かなり具体的なことまで思い出すのだ。それが初心者をどれだけ助けることか。
 再演では、時間がないので、なかなか合唱団のひとりひとりの細かい演技指導までは出来ない。立ち位置と、全体にどういうコンセプトで演技するのかということを指し示すだけで精一杯なのだ。しかし、合唱団のメンバー同士での細かいケアが、それを補い合って、舞台稽古が進んで行く頃には、かなり初心者達の演技もサマになってくるのだ。
 再演は、初心者にとっては、本当に大変だと思う。音楽稽古は、それなりにとるけれど、立ち稽古の回数が圧倒的に少ない。しかも、合唱枠で押さえてあっても、ソリストの立ち稽古が間に合わなくて、休みになることも多い。あっという間に通し稽古が来て、舞台稽古に突入して、初日が来てしまう。

 でも、現在の新国立劇場合唱団の舞台感覚と、演技に対する適応能力は、お世辞抜きで世界一だと思う。初演の演出でも、演技のコンセプトが説明されて、さあやってみようと音楽付きで立ってみると、もう合唱団のひとりひとりは演技をしている。二度目には、隣の人との共同の演技に発展しているし、それぞれの演技が深まっている。
 僕は、立ち稽古のはじめにはあえて音楽的指示を出さない。僕が練習をつけていたテンポと、新しく来た指揮者とのテンポが違って、多少ズレても放っておく。みんなはズレたのは分かっているし、まずは演技をこなさないといけないから。
 それで、ある程度形が出来上がってくると、しかるべきタイミングを見て、僕の方から音楽的指示を出す。すると彼らは演技しながらきちんと直してくれる。そうやって、演技的にも音楽的にも、どんどん積み上がっていき、演技が音楽の面にも影響を投げかけ始める。切迫した場面では、音楽的にも切迫感が出てくるし、声の出し方ひとつとっても、演技が付いた方が音色や表情がふさわしいものになってくる。そうしたものがしだいに出来上がってくるプロセスに立ち会うのは、合唱指揮者のこのうえない楽しみである。
 僕は、勿論合唱指揮者として、
「ほら、こういう場面だからこういう歌い方をしなさい」
と指示を出すことを厭わないが、本当の理想は、合唱団員のひとりひとりがそうしたことを感じてくれて、僕が何も言わなくても自分たちでドラマに合った歌唱が出来るようになること。つまり、合唱指揮者が要らなくなるような状態が理想なのだ。でもね、今の新国立劇場合唱団は、結構それに近い状態にあるよ。

 こうしたことを可能にしているのも、新国立劇場が常駐の劇場であり、新国立劇場合唱団が常駐の合唱団であるお陰だ。特に再演をこのピッチで仕上げに持って行けるシステムを持っているのは、我が国では唯一ここだけだ。
 それにしても、チビタや澤田さんのようなエキスパートにリスペクトを持ちながら仕事が出来たり、合唱団の成長を喜びながら仕事している僕の毎日って、どれだけ恵まれているのだろうか。僕は、自分の著書で、マイルス・ディビスこそ究極の指揮者の姿だと書いたけれど、自分と一緒にプレイする音楽家が、自分を超えて、自分が尊敬できるレベルにまでならないと満足しなかったマイルスは、とどのつまり、最もしあわせな音楽家だったのだと確信するね。
 誰かを尊敬しながら生きるのって、人間(特に音楽家)の持つべき最も大切な感情だ。それは、究極のプラス指向であり、人を体の内側から健康にし、生きる希望を与え、自分をしあわせにし、そしてそのしあわせ感が波動となってまわりに撒き散らされるから、まわりの人達をもしあわせにする。
 ただ、それは簡単ではない。嫉妬のない人間だけが、それを成し得る。また、自分に自信が持てるだけ努力しなければならない。若い頃の自分には、まだ不安や、勝ったとか負けたとかいう感情や、様々なやっかみやジェラシーなどがあり、こんなにシンプルな精神状態にはなれなかった。そういう意味では、歳取って良いこともあるのだね。
 若い音楽家には言っておきたいね。とにかくこの世界で生き残ること。そして努力し続けること。そして最後には自我を捨てること。そうすれば、僕くらいの歳になると、何かがストンと落ちて、肩の力が抜けるんだ。

 久し振りに新国立劇場に戻ってきて、自分はこんなしあわせな環境にいたんだ、とあらためて気付かされた今日この頃です。
「アンドレア・シェニエ」に関しては、過去に書いた原稿があるので、載せておきます。オペラの説明だけでなく、アルローの演出意図にも言及しているが、今読み返すと、パリの無差別テロなどの事件ともかぶって、民主主義について、あらためていろいろ考えさせられるなあ。

「アンドレア・シェニエ」とフランス革命

ギロチン
 舞台上には緞帳がない。代わりにあるのは、左右から引き戸のように張り出してきて中央で合わさる白い壁だ。しかしこの合わさる角度は舞台面から垂直ではなく、下から右上に向かって約70度くらいの傾斜を持っている。
 この角度は、実はこの演出の舞台美術に共通する角度で、この壁が開くと舞台の中の家の壁や植木やポールに至るまで、全てこの角度で傾いている。つまり“傾いている世界”というコンセプトだ。
 そう考えてもう分かった気になっていると、第一幕終了する時に、聴衆はこの傾きのもっと深い理由を知らされることとなる。
 緞帳の代わりはこの左右からの壁だけではなかった。幕を終わらせるのは、舞台上方からシャキーン!という恐ろしい音を伴って降りてくる巨大なギロチンの 刃だ。この刃の角度が約20度くらい。つまりこのギロチンというのが、今回の演出の舞台コンセプトの根源である。このギロチンが降りると、すかさず左右の 壁が閉まってどの幕も終了する。

 第一幕は1789年のパリ郊外。コワニー伯爵家の一室。まさに革命前夜の貴族達の放縦な生活と世間の動向への不安が描かれている。パリから到着した修道院長が、第三階級の台頭などを語ると、集まった貴族達は不安にかられるが、すぐに気を取り直して「羊飼いの劇」に興じたり、ガヴォットを踊ったりと、自分達の世界に入り込むことで現実から逃避する。
 ここでオリジナルでは伯爵邸の外を通り過ぎる貧しい民衆がオフ・ステージで歌われるが、演出家アルローは彼らを舞台に登場させる。
 アルローはこう語った。
「貧しい民衆達は伯爵邸に乱入してきている。それなのに伯爵夫人は家令に、あの人達はもう行ってしまったのかと聞く。家令は、はいと答える。その後、民衆達による貴族への殺戮が始まるのだ。これはもう革命の波がそこまで来ているのに、それでも現実を見ようとしない貴族の姿をこう表現したのだ。」

 殺戮の場面を巨大なギロチンがさえぎって第一幕が終わると、第二幕までの間には休憩がない。約三分の間に合唱団員は衣裳の早替えをし、舞台は転換する。
 その間にドラムの音が聞こえ始め、白い壁の上に映し出されるのは、まずギロチンの設計図。それから設計図から抜け出るようにして、ギロチンの動画が現れる。
 これは聴衆にとってはかなり衝撃的だと思う。ギロチンは、フランス革命のひとつの象徴だが、これは戦いのための“武器”ではない。これは死刑のための道具だ。確かに最も苦しまずに人を殺すことが出来るとても合理的な道具である反面、その上にどんどん人を乗せ、首をポンポンはねていくという、見せ物としては最高であるが世にも残酷な道具である。革命のためだとは言え、このような道具を考案し、実行していったことを目の前に見せられると、やっぱり自分はヨーロッパ人とは感性が違うなあと思ってしまう。

回り舞台
 第二幕は、1794年のパリ。革命の第一歩が成功し、民衆は捕らえられてギロチンにかかる貴族達の姿を見ようと、お祭り騒ぎのようにはしゃいでいる。その様子を、演出家アルローはカーニバルにカリカチュアして表現した。だから幕が開くと馬鹿馬鹿しいカーニバルの状態。「アンドレア・シェニエ」第二幕冒頭をこのように表現した演出家は未だかつていなかった。
 舞台セットは第一幕から回り舞台の上に乗っている。これが第二幕では時計回りにぐるぐる回る。僕は、回り舞台を使った舞台を沢山知っているけれど、こんなに回る舞台は見たことがない。まるでメリーゴーランドだ。表と裏とでは別のセットが組まれ、反対を向いて別の風景を見せている間に合唱団もソリストも配置換えをし、また聴衆の前に別の姿を現しては消える。最初に舞台稽古を見た時、僕は、
「どこかでこんな風景を見たことがあるな。何だっけな。あっ、そうだ、これはディズニー・ランドのイッツ・ア・スモール・ワールドだ!」
と思った。
 大抵の舞台は、図面を見ただけである程度想像がつくけれど、回り舞台だけは実物を使って回してみないことには分からない。舞台監督達も、稽古場で模型を使って回してみながら頭を悩ましていた。

 オーケストラがやかましくサ・イラ(ラ・マルセイエーズと並んで最も有名な革命歌)を演奏するのに乗って、目隠しをされて並ばせられた貴族達の周りを民衆が狂気のように踊るシーンが回り舞台に乗って現れると、僕は考えてしまう。フランス革命は、確かに民衆が貴族の横暴な重圧から自らの権利を勝ち取った正義の戦いであったに違いない。しかし、もし自分が貴族の側に生まれついていたとしたら、恐ろしいことだったのだろうな・・・と。
 また、本で読んで知っていたことではあるが、1789年7月14日のバスチーユ牢獄襲撃は、正義の革命の始まりであると同時に、その後長い間続くフランスの混沌の始まりでもあるのだ、と再確認した。何故なら、それは無政府状態の始まりでもあり、その中に自己中心的な者や悪事をはたらく者がどさくさに紛れて居たとしても、もはやそれを取り締まる機関がすでに存在しないことでもあったのだ。誰かがそれに気づき始めたら最後、つまり何でもアリのアナーキーな世界が展開したわけである。

 自由、平等、友愛の三つの理想をトリコロール(すなわち青、白、赤)の三色に写しだし、熱い志を持ってこの大革命は始まった。しかし皮肉なことに、これまでフランスの経済は貴族の消費をベースに潤い、多くの平民も、貴族に直接的に、あるいは間接的に“仕える”ことによって生活を成り立たせていたのであ る。
 今やその経済、及び流通の流れは閉ざされた。パンの値段は高騰し、市民はこの革命によって実質的な利益を何も得ることがなかったことに気づき始める。当然、市民の間には不満が鬱積していく。それを解消するのが、唯一断頭台の露と消えていく貴族達の見物であったとすれば、理想はいつしか暗い復讐心に取って代わられている。すなわち、それが形になったものが、ロベスピエールによる恐怖政治である。
 さらに革命政府は、脅かされた貴族制度に必死で抵抗する隣国達、すなわちオーストリア、プロイセンなどからの軍事的な圧力に立ち向かわねばならなかった。資金は底を突き、男性は皆兵士に取られ、革命はしだいに挫折に向かっていく。

 そんな人々の失望感や挫折感を、アルローは第三幕冒頭に表現している。この場面は、オリジナルでは、まだそんなに失望している場面ではないので、歌う側からすると歌詞とのギャップに悩まされるところなのだが、演出家の意図はよく分かるので、合唱団員達みんなよく頑張っている。

女神の消えた絶望的闘争の向こうに・・・
 アルローの手が込んでいることを示す一例として、ドラクロワの「民衆を率いる自由の女神」の絵の使用が挙げられる。アルローは、最初これを第二幕のギロチンが降りた直後に出した。そして第三幕が終わったときにもう一度出すのだが、聴衆はそれを見た途端、「あれっ?」と思うのだ。よく見てみるとその絵の中から自由の女神が消えているのだ。すなわち、闘争の中から“理想”や“夢”が消えて、苦い挫折感のみが支配する世界になっていったことを表現している。

 圧巻なのはラスト・シーン。マッダレーナはアンドレア・シェニエと共に死ぬために、レグレイ夫人の身代わりとなる。
「僕たちの死は、愛の勝利だ!死に栄光あれ。共に!」
 その時、舞台後ろの方から合唱団と全てのキャスト達がゆっくりやって来る。彼らは全ての革命に関わった者達の亡霊である。アルローはこう言いたいのだ。
「この大革命の中で、全ての者達はアンドレア・シェニエであり、マッダレーナなのだ。」

アンドレア・シェニエは、愛国心に燃え、革命を支持していたのに、このオペラの中ではジェラールの偽りの告訴によって、史実では内部分裂の中で誤解され、 捕らえられて断頭台に登った。マッダレーナは自らの身を犠牲にしてやはり断頭台に登った。みんなみんな、革命の中で報われずして死んでいった。

 一体この革命の中で、生きている内にその恩恵を受けた者はいるであろうか?答えは否。
サ・イラ。その言葉の意味はこうだ。サは「それは」。イラは「行く」という単語の未来形。フランス語の「行く」という単語には「うまくいく」の意味もあるから、「未来はもっと良くなるだろう。」
 きっとみんな未来に希望を託して死んでいったのだ。きっと太平洋戦争中の特攻隊の人達が明日の平和な日本を祈願しながら死んでいったように・・・・。
 二人のデュエットの終わりで、二人と共に後ろの亡霊達全員も一斉にバタッと倒れる。この瞬間は吉本新喜劇みたいで、稽古場ではみんなで大笑いしたのだが、舞台に行ったらそう可笑しくもないのでホッとした。するとそれまで大人の背の高さで隠れていた子供達が立ち上がる。そしてホリゾントに映し出された明るい光りに向かって歩き出し、ポーズを取るところで幕。

 ちょっと「神々の黄昏」のラスト・シーンみたいだけど、アンドレア・シェニエというオペラからここまでメッセージを写し出してくれたアルローに、僕は心から喝采を送りたい。やはりフランス人なだけある。フランス革命に対するこだわりが違うな。

 こんなに混沌が支配し、長い間光りの見えなかった大革命に始まるフランスの歴史だけれど、それでもフランス人は、バスチーユ襲撃の7月14日を「パリ祭」として国中で祝い、革命歌「ラ・マルセイエーズ」を国歌に定め、自由、平等、友愛のトリコロールを国旗としている。フランス革命はフランス人のアイデ ンティティーの根源になっているのである。
 それは何故かというと、やはりなんと言っても、民衆が自分達で立ち上がり、自分達の手で試行錯誤しながらでも自分達の国を作ろうとした、いわゆる民主主義の原点がそこにあるからだろう。それを大切に守っているフランス人は、同時に“民主主義の痛み”というものをどこの国民よりも良く知っているのである。 その“痛み”が、アルローをしてどの幕も殺戮で終わるこの強烈な演出を創り出したと言えるのである。アルローの舞台にはフランス人の熱い血が流れているの である。



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