アンドレア・シェニエ初日間近

 

三澤洋史 

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アンドレア・シェニエ初日間近
 第3幕。フランス革命がしだいに袋小路にはまりつつある。貴族を片っ端から捕まえ、断頭台へと送り込むロベスピエールによる恐怖政治も行き詰まり、自国の貴族制度が脅かされるのを恐れた、英独など周辺の国々も、革命政府へ軍を差し向け始めている。
 ジェラールが市民に向かって演説する。
「フランスは涙と血を流している。あなたたちの首飾りなどの金品と、兵士となってくれる子供を是非差し出して欲しい」
 すると、ひとりの老婆が15歳の男の子にもたりかかりながら前に進み出る。自分の長男とその息子を革命で失ったマデロンは、ひとりだけ残って自分の世話をしてくれている孫を差し出すというので、一同感動する。
 ジェラールがお礼を言ってその少年を連れて行こうとする時、少年がもう一度振り返ってマデロンの胸に飛びこみ、それから振り切るようにして離れて行く瞬間は、何度見ても涙を禁じ得ない。
 アルローの演出はさらに残酷で、舞台裏からカルマニョール(革命歌のひとつ)の合唱が流れる中、十字架が並んだ墓場をマデロンがさまよう場面を作った(もちろんト書きにはそんなこと書いていない)。その孫も戦死して、彼女が独りぽっちになってしまうことを暗示しているのだ。

 そのマデロンを演ずる竹本節子さんが熱演。彼女は、びわ湖ホールの「さまよえるオランダ人」でも素晴らしいマリーを演じてくれた。ジェラール役のヴィットリオ・ヴィテッリは、竹本さんの声のことを、
「日本人で、これだけ西洋人的なしっかりした発声をする人は稀だ」
と評価している。それで、イタリア人であるヴィットリオは、僕に通訳するように頼んで、
「留学したのかい?先生は誰?」
と本人に聞いたのだが、
「いえ、留学もしていないし、先生も日本人です」
と彼女は答えた。ヴィットリオは心底驚いていたようだった。

 そうだよな。僕が東京藝術大学に教えに行っていた頃も、学生達で成績の良い者達は、みんな持ち声が良かったり、先天的に発声が身についていたりして、メソードを誰かに習ったという感じではなかった。支えというテクニックひとつとっても、プロでもよく分かっていない人が少なくないのだ。大きな声さえ出れば、プロになれるという常識が、未だに社会に蔓延している。残念ながら、日本人の認識はまだその程度。
 ヴィットリオと発声の話になった。
「声量は大事ではないんだ。音色だけなんだ」
と言う。我が意を得たり。僕も答える。
「音色を聞けば、どのくらい支えが出来ているか(appoggiareのテクニック)、どのくらい音域の管理が出来ているか(girareのテクニック)、僕には一目瞭然だ」
「おお、マエストロ、分かってるやんけ。横隔膜は、圧力を加えていても、決して硬くなってはいけないんだ」
「そうそう、風船のようにね」
「全ては、ナチュラルでないといけない」
 彼は、僕がどんなにtu(君)で呼び合おうよと言っても、
「俺のことはtuで呼んでくれ。でも俺はあなたのことをリスペクトを持ってマエストロと呼ぶ」
と言ってきかない。
「でも、僕はヒロだからね。マエストロと呼ぶのは構わないが、気が向いたらヒロって言ってね」
と言っといた。
 
 ヴィットリオの発声こそ、今の日本人が学ばなければならないと思う。それ以外のメイン・キャストも、シェニエ役のテノールであるカルロ・ヴェントレ、マッダレーナ役のソプラノであるマリア・ホセ・シーリの発声も理想的で、粒の揃った公演が期待できる。
 また、ルーシェという脇役で参加しており、ジェラールのカヴァーも務めている上江隼人(かみえ はやと)さんの発声は、僕は現代の日本人のバリトンの中ではダントツだと思う。彼は、先日僕が観に行った、二期会「トロヴァトーレ」公演で素晴らしいルーナ伯爵を演じていた。
 彼の声だって「声量が足りない」なんて評価する人が少なくないんだぜ。全くいやんなっちゃう。日本人ってなんて馬鹿なんだ!あの声帯への圧力のかけ方。あの鳴らし方。あの無理のない均等な息の送り方。あれこそが理想なのだ。あれ以上大きな声を出そうとしたらね、出るんだけど、音色は汚くなるし、声帯に過度に負担はかかって喉を壊しやすくなるし、良い事は何もないんだ。
 西洋人は、確かに上江さんより強靱な喉を持っている人たちが少なくないかも知れない。でも、その人たちよりも「声量がない」と言われても、上江さんは、彼としては最良の声帯の使い方をしているので、それ以上出してはいけない。それが日本人の喉の限界だったら、それに甘んじないといけない。オリンピックに出るわけじゃないのだから、一番大きい声を出した者が優勝するとかいう世界ではないのだ。いつになったら、日本人がこの点を理解してくる時が来るのだろう?聴衆も、関係者も、本当にレベルが低い!

 終幕は、断頭台に行く前のシェニエとマッダレーナの2重唱の間に、舞台後方から全ての出演者がゆっくり歩いてきて、最後に全員倒れる。その中を子供達がフランス国旗と銃を持って後ろに駆けていき、最後の和音と共にポーズをとってシルエットになる。この瞬間も実に感動的。
 みんなみんな革命で命を落としていった。生きながらえた者も、彼らが生きている間は、争乱や価値の転動、貧困などで混沌とした時代を行き続けなければならなかった。結局、革命の恩恵を受けられた者は誰もいなかった。みんなみんな痛みを共有していた。
 それでも、革命の理想~すなわち民衆の手で新しい時代を切り開いていくという価値観は、次の子供達の世代に受け継がれていって、現代の自分たちがあるのだ。このラスト・シーンを見ると、いつもその事を考えさせられる。
 だから僕達は、この民主主義の世の中が、当たり前にあるのではなく、先人達の犠牲の上になりたっているのだと認識し、感謝を持って受けいれ、さらに、自分たちの子孫により良い世界を残してやるべく最善の努力をしなければならないのだ。たとえどんな痛みを伴っても・・・・。

 僕は、この「アンドレア・シェニエ」の演出を観る度に、自分は前世、フランス革命に参加していたのではないかと思う。でなければ、これほど胸がたぎる理由を説明できないのだ。

「アンドレア・シェニエ」は、新国立劇場オペラ・パレスにで4月14日木曜日に初日の幕が開き、23日土曜日までに4回公演。

魔女狩りの裏で
 最近は、テレビをつけると、いつも誰かが何かを暴いている。不倫だとか賭博だとか金をあげたとかもらったとか・・・。それで、みんなでよってたかって本人を責めて、謝罪の記者会見にまで持って行き、
「申し訳ございませんでした」
と土下座的な涙の会見をさせる。

 こんなのばっかりなんだけど、こうした土下座会見の頻度がやたら多いように感じるのは、みんなが喜んで見るので、マスコミとしたら確実に視聴率を稼げる良いネタなんじゃないかな。それで、誰かが仕組んでどんどん次のスケープゴートを探して、ねらいをつけておき、いつどのタイミングで表沙汰にするのが最も効果的か見計らって、バーンと出すのだ。
「ヤッターッ!当たったぞ!」
ってね。
一度暴かれたら、どのテレビ局も均等に稼げるから、こんなうまい汁はない。僕には、これって、“マスコミが主導する魔女狩り”のようにしか見えないんだけれど。

 バトミントンの、2012年ロンドンオリンピック代表の田児賢一選手(26)と桃田賢斗選手(21)の賭博事件の報道は、特に見ていて気分が悪い。あんなに大騒ぎするほどのものかい?新聞の片隅に載せれば充分だよ。マスコミはみんなそろって、
「みんなの期待を裏切ってけしからん!強ければ何をしてもいいのか?」
の大合唱を繰り広げているけれど、賭博って、そんな極刑に値するほどの大犯罪なの?殺人、盗み、詐欺、恐喝などと同等に扱われるもの?「カジノは文化だ」なんて言っている人もいるよ。人に迷惑をかけるわけでもなし、自分で自分の金を好きに使って何が悪いと言われれば、特に僕には反論する気も起きないね。

 よく分からないのは、マスコミの倫理観だ。法律に照らし合わせて、合法ではないからけしからんという価値観なんだよね。でも、賭博がそんな悪いものだったら、合法賭博と違法賭博なんてわけのわからない線引きなんかしないで、全部ダメということにすればいいのに。
 そもそもだよ、競輪、競馬や、ボートレースは何故合法なのだ?しかも地方自治体の重要な財源になっているというのが、昔から一番理解できない事だ。僕の親父は大工だったけれど、そういうものにハマッて身を持ち崩した職人達の話を子供の頃から死ぬほど聞かされていた。それから見れば、何人かで一緒に野球見ながらお金を賭けて、
「ちぇっ、千円負けた!」
なんて言っている方がよっぽどマシだが、それは違法なので、バレると警察に捕まるのだ。何故?その倫理基準て、おかしいだろう。
 パチンコだって、ある意味賭博だ。儲かったパチンコ玉を即お金に換えるのは違法という。だからパチンコ店では直接換金しないで、なんか細工しているけれど、おい!警察よ!違法ならば、そんなカラクリを蹴散らして全員逮捕しなさい!そしてその賭博行為を幇助したパチンコ屋を全て閉鎖に追い込みなさい!

 そんな風に、こと賭け事に関しては、善悪の基準があまりにグチャグチャだ。ところで、株を持っている人はどうなの?汗流して働いているわけじゃないのに、ただ端から見ていて、
「上がったぞ!」
とか
「下がり始めた。早く売らなきゃ!」
なんて一喜一憂している。これってギャンブルとどう違うの?少なくとも、投資家の持ち株の会社でコツコツと物作りに励んでいる職人とは、モチベーションの質も高さも随分違うと思う。
「田児選手がカジノで一千万負けた、庶民感覚からしたら許せない!」
なんてコメントしている人は、同じ事を投資家に言ってよ。投資家の方がもっと一般庶民の感覚から離れた派手なお金の使い方をしているだろう。こっちの方がずっとリスキー。でも合法なんだ。それどころか、ある意味、資本主義の根幹として奨励すらされている。

 要するに、決め手となるのは、法律に照らし合わせて合法か違法かということなのか?では、「五体不満足」という本を書いた乙武洋匡(おとたけ ひろただ)さんの不倫問題はどうなんだ?彼は、マスコミに出たことによって議員への出馬を断念したそうであるが、マスコミはそれでも飽きたらず、作家生命をも抹殺しそうな勢いだ。
 でも、ちょっと待て!不倫は、人道的にはともかく、現代日本においては、法律的には何ら問題ないのだよ。まさか、「姦淫した者は石打ちの刑」という古代ユダヤの法律を持ち出すのではないだろうね。
 それを裁いているテレビ局や出版社の人達はどうなんだ?みんな品行方正で、キリストから、
「あなた達の中で罪を犯したことのない者から石を投げなさい」
と言われても、みんな平気で石を投げられるほどなんだね。社員の中に不倫している者など誰もいないのだね。全員清らかで聖なる会社なんだね。ならば、どうして同じ雑誌の中で、不倫がけしからんという雑誌記事の何ページかあとに、エッチなグラビア写真や文章を平気で載せられるのだろう?

 僕はね、マスコミが「不正を暴く」と言っている時に掲げる倫理観に偽善的なものを感じるのだ。それよりも、「出る杭は打たれる」という日本的な「やっかみや嫉妬心を許容する文化」が支えになっているような気がする。
「いい気になってる」
というのが魔女狩りのモチベーションになってはいないか?だって、血祭りにあげられる人って、必ず他の「可もなし不可もなし」の人達より抜きん出ているだろう。つまり、人にはない才能があるだろう。それをつぶそうとするエネルギーが働いてはいないか?

 音楽史を紐解いてみると、もしワーグナーが現代の日本に生きていたら、バイロイト祝祭劇場建設への道も、「ニーベルングの指環」上演への道も、マスコミによって閉ざされていたに違いない。もう、叩けば埃だらけの人生だからね。
 政治運動で国外追放されたワーグナーをかくまってくれた大富豪ヴェーゼンドンク氏の妻を寝取ったかと思うと、名指揮者ハンス・フォン・ビューローの妻だったコジマを横取りしてしまったり、やりたい放題。
 その上、金銭感覚も庶民のそれを著しく逸脱している。巨額の借金を重ねているのに、超豪華な家具を取り寄せてみたり、例を挙げたらきりがない。何度テレビの前で土下座会見しなければいけなかったか。でも、マスコミには、こうした才能を握りつぶす権利があると、みなさんは考えますか?ワーグナーの才能はつぶされてしかるべきものだったと思いますか?

 そんなことより、もっと大事なことがある。そうした暴露記事ばかりが国民の大問題になっている間に、まるで水面下のように憲法改正論議が進んでいる。よく、
「これは国民の間での論議が充分につくされていない」
とか言われるが、安保法制の時だって、国民の間で論議しているところなんか見たことないじゃないか。本当は、マスコミこそ、その議論の機会を提供することに一生懸命になるべきなのだ。民放でも積極的に一般から募集した人達による討論会を行うとかね。ヨーロッパの諸国では、実に盛んなのだよ。

 僕は、以前に何度か言っているように、基本的には憲法改正に賛成である。というより、現在の日本は、すでに何十年も前から国家として憲法違反を犯している。「陸海空軍はこれを保持しない」と言いながら保持しているのだから。子供でも分かることを何故放っておくのか理解出来ないのだ。簡単だ。改正して「陸海空軍はこれを保持する」とだけすればいいのだ。何も起きない。
 逆に、この絶対的平和憲法遵守を貫くとしたら、(それでもいいんだけれど)国民はしっかり覚悟しなければならない。つまり一切の軍隊を放棄すること。自衛隊だけではなく、日本国内に駐留する米軍もだ。憲法には、日本の陸海空軍はというくくりはなく、むしろ「一切の」ということだから、絶対的平和憲法を歌うなら、米軍もいてはいけない。米軍がいないのだから、いざ何かが起こっても、すぐ米軍が助けに来てくれるなどという甘い幻想を抱いてはいけない。
 絶対平和を貫くのだったら、外国からどんなに攻撃されても一切反撃できない。敵国に上陸され、国民が虐殺され、婦女子はレイプされても、耐えるしかない。その覚悟が出来ないのだったら、最低限の軍備は持つべし。それで、軍備を持ちたいのだったら、憲法は改正すべし・・・と実に論理は明快なのである。

 ただ・・・僕は、今の文脈での憲法改正には絶対反対だ。何故なら、あんな小手先の安保法案の憲法解釈などするものだから、この上本当に憲法改正など行ったら、どこまでの拡大解釈が許されてしまうのだろうという不安を国民に与えてしまったからだ。
 この立憲国家にあって、やってはいけない究極的な愚行を、安倍首相はやってしまったのだ。その延長上に憲法改正が容認されたら、日本国民は世界中の国から笑いものだ。どんだけ政府にナメられても、
「はいはい、お上のやることですから」
と、日本国民はおとなしく従うのだ、と思われてしまう。
 ここはきちんと線引きし、
「変な憲法解釈は今後絶対しません。書いてあることは、全て真っ正面から理解し実行します」
と安倍首相に約束させてから、しかるべき手続きを始めなければ、僕は決して納得しないね。
 そういう議論が国民から起きなければいけない時期に来ているのに、マスコミは一体何をやってるんだ。一番大事な時に一番大事なことから逃げているマスコミの態度こそ非難されるべきだ。
 一方、この国の若者は、バラエティ番組やお笑い番組やスポーツ番組ばかり見ていて、政治に全く関心がない。実に憂うべき事だ。外国に行ってみなさい。どの国でも若者達が普通に政治談義をしている。そこについていけないと、ひとかどの人間としてみなされないほどだ。そういう風土の中からこそ、きちんとした選挙や議会政治や民主国家のあるべき形が生まれるのだ。

 だからマスコミには本当に頑張ってもらいたいのだが・・・もしかして、そういう風になるのを意図的に妨げてない?国民を愚かなままでいさせたいの?



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