なんだか多忙な今日この頃

三澤洋史 

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なんだか多忙な今日この頃
 新国立劇場では、「ローエングリン」公演が6月4日土曜日に終わったのを最後に、今シーズンの全ての演目は終わって、早い夏休みに入った。しかしながら、長野のスクール・コンサートが引き続きあったし、先週初めまで、文化庁のスクール・コンサートのワークショップのために、4人の歌手を引き連れて、ピアノを弾きながら7校回っていた。
 その7校を、今度は30人の合唱メンバーと共に全てコンサートをして回らなければならない。今回は、演奏旅行ではなく、神奈川県を中心とした日帰りコース。朝がとても早いうえに、通勤ラッシュの満員電車に揺られて現地到着なので、着いただけでもう疲れている。でもね、元気な子供達の顔を頭に描いただけで、これではいけないと思って、エネルギーを放射する。
 こんな風に大変になるのが分かっていながら、スケジュール的には午後及び夜が空いているもんだから、つい仕事を入れてしまう。それで、気が付いたら、なんのことはない、最近で最も忙しい日々となっていて、家のパソコンのメールを開く時間もない。

先週の水曜日からのスケジュールを書き出してみよう。

 6月15日水曜日10:30。昨年文化庁でコンサートをやった神奈川県の東林中学校のPTAの人達と共に新国立劇場のバックステージ・ツアーをする。この学校で僕は10月29日に講演会をすることになっているので、その打ち合わせも行う。
14:00-17:00。翌日から始まるコンサートの最後の練習。
19:00-21:00。東京バロック・スコラーズの練習。

 6月16日木曜日。日吉駅8:00集合。中原養護学校で10:10-11:10コンサート。勿論その前に練習。
午後は、新国立劇場に行って、大森いちえいさんと、愛知祝祭管弦楽団「ラインの黄金」のアルベリヒの合わせ。
19:00-21:30カトリック関口教会(東京カテドラル)において、7月分の主日ミサのための聖歌の選曲会議。

 6月17日金曜日。辻堂駅8:15集合。緑が浜小学校で10:30-12:00コンサート。
午後は、また新国立劇場に行く。前川依子さんと川村章仁さんと共に、ミュージカル「ナディーヌ」の合わせ。その後、同じスタジオを借り直して、今度は東京バロック・スコラーズのコンサートのために國光ともこさんと合わせ。そして、群馬の実家に泊まりに行く。

 6月18日土曜日。朝、母親のお見舞いに行き、そのまま10:30に群馬県高崎市の新町駅に行く。新町歌劇団の「魔笛」公演の舞台美術を担当してくれる美術家三木瑛子さんを迎えるためだ。三木さんについては後で話す。まず団長の佐藤さん達と一緒に新町文化ホールを見学し、それから材料を仕込みにホームセンターや生地屋さんを回る。そして最終的に僕の家でそれらの材料を降ろす。個人経営の建設業を営んでいた親父の作業場が空いているので、そこで三木さんには作業をしてもらう。
16:00-18:00で、新町公民館において子供達の練習。子供達には、演奏会の第1部「発声のこころえ」にも出演してもらうが、今日は「魔笛」のお芝居にのみ集中。子供って本当に呑み込みが早い!
19:00-21:00。新町歌劇団の通常練習。その晩東京に戻る。

 6月19日日曜日。午前中は、自分の人生にとって、とっても大切な用事があった。このことについて書きたいのだが、今書けない事情がある。残念。その内事情が変わったら書ける時が来ると思う。ヒントは、カトリーヌ・ラブレに関係がある。
その後、都心に出て、14:00-21:00で「ナディーヌ」の集中稽古。午後枠で、ナディーヌ役の前川さん、ピエール役の川村さん、ニングルマーチ役の秋本健さんが加わって、全員一気にテンションが上がった。第2部放送局の場面が、結構仕上がってきた。
 夜は、振り付けの佐藤ひろみさんがイニシアチブをとって、「素敵な妖精」のパネル操作の練習や、細かい場面の練習。これで、第1幕の合唱がらみのシーンはほとんど網羅した。今日一日で、団員達みんな、
「おっ、結構出来てきたぞ!」
という雰囲気になってきたね。

 6月20日月曜日。横浜線中山駅8:15集合。竹山小学校で10:30-12:00コンサート。その後帰ってきて、この原稿を書いている。本当は今晩も「ナディーヌ」の通常練習があるのだが、メールの返事や、いろいろな作業がたまりにたまっているし、過労気味なので、今晩は初谷敬史君と佐藤ひろみさんに任せて、休むことにした。

山下さんのこと
 6月18日土曜日の朝の話に戻る。「魔笛」の舞台美術をお願いする三木瑛子さんを新町駅に迎えに行くと、新町歌劇団団長の佐藤さんの口から信じられない事実を告げられた。それは、新町歌劇団前団長の山下哲夫さんの訃報であった。
 山下さんは、団長というだけではなく、これまで新町歌劇団が行ってきたほぼ全ての舞台作品のための大道具小道具を製作してくれていた特別な人物であった。別に専門の勉強をしたわけではないのだが、天性の才能なのだろう、僕が練習中に、
「こういうの欲しいな」
と漏らしただけで、次の練習の時にはもう小道具を作り上げて持って来る。
さらに、我が儘な僕が、たとえば、
「うーん・・・これでもいいんだけど・・・もうちょっとこうなるともっといいな・・・」
とつぶやいたりすると、次の練習時にまた作り替えたものが出来ている。
 そんな風だから、試行錯誤した挙げ句、ニーズにピッタシ合ったものが出来上がるのだ。いつの間にか、山下さんの存在は、我が団にはなくてはならないものとなり、様々な公演を重ねる毎に、彼の作品は量を増していった。山下さんがいる限り、どんな作品をどんな演出でやろうと、この先ずっと問題はないように思えた。

 だが数年前、突然山下さんは食道癌で倒れた。それで、気管を切開してしまって、声を発することが出来なくなってしまった。それから今日に至るまで、僕は、残念ながら彼とは一度も会うことが出来なかった。僕は、佐藤さんを通して再三、
「声が出なくてもいいから、一度だけでも山下さんに会いたい」
とお願いしたのだが、山下さんはそんな自分の姿を見せたくなかったのだろう。僕だけではなく、歌劇団の誰とも会うことなく、孤軍奮闘で闘病生活を送っていた。それがついに力尽きてしまったのである。最後は肝臓だったと聞いている。

 彼の亡くなった日が、よりによって三木瑛子さんが新町駅に降り立った日であるということに、僕は不思議な縁を感じざるを得ない。三木さんのお父さんは、僕がよく指揮しに行っている東大音楽部コール・アカデミーOB会アカデミカ・コールのメンバーである。職業は弁護士。彼には3人の娘がいるが、これが3人とも才女なのである。
 長女は、お父さんと同じ東大を卒業して弁護士になっているという。新町に来たのは次女の瑛子さん。彼女は東京藝術大学美術学部卒業。そして、三女の蓉子さんも芸大なのだ。だが彼女は音楽の方でピアノ科。現在アカデミカ・コールの専属ピアニストをしているので、僕とこれまで最も接点があったのは蓉子さんなのだ。それにしても、なんというエリート一家!
 次女の瑛子さんに出会ったのは、先日のパリ演奏旅行の時。僕の「3つのイタリア語の祈り」のアンサンブルの中で三女の蓉子さんにはピアノを弾いてもらっていたのだが、ある晩、三木家も交えて夕食を共にした時に、旅行に同行していた瑛子さんを紹介されたのだ。

 僕は、今度の7月の新町歌劇団の演奏会のことで悩んでいた。山下さんが倒れた後、すでに大道具小道具の揃っている「おにころ」は2度上演したが、それ以外の新しい舞台作品はやっていない。でも、もう道具を作ってくれる人はいないから、新しい作品にはこのままでは取り組むことが出来ないのだ。こんなことでは、新町歌劇団には、過去はあっても未来はないではないか!
 とにかく「魔笛」はなんとかしなければならない。僕は、歌劇団のみんなには、
「今回の魔笛の道具は自分で作るから」
と言っていた。山下さんのようにうまく作れる人がそばにいないだけじゃなくて、僕は我が儘だから、他人が作ったなまじのものでは満足しないのだ。だったら、下手クソでも自分の好みで作った方がマシと思ったのだ。
「でもなあ・・・ペンキなんかこれまでに一度も塗ったことがないのに出来るはずないよな・・・・」
そんな時に三木さんに出会ったというわけ。しかも彼女が、
「最近『ジャングル・ブック』というミュージカルを手がけたんです」
と言って、スマホから見せてくれた写真が、まさに僕が「魔笛」でイメージしていたものそのままだったのだよ。僕が飛びつかないはずがない。

 その三木さんが新町駅に降り立った約1時間前に、山下さんが息を引き取ったのだ。僕は、神様のお告げをしっかり受け取った。僕は、まだ新町歌劇団から手を離せないし、手を離すべきではない。新町においての僕の神様からの使命はまだ続くのだ。その証拠に、神様は必要な時に必要な「助け手」をこうして用意してくれるのだ。
 新町での子供の練習と大人の練習との間の1時間で、僕は家に帰って来たばかりの山下さんに会いに行った。山下さんの顔は、僕の知っている柔和で穏やかな山下さんのまんまだったので嬉しかった。僕は、心を込めて、
「山下さん。本当にありがとう!山下さんがいたから、僕は自由にインスピレーションの翼を広げ、いくつもの作品を生み出すことが出来ました。我が儘ばかり言ったけれど、嫌な顔ひとつせずに、それどころか嬉々として、山下さんは僕を助けてくれたね。本当に本当に感謝しています!」
と祈った。山下さんの顔は微笑んでいるようだった。ホントにホントに、僕にはそう感じられた。

 奥さんが言った。
「入院中、看護士さんとかみんなに『おにころ』のDVDを観ろって言って渡すんです。だから看護士さん達みんな『おにころ』を見て感動しているんですよ。それから三澤先生の本(オペラ座のお仕事)は何度も何度も読んでいました。前回の群響との公演では、車椅子引いて連れて行くから観ましょうよって言ったんですが、車椅子の姿を人に見られたくなかったんでしょうね。でも、DVDが出来上がったら、今度はそれを毎日毎日観ていました。それでお願いがあるんです。『おにころ』の中の『神流川』を葬儀の時に歌劇団の人達に歌って欲しいんです。あの曲が一番好きだったから・・・・」
 佐藤さんは、
「いやあ・・・歌いたいんですがね・・・歌えるかな・・・声なんか出なくなっちゃうかもねえ・・・・山下さん、近すぎるんでね・・・考えただけで駄目な気がするんですけどね・・・」
と当惑している。

 山下さんと名残惜しくお別れすると、それから僕は、自分の家で作業している三木さんの様子を見に行った。パパゲーノが首を吊ろうとする木の幹を作っている。女だてらに電動ノコギリを持ってサブロクの合板を切っているところ。いやあ、たくましいなあ。美術家って大工と変わらないなあ。
 晩になって、集まってきた歌劇団の人達に、佐藤さんから山下さんのことが告げられた。例の葬儀での歌の件は、やっぱり故人の希望通り「神流川」を歌うことになった。うまく歌うことが目的ではないのだから、泣いて声が出なくなったら、それはその時で・・・と、みんなは納得してくれた。まあ、本当に曲にならないかもしれないけれど・・・天上で聴いている山下さんが喜んでくれればいいじゃないか。

最後に、もう一度言わせて下さい。
山下さん!本当に本当にありがとう!どうか安らかに・・・そして、必ず、もう一度会おうね!

モーツァルト最後の5年
 東京バロック・スコラーズの東日本大震災復興支援チャリティーコンサートが近づいている。実際には、この演奏会を決めた後、熊本で大地震が起きたので、みなさんからいただく寄付金の半分を熊本の方に送ろうということになった。
 この演奏会のタイトルは「モーツァルト最後の5年 晩年? 新境地?」というちょっと謎めいたものだ。これは、バッハの学者としても著名なクリストフ・ヴォルフ氏が最近出した本、礒山雅訳「モーツァルト最後の4年」(春秋社)からアイデアをいただいた。
 モーツァルトは、彼の生涯の終わり近くになって、しだいに作風を変化させてくるが、それは彼が死を意識してくる「晩年」の境地からくる、というのが、これまでの一般的な受け取り方であった。
 それにヴォルフ氏は異を唱え、それはむしろ、モーツァルトが、彼の天才性をもって切り開いた新境地であると考えた。その最中に、モーツァルトは不本意に死を迎えてしまったというわけだ。
 さて、演奏会の前に、僕はあえてネタバレをしてしまおう。僕の見解はこうだ。ヴォルフ氏の研究には最大限の敬意を払う。そして、かなりの部分を僕は受け入れている。しかしながら、それでもなお、たとえば1791年すなわち彼の死の年の作品群を見ていく限り、僕には作品の中に、しだいに忍び寄ってくる死の匂いが感じられ、やはり弱冠35歳で他界した彼にも、「晩年」と呼ばれるものがあったと思うのだ。
 その予兆のようなものは、「最後の4年」ではなく、いくつかの傑作歌曲を書いた「最後の5年」すなわち1787年に始まるような気がする。今回、演奏会の冒頭に、國光ともこさんの歌う「夕暮れの情緒」KV 523を冒頭に持ってきたのもその理由からだ。6月17日午後、國光さんと合わせ稽古をしたが、この陰影のある歌曲を國光さんは見事に描き切っている。やはり、僕が見込んだ通り、内面的な優れた歌手である。

Ave verum corpusとシスター森という逸材
 この演奏会の第2部で、やはりモーツァルトの死の年1791年に作曲されたAve verum corpus KV 618という、短いながら合唱曲の超名曲が演奏される。この訳詞をめぐっては、とても有意義な議論が行われ、大変勉強になった。このテキストの最後のフレーズは、文法的に複雑なところにもってきて、教義的にも難解で、沢山の訳が出回っているそのほとんどが誤訳といっていいものである。
 実は、恥ずかしながら僕も誤訳をするところであった。歌曲のドイツ語に対してはある程度自信のある僕も、ラテン語となると、やはり辞書あるいは文法書を片手に訳さないと心許ない。Ave verum corpusの最後のフレーズは、あまりに難解なため、手に負えず、巷に出回っているいくつかの訳を参照にしながら、こんな感じかな、と安易に訳してしまった。
 それに異を唱えたのが、我がTBSの団員で、援助修道会というエリート修道会のシスター森裕子さんであった。元々国立音楽大学楽理科を卒業した彼女は、ラテン語に精通しており、丁寧に説明してくれたのだ。以下、その要約を示す。

 問題の文章とは最後のフレーズ。以下のものである。
Esto nobis praegustatum in mortis examine.

estoは、be動詞の2人称単数・未来命令形。
nobisは、「私たちに」。
praegustatumは、praegustare(前もって味わう)という動詞の過去分詞。
mortis examineは「死の試練」で、inは、英語のin outのinではなく、むしろatとかに近い「~において」という意味。

 という材料が揃ったところで、さて料理にかかりましょう。esto(be動詞)は、2人称に対する未来命令形ということだが、その命令する相手である「あなた」とは、「まことの御からだ」である。
 つまり、「まことの御からだ」に対して、あなた自身が、「前もって味わわれるものとなってください」ないし「前もって味わわれてください」と命令ないしは懇願されているというのが自然な直訳であると、シスター森は指摘する。
 しかしながら、「私たちに味わわれてください」などという受動態的表現は、なかなか日本語として理解しがたい。それならばむしろ「私たち」を主語のように扱い、「私たちが味わうことができますように」とした方が、「こなれた」表現であろう。
 ということで、次のものが、シスター森の最終的な訳となった。ここに全文を記す。

Ave verum corpus
めでたし、まことの御からだよ。

natum de Maria Virgine.
おとめマリアから生まれ、

vere passum immolatum in cruce pro homine:
人間のために、まことに苦しまれ、十字架に架けられて捧げられた方。

cujus latus perforatum
その刺し貫かれた脇腹から、

unda fluxit et sanguine.
水と血とを流された方

Esto nobis praegustatum in mortis examine.
あなたを拝領し、
私たちは死の試練において、
前もってあなたのいのちを味わうことができますように。
 その「あなたのいのち」であるが、「まことの御からだ」すなわちキリストの体は、受難を受け、死んで葬られ、3日目に甦り、そして天にあげられたわけであるから、その全てを味わうという風に解釈するならば、「天上の歓びまで死の試練の最中に前もって味わう」という風にまで拡大解釈することも不可能ではない。

 さて、この訳だけでは、信者の方が圧倒的に少ない団員達の本当の理解が得られるかどうか分からなかったので、僕はさらにシスター森にお願いして、団員向けの説明文まで書いてもらった。シスターの許可を得て、ここにその説明文を特別に記してみる。
(以下、シスター森の文章)
《Ave verum corpus》のテクストを、私がどのように理解しているか、お分かちします。文章の流れの都合上、皆さまの既知のことも多々含まれていると思いますし、教会内部にしか通じないような奇怪な表現もあるかと思いますが、どうぞ、歌のじゃまにならない程度に読み流してくださいませ。

 「まことの御からだよ」と呼びかけているのは、ミサの中でキリスト信者が、パンとぶどう酒を食するという〈シンボル〉の形で表現しているキリスト・イエスのからだのことでしょう。ここでは《Credo》の中の「子」イエスに関する文言のダイジェスト版のように、イエスがどういう存在なのか、その要点が述べられているように見受けられます。キリスト信者は、イエスがそのように人生を通して、特にその死を通して、神と人との和解のために、またそれによって人々を十全に生かすために、自分のすべてを捧げ尽くしたのだと伝え聞いて信じる者ですが、いわゆる「聖体」を拝領するのは、そのようなイエスを受けとめ、イエスの成し遂げたことが、今地上にある者たちのうちにも実現するようにと願ってのことです。それが「前もって味わうpregustare」ということばが指し示していることではないかと考えられます。
 なお、イエスの脇腹から水と血が流れ出たことは、バッハ《ヨハネ受難曲》ではエヴァンゲリストが歌う通り、『ヨハネ福音書』19, 34に書かれています。古代教会の(教父と呼ばれる)文筆家たちは、イエスの脇腹から流れ出た水と血に教会の始まりを見て、洗礼と聖体が暗示されていると解釈しました。《Credo》には含まれていないことであっても、《Ave verum corpus》のテクストの中で言及されるのは、この歌が聖体賛歌であるがゆえの特徴であると思います。
 またこの《Ave verum corpus》の歌詞が生まれた中世(14世紀くらい?)においては、現代よりも、死がいっそう身近にあったのではないかと思います。それゆえに自分の死を思い、その死の試練の時にはぜひとも、イエスが成し遂げたこと(その結果である和解といのち)を十全に味わうことができますようにと祈ることは、より切実であったのかもしれません。


S. 森 裕子




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