純粋な小説で何が悪い!
「君の膵臓をたべたい」を書いた住野よるさんの最新作「また、同じ夢を見ていた」(双葉社)を読んだ。前作のようにワンワン泣いたりはしなかったが、読んでからずっと後まで胸が暖かく、ジーンという感動が持続していたのには驚いたなあ。
でも、同時に思った。この小説は現代の日本には純粋過ぎる。あたりを見渡してみると、こういう小説を読んで、きっと「ムカつく」なんて思う人が少なくないのではないか、と思ってしまう。あまりに正攻法で「幸せとはなにか?」と追求しているし、主人公の菜の花は、小学生ながらあまりにもきちんと人生に取り組んでいる。
今どき、まだこういう小説を書く人がいるんだね、と思うけれど、こうも思う。どんなにひねくれて人生を考えようとも、どんなに斜に構えて生きようとも、結局のところ人生とは、こういうとっても単純な“問いと答えの間”にあるのだってこと。
どんなに逃げ回っても、自分の撒いたものは自分で刈り取らなければならないし、自分の成したことは自分に跳ね返ってくる。言いたい放題の人に対しては、人は、言いたい放題を言ってもいいのだと思うし、心ない言葉で人を傷つける人は、別の人の別の種類の心ない言葉で傷つくことになる。
菜の花は強い。桐生くんに自分の善意を拒否されてもあきらめなかったし、南さんの気持ちとも、アバズレさんの忠告ともきちんと向き合って、ひとつひとつ自分の問題を解決していく。そのことによって、菜の花の前に開けてくる人生は、とっても前向きで、とっても価値のあるものとなる。そう、人生って、自分で日々創造していくものなんだ。
この小説の優れたところは、単なるほのぼのとした日常的な話ではないこと。なんとなくミステリアスで不思議な展開をする。時空がゆがんだようになったり、突然消えちゃう人がいたりして・・・・。というか、この話自体が夢だったりして・・・・。南さんもアバズレさんも、どこか実在感を持たない存在。でも、ある瞬間もの凄いエネルギーを出して、その存在感を誇る。それは、言えなかった言葉、あるいは表現し得なかった善意への後悔が奔流となって菜の花に迫ってきた時。
もし住野よるさんが次の本を出したら、僕はまた読むんだろうな。僕は、こんなことを考えている人って大好きだから・・・。僕自身が、こんなことを考えている人間だから。
Singet dem Herrn ein neues Lied
「新しい歌を主に歌え」とは詩篇149篇の言葉であり、バッハのモテット第1番の題名でもある。イノヴェーションという言葉が企業経営などの分野を中心に最近よく語られるが、詩篇を歌ったダビデの時代から、ユダヤ教には、伝統を守るということと相まって、絶えず自己の中にイノヴェーションの要素を持つということが至上命令となっていた。
イエスが生きていた当時、彼に敵対していたファリサイ人や律法学者達のひとりひとりが悪人だったとは思わない。むしろ、誰よりも敬虔であり、真摯に神に仕えていた人達のような気がする。しかしながら、ただ一点のことで、聖書の中では悪人のように扱われている。それは、「新しい歌を歌うことが出来なかった」ということである。
何故新しい歌を歌わなければならないのか?それは、すべてが日々変化しているからである。その中で、自分も常に新しいものに目を開き、新しい真理に目覚め、吸収し、成長していかなければならないからである。たとえば、日曜ごとに教会に行くことだけで「自分は良い信者」と思ってはいけない。思考や行動がルーティン・ワークに陥っている時、それは現状維持ではなく、人はすでに退化しているのだ。ただ成長を望む者のみが、退化を食い止める事が出来るのである。これが世の理(ことわり)。
企業や様々な共同体もそうである。大きな組織や長い歴史を持つ組織ほど、あたかも、その組織自体が既得権を持って揺るぎなく永遠に存続するものと人々は錯覚する。それは、100年津波が来ないと、もうその土地には永遠に津波はやってこないと信じるのに似ている。
その中で地位にしがみついている人は、他の既得権を持っている人と結びつき、互いの利益を守るために、変化を拒否しようとする。企業や共同体全体の思考は、しだいに“内向き”になり、その団体が本来誰に向かって成り立っているのかという、根本的な存在理由を忘れる。その場しのぎのデータ改ざんや、性能を偽って発表するような愚かな行為は、こうして生まれる。
イエスは言う。
「後の者が先になり、先の者が後になる」
イエスさえ出てこなければ、ファリサイ人や律法学者が悪く言われることはなかったであろう。人々に尊敬され、つつがなくその生涯を終えることが出来たであろう。イエスに敵対したことで、もし地獄にでも堕ちたとすれば実に気の毒だ。
でも、みなさん、心して欲しい。これは聖書の大原則なのだ。新しい歌を、絶えず歌い続けなければ、あなたの霊性は枯渇し、あなたの信仰と意志がどんなに立派なものであっても、いつしか神から離れてしまうのだ。人間とは、かくも弱い愚かなものなのだ。
教会は、誰かが洗礼を受けて新しく信者になった人がひとり増えるだけで、もうその共同体自体が変化している。後から来た新参者の信仰が、共同体全体に化学変化を起こすこともある。あなたがもし長老の場合、そうした新参者を受け入れ、化学変化を後押しする柔軟性と勇気とを持っているであろうか?その新参者を支え、その才能を生かしながら、成熟した信者へと導く覚悟が、ひとりひとりの信徒の中にあるであろうか?もしないなら、あなたの教会は、明日にでもファリサイ人の巣窟と化す危険を孕んでいる。
チャリティー・コンサートを終えて
Singet dem Herrn ein neues Liedを指揮しながら、
「ああ、この団体は本当にバッハが好きなんだな」
としみじみ思った。バッハの精神の奥深いところからほとばしり出てくるリズム。それを東京バロック・スコラーズ(TBS)は体現している。
それと同時に、彼らは、アヴェ・ヴェルム・コルプスのエンハーモニック(異名同音)がもたらす微妙な色彩感の変化も、よどみないレガートで表現出来たし、レクィエムのキリエも、バッハ的モチーフ処理で鮮やかに歌いきることが出来た。
そんなTBSであるが、僕はこの団体にもイノヴェーションをけしかける。2月に10周年記念のロ短調ミサ曲演奏会が成功裏に終わってからは、僕の視線はもう次の10年後を向いている。現在のTBSのレベルが頂点で、これ以上発展は望むべくもないという状態ならともかく、僕自身まだ満足からはほど遠い。
そう言うと、
「ええっ?ひとつひとつの演奏会にベストを尽くしてきたのではないの?」
という声が聞こえてくる気がする。
「満足でないものをお客の前に出してきたの?」
そうではない。けれど、僕が望んでいるのは、それぞれの演奏会の曲を仕上げて発表するのとは別の次元のもの。そしてそれは、そう簡単には辿り着けない。
僕は僕の“おと”を求めている。彼岸から僕に向かって確かに聞こえてくるあのサウンド。それを、僕はこの3次元の世界に受肉させたい。それは僕にしか聞こえないので、恐らく今の時点ではTBSの団員誰もイメージすら出来ないだろう。それでも、もしかしたら・・・・10年前のロ短調ミサ曲と今のロ短調ミサ曲との決定的な違いに気が付いている人だったら、予測することは可能かも知れない。だからといって10年前の演奏に価値がないというものではない。ワーグナーだって、最後に辿り着いた「パルジファル」だけが素晴らしくて、「ローエングリン」に価値がないというものではないだろう。
さて、次回の演奏会は、2017年5月4日のヘンデル「メサイア」全曲だ。これを発表した時、団員の中には、
「何故ヘンデル?」
と首をかしげる人が少なくなかった。その理由を僕は彼らに説明したが、それを本当に理解してもらうためには、僕の心の中だけに響いている“おと”を聴くしかないので、それは無理だろうなあ。
ただ、これだけは分かって欲しい。僕は、バッハに飽きたから、ヘンデルに浮気してみようかな、と思ったわけではない。僕は、TBSが10年後をめざして歩んでいくためには、今のタイミングで「メサイア」が必要だと思っただけだ。やはり東京バロック・スコラーズで追求しているのは、究極的にはバッハなのだ。
しかし、あはははは・・・・こう言ったら言ったで、今度は、これを読んでいるお客さん達が思うのだろうね。
「なんだ、次の『メサイア』というのは、バッハを演奏するための通過点にしか過ぎないのだって。だったら行ってもしょうがねーな!」
うーん、ヘンデルを通過して再びバッハに向かい、これを深めようとしているのは事実だけれど、逆に言うと、ここで最高のメサイアを作らないと、TBSに先はないのだ。だから「メサイア」は、どこにもない名演にしてみせます!
ということで、「メサイア」演奏会が終わってみてから、さて団員のあなたの目には一体何が見えてくるのだろうか?そうこうしている内に、いつしかあなたにも、僕の聴いている“おと”が聞こえてくるのではないだろうか。そうすると、あなたは気付くであろう。この“おと”に到達するのは現世では決して無理だということが。彼岸から聞こえてくるあの“おと”というのは、そんなにも素晴らしいのだ。だからTBSにも、どこに向かって行くというベクトルはあっても、これでいいという到達点はないのだ。
その音のことを言葉で表現しようとしたら、出来ない事はない。以前も紹介したが、本屋大賞をとった宮下奈都著「羊と鋼の森」(文藝春秋)57ページに書いてある、原民喜の理想とする文体を引用しよう。文体という言葉を全て“おと”に変えればいいのだ。
明るく静かに澄んで懐かしい文体本質につながっている全ての芸術家は、分野を問わずこのイメージを持っていると僕は思う。バッハもモーツァルトもベートーヴェンもワーグナーもマーラーも。勿論、演奏家も。画家も彫刻家も小説家も、そして舞踏家でさえも!そしてそれは、やはり分野を問わず彼岸の世界でつながっているのだと思う。
少しは甘えているようでありながら、きびしく深いものを湛えている文体
夢のように美しいが現実のようにたしかな文体
今日この頃
先週は、文化庁スクール・コンサートに明け暮れた。小学校では、プログラムの最後に、
「みんながとっても良く聴いてくれたし、一緒に歌ってくれたから、最後に僕たちからもう一曲だけプレゼントします」
と言って、曲目をあえて言わないで、「アナと雪の女王」の「ありのままで」の前奏を水野彰子(みずの しょうこ)さんが弾き始めた瞬間、どの学校でも、
「あっ!わあー!」
と歓声が湧き上がる。そして一緒にメロディーを口ずさむ。僕たち大人が歌うのも覚えるのも難しいシンコペーション続きの曲を、あの子達は体で覚えてしまうんだね。僕たちよりも正確なくらい。
そのスクール・コンサートも、今日(6月26日月曜日)の国府(こくふ)中学校で終わった。今日は中学校だから、入場の「さんぽ」もないし、「ありのままで」もない。アンコールは「カルメン」の終幕の合唱。
この学校の校歌は、合唱コンクールの常連曲で有名な鈴木輝明氏の作曲。昔の校歌があるのだが、校歌作制委員会なるものが新しい校歌を作ろうと活動したという。作詞はその校歌作制委員会が担当し、鈴木氏に作曲を頼んだのだ。僕がこれまで日本全国数多く回った校歌の中でベストの校歌であろう。
緑溢れるふるさとで中学生は(当たり前だが)小学生とは全然違う。恥ずかしさもあって、小学生のようにダイレクトであけっぴろげな反応は返ってこないが、じわーっと受け止めているのが感じられる。
わたしたちは出会った
小さな頃の思い出は
みんな大事なたからもの
いつも心にしまってあるよ
そこから歩き始めた
“ほんとの自分”見つめて