ヴェルディ・ドラマチックオペラ・祝祭コンサート

三澤洋史 

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フル稼働の週末
 8月4日木曜日から京都に行き、後で話すが、コンサートを5日に行って、6日土曜日に名古屋に渡り、愛知祝祭管弦楽団の「ラインの黄金」の練習をやって東京に帰ってきた。7日日曜日は、朝から関口教会(東京カテドラル)でミサの指揮をし、その後聖歌隊の練習とミーティングを行う。午後から夜にかけては「ナディーヌ」の練習。

 「ラインの黄金」の練習では、名古屋からファフナー役のバス松下雅人さんとエルダ役のアルト三輪陽子さん、東京からローゲ役のテノール升島唯博さんとアルベリヒ役の大森いちえいさんが加わった。やはりソリストが入るとオケのモチベーションがグーンと上がるなあ!升島さんのローゲは素晴らしいぞ。ドイツ滞在が長かった人だから、ドイツ語の表現が秀逸。
 エルダの場面の音楽は、ピアノで弾いていても神秘的な感じがするが、オーケストラで聴くと、鳥肌が立つほどの戦慄を覚える。ちょうど指輪をめぐっての争いの真っ最中に現れる効果も手伝っているのかも知れない。
 ヴォータンが意固地になって指環を渡すのを拒否している瞬間に、彼岸から現れた不思議な存在。太古の過去から未来永劫に至るまで、世の運命をじっと見据える永遠なる霊。
三輪さんの深い声と歌がピッタリだ。ここは、もう「ラインの黄金」も終わりにさしかかる頃。前後の動的な部分にはさまれて、観客も飽きてくる頃なので大丈夫かな、などと心配していたのは愚かだった。
 ここが、ある意味「ラインの黄金」の中で、最も大事な部分なのかも知れない。いや、その重要さは「ニーベルングの指環」全体でも同じだ。何故なら、リングとは、指環(権力あるいは欲望の象徴)を避けられるかどうかという物語なのだから。リング全体の最後のテキスト、すなわち「神々の黄昏」終景のハーゲンによる、

Zurück vom Ring !
指環から離れろ!
というセリフを待つまでもなく、すでに「ラインの黄金」において、指環からは離れるよう、警告がなされているのだ。
Weiche, Wotan, weiche !
避けよ、ヴォータン、避けよ!
Flieh' des Ringes Fluch !
指環の呪いから逃れよ!
 それにしても、ワーグナーの管弦楽法って凄いな。こんなにも多彩な色彩感を引き出せるんだから。いや、多彩という言葉などでは表現できないな。本当にエルダの音楽は、地の底からやってくる気がするよ。それに比べたら、僕の「ナディーヌ」に出てくる地の精グノームの音楽なんか、インチキもいいとこだよねえ。

 そうそう、「ナディーヌ」といえば、集中稽古のお陰でだいぶまとまってきたよ。こちらもソリストの力が大きい。前川依子さんと川村章仁さんの第3幕「愛のレクィエム」なんか聴いていると泣けてきてしまう。本当にいい曲だねえ・・・あっ、す・・・すいません・・・手前味噌でした。でもねえ、題名は俗っぽいけれど、みなさん、このミュージカルは絶対泣けるからね。大きなハンカチ用意して来てくださいね。

 さて、また新しい週が始まった。オリンピックのニュースがどんどん入ってきて、日本人が結構メダルを取っているね。頑張れ-!

ヴェルディ・ドラマチックオペラ・祝祭コンサート
 凄い名前でしょう。8月5日金曜日、京都コンサートホールのムラタ・ホール(小ホール)で行われた演奏会のタイトルである。主催者に、
「タイトルは何にしましょう?」
と言われて、
「まあ、テキトーにつけておいて」
と言ったら、こんな風になってしまった(笑)。

 このコンサートは、ずっと前から計画していた。メゾ・ソプラノの清水華澄ちゃんと、バリトンの青山貴君のふたりで、他のどこでも出来ないコンサートをやってもらいたかったのである。
 その趣旨とはこうだ。オペラというと、ソプラノのヒロインとテノールのヒーローが愛し合い、どちらかが死んで悲劇になるか、あるいは結ばれてハッピーエンドになるか決まっている。プッチーニのオペラでは、「ラ・ボエーム」といい「トスカ」といい徹底している。
 ヴェルディも、表向きはそうである。「ドン・カルロ」でも、タイトル・ロールのドン・カルロとエリザベッタが愛し合うドラマである。ところが、ヴェルディの本心は違う。彼が「ドン・カルロ」で描きたかったものは、決してラブ・ストーリーにとどまらない。
 彼は、主眼を主人公二人の愛を阻む要素の方に置いていて、その阻む要素は、政略結婚という社会的あるいは政治的な要素であったり、エボリ姫の嫉妬であったり、 宗教的対立であったりする。
 そして、たとえば結婚したはいいが、妻のエリザベッタに決して愛してもらえないというフィリッポ王のやるせない孤独を描くことに精力を注いだりするかと思えば、カルロとロゴリーゴとの感動的な友情と、カルロに希望を託して命を捧げるロドリーゴの美しい自己犠牲を描く。
 このように、ヴェルディにおいては、ラブ・ストーリーの周辺がとても広く、その様々な人間模様を描くことに本来の目的があるのだ。そして、そのドラマを担っているのは、メゾ・ソプラノであり、バリトンあるいはバスなどの存在なのである。

 テレビ・ドラマや映画でもそうだけれど、主役というのは、見た目さえ良ければ、案外演技が下手でも成り立ってしまったりする。しかし、脇役はそうはいかない。むしろ、脇役こそ演じ甲斐があるというものだ。特にそれが悪役であったり、人の恋路を邪魔する存在だったりする場合、観客のシンパシーは得られないかも知れないが、誰よりも演技力を要求され、しかも、ある意味、誰よりも達成感を得られるのである。

 僕は、そんな敵役や演じ甲斐のある役を集めてひとつのレクチャー・コンサートに結集させてみたかったのだ。しかし、ヴェルディでは、そうした役ほど第1級の声が要求されるので、誰でも良いというわけではない。いや、それどころか、こうした役をいくつも歌える歌手なんて、日本広しといえどほとんどいない。しかし、このふたりならば・・・と目をつけていたのが、青山貴君と清水華澄ちゃんなのである。


Programme


 プログラムを見ていただきたい。オペラをよく知っている人なら、一目見て、
「こんなプログラム、普通ムリ!」
と思うだろう。冒頭の「リゴレット」の「悪魔め、鬼め」一曲歌うだけでもしんどいのに、そのあと青山君は「仮面舞踏会」のレナートのアリアを歌わなければならない。華澄ちゃんはもっと大変で、「イル・トロヴァトーレ」のアズチェーナのアリアを歌ったすぐ後に、「仮面舞踏会」のウルリカのアリアを歌わなければならない。
 ウルリカのアリアは2オクターブもの音域を自在に歌いこなせるだけの力量がないと話にならないので、演奏会全体の声域のポジションに留意しながら、このアリアのポジションを定めるのが大変だ。ウルリカだけ歌っていれば、この役のキャラクターに声も表現も合わせていられるのだが、他の役でまた別の性格と声を要求される。その切り替えが大変なのだ。

 ヴェルディは、初期においては、意図的に気味の悪い存在を舞台に登場させていた。醜い道化のリゴレットやジプシー女達だ。こうした社会的なアウトサイダーに、ヴェルディは共感を覚えている。この演奏会でのレクチャーの間には、どうしても差別用語を言わないではいられないので、お断りしてから使っていた。何故なら、ヴェルディが、そうした人たちばかり意図的に扱い、あえてその差別されている部分を突っ込んでくるのだ。
 そういう点ではイタリア語は便利だ。イタリアでは、日常会話で普通にpazzoという言葉を乱用するが、現在、日本では「気違い」という言葉は差別用語だ。リゴレットもgobboという言葉が歌詞の中に何度も出てくるが、「背中にこぶのある」という意味の「せ○○」という単語が、我が国では使えない。ジプシーという言葉も、本当はロマと言わなければならない。ロマは、彼らが自分たちのことをそう呼んでいる言葉だそうである。
 しかし、歌詞のzingarellaやgitanoという単語の持つ雰囲気は、本当はロマという言葉では置き換えられない。特にウルリカが占いをやるシーンでは、カルメンでもそうだけれど、「ジプシー占い」が当たるという常識が一般に行き渡っているので、それをロマ占いと言ってしまうと、ロマの民族に対して当時のヨーロッパの民衆が持っていたポジティブなイメージさえ損なわれてしまう。
 特にヴェルディでは、ヨーロッパの一般的な人たちにはない、独特の感性と、たくましい生き方に大いなるシンパシーを寄せていたので、zingarellaという単語も、むしろ賞賛の意味を持って使っていたに違いないのだから。

 ともあれ、アズチェーナ、ウルリカ、プレツィオジッラというジプシー女の存在は、ヴェルディのオペラをなんと生き生きと彩ってくれたことか。しかしながら、そうした存在への傾倒は、後期になるに従ってしだいに変化し、もっと普通の人たちの中に潜むネガティブな感情の描写に、作曲家の興味は移っていく。
 レナート、エボリ姫、アムネリス、フォードの4人は、嫉妬に身を燃やすキャラクターである。この演奏会では登場しないが、「オテッロ」のストーリー自体が、主人公のオテッロが嫉妬ゆえに愛するデズデーモナを殺してしまう物語だ。こう考えてくると、ヴェルディの感心が、いかに嫉妬を描くことに向いていることが分かるであろう。

 興味深いことがある。ヴェルディが描く嫉妬するメゾ・ソプラノ役は、後で反省するのだ。「ドン・カルロ」のエボリ姫のアリアは、反省のアリアである。彼女はエリザベッタに向かって、
「お許し下さい。あなたの夫のフィリッポとあたしは関係があったのです」
というわけである。それで、O don fataleは、一般には「むごい運命よ」というタイトルで親しまれているけれど、本当は、
「悪いのは、あたしのこの美貌なのです」
と言っているのだ。すごい責任転嫁。どうです。これを読んでいる女性の読者のみなさん。あなたには言い切れますか?
「あたしは、あんたの夫とできちゃったけれど、あたしがモテたのはあたしの美貌故であって、あたしのせいではないの」
 あるいは、ラダメスに「アイーダをあきらめるならば、あなたの命を助けてあげる」と迫って拒否されたアムネリスは、ラダメスを裁判に送った後、自分のしたことの罪の意識に責めさいなまされるのである。こうした苦悩の様子をヴェルディはなんと克明に描ききっていることか。

 「オテッロ」のイァーゴについては、レクチャーで、シェイクスピアの原作との相違を語った。つまり原作の第1幕をオペラで完全にカットすることで、イァーゴがオテッロの嫉妬心を煽る動機、すなわち自分が副官に選ばれるかと期待していたのを若いカッシオに横取りされた腹いせに、カッシオとデズデーモナとの不義をでっちあげた、ということから焦点をあえてはずし、イァーゴは絶対的なワルという像を、ヴェルディと台本作家ヴォーイトが作り上げた、という事実である。
 いつもは、苦悩し、煩悶する登場人物達を好んで描くヴェルディが、オテッロが嫉妬の泥沼にはまっていく有様に焦点を合わせるために、意図的にイァーゴの性格を単純化したわけである。しかも、ヴェルディは、それをだめ押しするように、あの悪の信仰告白である「クレード」を創造した。これは身の毛もよだつような恐るべき音楽である。
その最後のくだりが特に強烈だ。
Vien dopo tanta irrision la Morte.
たくさんのイリュージョン(幻想)の後で、死がやってくる
E poi?
それから?(死の後は?)
e poi?
それから?
La Morte è il Nulla.
死なんて虚無さ
è vecchia fola il Ciel.
天国なんてものは使い古された虚言だよ
これを彩る音楽の表現力の素晴らしさ!

 しかしヴェルディの表現の世界は、これで終わりではなかった。彼は、最後の「ファルスタッフ」のフォードの「これは夢か?まことか?」において、あまりに嫉妬の感情を爆発させるフォードが、かえって観客の笑いを誘ってしまう、という最後の離れ業をやってのけた。
 つまり、「ファルスタッフ」という喜劇の底には、人間の底に流れる業の深さを見つめる冷徹な眼があるのだ。だから、怒り狂うフォードの背中にいいようのないペーソスを感じてしまうのだ。かつて若い頃、喜劇を書いて大失敗したヴェルディが、長い創作家としての人生を歩んだ末に辿り着いた、誰にも書けない境地。それが「ファルスタッフ」という究極の喜劇なのである。

 コンサートは、最初の「悪魔め、鬼め」からブラボーの連発する、稀有なる盛り上がりを見せた。青山君も華澄ちゃんも、吠えるところは吠え、語るところは語り、ほとんど息と言葉だけのパルランドの箇所があるかと思えば、情熱や嫉妬に我を忘れる表現や、焦燥感や、憔悴して言葉も出ないような表情など、自由自在に描き切ってくれた。このふたりでなければ絶対出来ないコンサートだった。

 そして、最後にどうしても言っておきたいことがある。確実なテクニックと音楽性で、彼らの歌唱を背後から支えながら、自らも嬉々として音楽に没入し、素晴らしいコラボレーションを繰り広げてくれたピアニストの越知晴子(おち はるこ)さんに、最大限の賞賛を捧げたい。


コンサートを終えて




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