「ナディーヌ」の本番間近

三澤洋史 

写真 三澤洋史のプロフィール写真

オリンピックとスポーツの本質
 今回のリオデジャネイロ・オリンピックは、僕自身が忙しくて、あまり真面目に見ていなかったんだ。でも、女子卓球だけは真剣に見た。テニスに見慣れていると、卓球の速さには驚くね。ボールが行き交う速さもさることながら、ちょっと目を話すともう3点くらい入っている、という風に、試合進行も実にめまぐるしい。

 僕は、石川佳純(かすみ)選手の目が好きだ。攻撃的な、挑んでいるような瞳でありながら、それは敵に対してではなく、自分自身に対して向けられている。それだけ自分にストイックなんだなあと思っただけで、なんだかウルウルしてくるよ。体全体をムチのように使って、あっけにとられるようなスマッシュを決める、そのフィジカルなパワー!前半の個人戦では、足が痙ったりして気の毒だったが、後半の団体戦では、水を得た魚のように嬉々として試合をこなしていた。

 対照的に、福原愛ちゃんは冴えなかった。団体戦が終わった後の彼女の、
「あたしが足を引っ張った」
という泣きながらの発言は痛々しかった。
 スポーツって大変だな。結局、勝たなければ何の意味もなくなってしまうのだもの。だから僕は、中学生の頃からスポーツというものが嫌いだった。だいたい僕は、人と勝負するのが嫌いなんだ。
 たとえばね、僕は、負けたけれど愛ちゃんのプレイの方が石川選手よりも好きなのだ。愛ちゃんのアプローチは柔軟のひとことに尽きる。相手の呼吸やリズムを読み、そこに同化する。ゆるいラリーに持ち込んで・・・相手のふとしたスキを見逃さず、素早くスマッシュを決める。その大胆で自在なアプローチは、石川選手には決してない愛ちゃんだけの魅力。愛ちゃんの方が数倍も芸術性が高い・・・という風に、音楽を鑑賞するような気持ちで僕はスポーツも観てしまうのだ。

 それにひきかえ、日本がいくつメダルを取ったかとか、金メダルを取ると思っていたのに、銅メダルでなあんだとかいう価値観でスポーツを観て、スポーツ選手を上から目線で評価するのって、なんて短絡なのだろう。今の世の中みんなそんな風潮じゃないか。安倍政権の掲げている「経済最優先」だって、稼げない者は生きてる価値ないって感じではないか。全てがうわべばっかりの軽薄な世界観に、スポーツも呑み込まれていくとしたら残念だ。

 勝てなくなった愛ちゃんは、やがて引退を考えるだろう。でも、音楽の世界では、スポーツ選手が引退するくらいのキャリアと経験値の時点から、その音楽家の魅力や味や個性が出てくるかどうかの本当の勝負が始まる。コンクールに優勝しただけでは、まだ音楽家としてはひよこであって、本当に聴衆に感動を与えられる成熟した音楽家になるためには、教養や人間性など幅広い要素が不可欠なのだ。そこのところをカヴァー出来ないのがスポーツの限界なのかなあ、と、ちょっと悲しく思っている。
 今、この歳になって、僕がやっているスポーツは、スキー、水泳、自転車など、競争の原理からはずれても成立するものばかりだ。大会や試合には全く興味なくて、ひとりで勝手にやっている。では下手くそなままでもいいかというと、断じてそうではない。むしろ、スキーなんかは、誰よりもうまくなりたいし、そのためのフォームや重心移動などのテクニックの追求には、音楽と同じくらい情熱を傾けている。
 自分の先生だから言うわけではないけれど、親友の角皆優人君のスキーの滑りは、本当に惚れ惚れするほど美しい。しかし、彼はカッコ良く滑ろうとしているわけではない。むしろ、そんな見かけだけの無駄な部分をそぎ落としていって、効率を徹底的に追求した結果辿り着いた機能美が、彼のフォームに結集している。スポーツの美しさはそこにあると思う。
 卓球やテニスのような、相手と試合をするスポーツも、とどのつまりは自分との戦いで、腕の良い者が勝つ。勿論相手との駆け引きというものはあるけれど、姑息なことばかりしていても勝てるわけがない。やはり基本は正々堂々と技で勝負するところにスポーツの本質がある。フェイントをかけてスマッシュを決めるのだって、テクニックであり技だ。ピアニストが美しい弱音から衝撃的なフォルテの音に瞬時に移るのと同じだ。

 大きな国際大会で優勝するような人間は凡人とは違う。彼らは、普通の人が耐えられないような厳しい練習に耐える代わりに、普通の人が見えないものを見、聴く事が出来ないものを聴く。それを人は“天才”と呼ぶ。天才とは、天から与えられた才能のことである。そうした天才同士が順位を競い、本気で全力を出し切って戦う姿は、やはり美しい。勝負が嫌いな僕でもその美に心打たれ、彼らを賞賛する。昔だったら、そういう人たちは“神”の領域に位置された。相撲の“横綱”という称号などにその痕跡は残っている。アスリートは、偉大なる音楽家や芸術家がそうであるように、ある意味、神により近き人間なのである。だから、彼らは尊敬され敬われるべき存在なのである。

 ないものねだりかも知れないけれど、こんなスポーツの本質を、マスコミは視聴者に伝えて欲しいなと思う。メダルばかりにこだわり、短絡的な“感動”を無理矢理演出することはやめて欲しい。一番良くないのは、まだ戦っていない選手に向かって、
「ズバリ、メダルは取れますか?」
などと訊くこと。選手も選手で、
「必ず取って帰ります。見ていて下さい」
などと答えるが、これなどはむしろマスコミというパワハラの犠牲者で、痛ましい感じがする。無心になって試合に臨みたいのに、メダルなんて頭にちらつかせたら、筋肉がいたずらに緊張してしまって、自由な状態からほど遠くなってしまうだろう。
 逆にこういうこともある。以前、フィギュア・スケートの羽生結弦(はにゅう ゆずる)君が金メダル取った時、本人はミスだらけの自分のプレイに決して満足していなかった。金は、相手の失敗によってもたらされたのだ。しかしマスコミは、
「とにかく金だからもういいだろう」
という風に報道し続け、彼の声をかき消してしまった。

 人は何故スポーツに惹かれ、スポーツに何を観ようとするのか?この根本的な理由を、オリンピックを機会に、みんなで考えてみませんか?

「ナディーヌ」の本番間近
見て下さい!このナディーヌとオリーの衣装を!衣裳の内田恵子さんが素晴らしいものを作ってくれたのだ。


ナディーヌとオリーの衣装

「今回の妖精の国フェアリー・ランドの住民は、アラビアン・テイストにする!」
というアイデアを出したのは僕である。きっかけは、オリーに大森いちえいさんを選んだこと。初演の時のオリーは柴田啓介さんで、いわゆる三角帽子をかぶって長い杖を持った、いかにも魔法使いという感じの衣裳にしたのだが、スキンヘッドの大森さんの頭をわざわざ三角帽子で隠すのもつまらない・・・というより、もう大森さんを選んだ時点で、「アラジン」のジニーさんでいくしかないよなと思っていたのだ。
 すると、ナディーヌもジャスミンのタッチかなあ、と思い始め、では、IQ500の超天才博士のドクター・タンタンや、地の精グノーム族の首領ニングルマーチも、いっそアラビア風のダブダブのズボンを履かせてしまえ、となってしまったわけである。

 そうなるまでには自分で気が付かなかったのだが、ある時、ハッと思った。妖精界という異界の存在とアラブを重ねたのは、僕の潜在意識からきているのかも知れない、と。我々から見て裏の世界というものがある。此岸と彼岸、地上界と天上界、人間界と妖精界あるいは妖怪の世界。そして現代において、世界を分断している西欧社会とアラブ的社会。
 我々にとっての彼岸は、すなわち彼らにとっては現実世界である。かつては日本も、欧米人から見て彼岸に組み込まれていた。黄色人種でキリスト教国でない日本だったからこそ原爆が落とされたという説がある。少なくとも、白人の国に原爆を落とそうとする考えはなかったという。つまり白人からしたら、日本も、かつてのインカ帝国と同じようだったのだ。だから今でも、
「無益な戦争を早く終わらせるために原爆は必要だったのだ」
と思っているアメリカ人が少なくないのだ。
 その日本は、戦後アメリカに組み込まれる形で生き延び、経済成長を遂げていった。沖縄をはじめとして各地に米軍の基地を置くことを許し、世界の警察を自負する米国の手先のようになった。さらに、9.11後、アメリカと同じ視線でアラブ的社会を見て、悪の枢軸のように思っている人も少なくない。もしかして、現代の日本人は、自分たちのことを白人だと勘違いしているのではないか?
 ISというものが出現したことによって、ますます話がややこしくなってしまっているが、アラブ的社会そのものは悪ではない。日本の仏教的あるいは神道的社会が悪でなく、邪教的社会でもないように。アラブ人は悪人ではない。黄色人種が悪人でないように。
 僕は、世界に本当の平和が実現するためには、西欧社会と、アラブ的社会をはじめとした異教的社会との真の和解と共生が不可欠なのだと信じている。無意識のうちに妖精界の住人にアラビアンなテイストを与えた僕は、妖精界という異界の住民達に親近感を持ってもらうことで、そうした偏見の壁を少しでも取り除いて欲しいと願っているのかも知れない。

 ま、そのことは、あまり真剣に考えないで欲しい。ディズニーの「アラジン」を観るような気楽な気持ちで楽しんでもらえれば、僕はそれで満足なのだ。それよりも、昨日21日日曜日の通し稽古は、みんなの熱意によってなんとか通ったね。今晩から劇場に入って、パネルの操作だの、いろいろ越えなければならないハードルはあるけれど、「ナディーヌ」で僕が表現したかった根本的なものは表現出来ていると思う。
 初演時の上演時間が長かったので、今回の上演に際しては台本も音楽もかなり刈り込んだ。でも、昨日通し稽古をするまで、正直言って不安だった。劇場の退出時間もあるので、内容が3時間を大きく越えるようだと、いろいろ困ったことが起きる。
 だが、第3幕への前奏曲であるM28黄昏と、M36終幕への間奏曲だけは省略したが、14:10から始めた通し稽古は、第1幕終了後に15分の休憩をし、さらに本来続けるはずの第2幕と第3幕との間に5分の休憩をしても16:55に終了した。つまり2時間40分。M28とM36は合わせても10分には満たないので、3時間以内に収まる計算になる。やったあ!
 
 合唱団のみんなは本当によくやっている。指揮者として練習をつけている僕は、みんなに向かって、
「ほら、ここ出来てないよ!」
なんて上から目線で威張っているけれど、本当は自分の作品を上演してもらう作曲家なんだ。もう、やってもらうだけでありがたいという気持ちが本心なのだ。
「みんな、本当にありがとう!」
なんていう言葉は、本当は本番が終わってから言うべきだね。でも、もうすでに感謝しているという気持ちだけは伝えたい。
 ソリスト達も、みんなキャラクターがバッチシ合って、自分で人選しておいて言うのもなんだが、我が国におけるベスト・キャスティングだと自信を持って言える。
愛くるしい前川依子さんのナディーヌの胸の苦しみに涙して下さい。
川村章仁さんのピエールと共に、かけがえのない愛に胸を焦がして下さい。
初谷敬史さんのドクター・タンタンと秋本健さんのニングルマーチに抱腹絶倒して下さい。
そして大森いちえいさんのオリーのアリアで、終幕は泣いて下さい。

さあて、これから一週間、三澤丸という船に、みんなで一緒に乗って大海原に漕ぎ出し、僕と生死を共にして欲しい。そして、終わった後、みんなでおいしいビールを飲もうね。

いつになく暑い夏、輝く日々
 「ナディーヌ」さえ、終わったらもう人生どうなってもいい、と思いそうになるけれど、そうもいかない。引き続き、9月3日土曜日はモーツァルト200合唱団演奏会、ついで9月11日日曜日は、愛知祝祭管弦楽団による「ラインの黄金」演奏会と、毎週末本番が続く。
 前々からスケジュールに頭を悩ませながら練習を組んで何度も通い、それぞれの団体はその演奏会に賭けているので、あとは僕自身が体調管理しながら最後の追い込みの勉強をして、みんなの想いを束ね、各公演を成功にまでもっていかなければならない。
 こうなると、指揮者に要求されるのはまず健康であることだね。ところが今年は、あまりに忙しくてプールに行けていない。それに、それぞれの練習が、自分がエネルギーを出していかないと始まらない種類のものだけに、終わるとクタクタで、家に帰ると即ビール・グラスに口をつける生活。こうやってリラックスさせないと、筋肉が緊張して眠れないじゃないか。
 そんなことしていたら、どうも少し太ってきてしまっているようだ・・・なんてとぼけているけれど、いや、確実に太ってしまっている(この前、そうっと体重計に乗った)。このままではいけない。

 そこにもってきて、折ある毎にパソコン・パーツを買っている。夏の初めにパソコンが壊れて、間に合わせの中古ノート・パソコンを買ってきて、とりあえずそれをメインのようにして使っているが、やはり不満なのだ。
 親友の角皆君が、
「三澤君、自作するにしても、自分で買い集めないでドスパラというショップで買えば、手間が省けるし割安だよ」
と忠告してくれたので、サイトで調べたのだけれど、マザーボードを選べないとか、ケースの制約があるとかで、やっぱり自分で買うことにした。僕って、こういうところは実に我が儘なんだって、自分で気がついた。
 最初は、妻にお願いして車を出してもらい、27インチ・ワイドのディスプレイを買って来た。これでスコアもどんどん書けるぞ!それからカッコいい白いパソコン・ケースを買って、電源やGeforceのグラフィック・ボードを買ったところ。
 これから本丸であるマザーボードとCPU、そしてメモリーを選ぶ。記録用にはやはりSSDを試してみよう。これとハード・ディスクとの併用。OSは、気が進まないけれど、やはりWindows 10 なのかなあ・・・なんて、こんな風に考えている時が一番楽しい。うひひひひひ!

 こんなことやっているので、ただでさえ忙しい夏にもっと拍車がかかってしまっている。でもまあ、人間忙しい内が華よ。僕くらい人生を謳歌している人間っていないのではないか。

 神様、この健康な体をありがとうございます。すみません、ビールとワインをちょっと控えますので、この先も、僕に健康と意欲とを与えたまえ!



Cafe MDR HOME


© HIROFUMI MISAWA