「月光とピエロ」とアポリネールの恋

三澤洋史 

写真 三澤洋史のプロフィール写真

浜松バッハ研究会とウナギ
 僕自身がすでに60歳を超えているということもあるけれど、僕が関わっている団体は、長く続いているものが多い。名古屋のモーツァルト200合唱団は、1994年にハイドン作曲オラトリオ「四季」で呼んでもらって以来22年、志木第九の会は1992年のハイドン作曲「天地創造」演奏会以来24年、新町歌劇団に至っては、なんと30年で、30年前にモーツァルトの「魔笛」で初めてのコンサートをやったのを記念して、7月に「魔笛」を中心としたコンサートをやった。
 そうした中で、浜松バッハ研究会との付き合いも、1990年の「ロ短調ミサ曲」演奏会以来26年になる。これにはちょっとしたいきさつがある。

 1989年、僕は北九州聖楽研究会という団体で、オリジナル楽器で「マタイ受難曲」を指揮した。その時の福音史家はエルンスト・ヘフリガー。そこに、浜松バッハ研究会の代表をしていた河野周平さんが、偵察がてら歌いに来ていた。
 河野さんは僕を気に入ってくれたようで、練習の合間に浜松バッハ研究会の指揮を依頼。僕はほとんどふたつ返事で引き受けたのだったが、ひとつだけ条件を出した。僕はこう言ったのだ。
「ウナギを食べさせてくれれば行きます」
それで、河野さんは毎回練習前に僕を鰻屋さんに連れて行ってくれたが、さすがに毎回だと悪いので、その内、
「自分で勝手に食べていくから気にしないで」
とお断りして今日に至っている。
 浜松駅前には2軒ばかりお気に入りの鰻屋がある。駅の南側、道路を渡ってすぐの八百徳駅南店と、浜名湖養魚漁業組合の直営店である浜名湖うなぎ丸浜である。ウナギそのものに関しては、僕の好みでは丸浜の方が濃すぎないので好きだ。駅の西側ガード下で、ビックカメラと同じ建物。
 しかし、八百徳のお櫃鰻茶漬けは絶品である。これは、名古屋のしら河のひつまぶしにも決して劣らない。そのために、この店のタレがちょっと濃いめになっているのだろう。何度かここでもうな重を食べてみたが、今では、お茶漬けを食べたい時だけにここに来る。


八百徳のウナギ1

 10月16日日曜日。浜松バッハ研究会の練習の前に、久しぶりに八百徳に行ってみた。うーん!やっぱりおいしい!ここの特徴は、お茶漬けにするお茶が昆布茶なのだ。だから、ウナギの臭みが完全に消えて、極上のお茶漬けに仕上がるのだ。それに量がたっぷりあるのがいいな。まあ、値段は3050円とちょっと高いけれど、この幸福感は代え難いからな。


八百徳のウナギ2


 ヤマハの社員だった周平さんは、僕をバッハ研究会に呼んでくれながら、その後パリに転勤となってバッハ研を離れなければならなくなった。僕は、
「ひどいじゃないか、僕を呼んでおいて!こうなったら家族でパリに遊びに行くから寄らせてね」
と言いながら溜飲を下げたわけである。
 その後の我が家とパリとの本当の関係は、ここから始まる。周平さんは、なんとパリのヤマハの支店長になっていたのだ。娘達がまだ小学生だった頃、ヨーロッパに家族旅行をした時には、約束通り河野家に泊まらせてもらったし、2000年に志保が17歳で単身パリに渡った時は、下宿先を探してもらったり、身元引受人になってもらった。奥さんともども、言葉に尽くせないくらいお世話になった。あの頃河野家がパリにいることが、どれだけ心強かったことか。その河野家はやがて帰国して、周平さんは再びバッハ研の代表者となり、今日に至っている。
 バッハ研では、来年6月の演奏会に向けて、モーツァルト作曲「レクィエム」とバッハのモテット第1番「主に向かって新しい歌を歌えSinget dem Herrn ein neues Lied」を練習している。でも16日の練習では、伴奏者がいないこともあって、曲目をSingetだけに絞り、僕は指揮をわざとしないで、自分達だけで合わさせて、アンサンブルの極意を彼らに教えた。先日、中央大学混声合唱団がこの曲をやった時も、同じような練習をしたが、合唱団のアンサンブル能力を養うには、この方法が最善である。

「指揮を見ろ!」
とだけしか言わない指揮者がいる。それでは、いっこうにオムツがとれない赤ちゃんと同じで、どこまでも指揮者に依存する団体にとどまってしまう。どんな大きなオーケストラでも合唱団でも、アンサンブルはアンサンブルである。演奏するのと聴き合うのに半々のエネルギーを注がなければいけない。音楽というものは、ミスさえしなければいいというものではない。内部で息づいていなければならないのだ。それが、集まって合奏、合唱する者達の本当の喜びなのだ。
 何度も何度も繰り返し、パート間のやりとりを自力で行わせ、シゴきまくったので、団員達はクタクタであったろう。しかし、それだけの手応えはあった。彼らが自分たちで紡ぎ出してくる音楽が、やっている内に俄然面白くなってきたもの。
 僕は、京都弁で「ほっこり」という言葉がぴったりの軽い疲れを感じながらひかり号に乗った。浜松バッハ研究会との関係はまだまだ続く。ウナギがある限り・・・あっ、違った!団員達がバッハの音楽に真摯に向かい合っている限り・・・・。
 

「月光とピエロ」とアポリネールの恋
 先週僕は、12月にある東京大学音楽部コール・アカデミー定期演奏会のためのプログラム原稿の締め切りに追われていた。どの団体でも、僕の原稿の係になった人は可哀想だな。だって、いつも締め切りギリギリだからね。もっと早く仕上げればいいのだが、どうも目先のことばかりに追われてしまうからね。
 さて、今年のコール・アカデミー演奏会の現役OB合同ステージは、なつかしい男声合唱組曲「月光とピエロ」だ。多田武彦と並んで我が国男声合唱界の巨匠である清水脩が作曲したこの曲はまさに古典中の古典。
 しかしながら、それが名作であることに誰も口をはさむ者はいないのだけれど、「月光とピエロ」の堀口大學の詩は、タダタケの組曲「雨」のように、誰でもすぐに理解できて同化できるとは限らない。何故なら、日本人に馴染みの薄いピエロやコロンビーナという存在が題材とされていて、ピエロの悲しみは伝わってくるものの、「月のやもめのててなしご」だの、謎の言葉に翻弄され、なかなかストレートに感動に結びつかないのだ。

 しかし・・・・しかしですよ皆さん!堀口大學がこの詩を書いた背景には、実はある物語が隠されているのである。それを今日は説明しよう。

LE PONT MIRABEAU ミラボー橋
Guillaume Apollinaire 1913 ギョーム・アポリネール1913年
 
Sous le pont Mirabeau coule la Seine ミラボー橋の下をセーヌ河が流れ
          Et nos amours われ等の恋が流れる
    Faut-il qu'il m'en souvienne わたしは思ひ出す
La joie venait toujours après la peine 悩みのあとには楽みが来ると
 
          Vienne la nuit sonne l'heurs 日も暮れよ 鐘も鳴れ
          Les jours s'en vont je demeure 月日は流れ わたしは残る
 
Les mains dans les mains restons face a face 手に手をつなぎ顔と顔を向け合はう
          Tandis que sous こうしてゐると
    Le pont de nos bras passe われ等の腕の橋の下を
Des éternels regards l'onde si lasse 疲れた無窮の時が流れる
 
          Vienne la nuit sonne l'heurs 日も暮れよ 鐘も鳴れ
          Les jours s'en vont je demeure 月日は流れ わたしは残る
 
L'amour s'en va comme cette eau courante 流れる水のやうに恋も死んでゆく
          L'amour s'en va 恋も死んでゆく
    Comme la vie est lente 生命ばかりが長く
Et comme l'Espérance est violente 希望ばかりが大きい
 
          Vienne la nuit sonne l'heurs 日も暮れよ 鐘も鳴れ
          Les jours s'en vont je demeure 月日は流れ わたしは残る
 
Passent les jours et passent les semaines 日が去り月がゆき
          Ni temps passé 過ぎた時も
    Ni les amours reviennent 昔の恋もふたたびは帰らない
Sous le pont Mirabeau coule la Seine ミラボー橋の下をセーヌ河が流れる
          Vienne la nuit sonne l'heurs 日も暮れよ 鐘も鳴れ
          Les jours s'en vont je demeure 月日は流れ わたしは残る
(訳 堀口大學)

 これは、シャンソンにもなっているほど有名な、アポリネールの代表的な詩「ミラボー橋」である。詩人ギョーム・アポリネール(1880-1918)は、ローマに生まれた。母親はポーランドの貴族出身だが、父親は不明で、モナコの司教だとか、ローマ法王庁の高僧だとか噂は絶えなかった。現在では、モナコ王国の退役将校であろうと言われている。彼は、19歳の時に、母親に連れられてパリにやってきて、その後、ピカソの紹介で画家のマリー・ローランサンと出遭い、激しい恋に堕ちた。
 しかし、その恋は破局に終わる(1912年)。上述した詩(1913年)は、ローランサンを偲んで書かれたと言われている。ミラボー橋は、詩人がローランサンの家に行くために毎日渡った橋であった。
 一方、詩人堀口大學(1892-1981)は、この詩が発表された2年後の1915年、外交官であった父親と共にスペインのマドリッドに滞在するが、その時にローランサンと知り合い、たちまち意気投合して、翌日から彼女に絵を習い始める。

 そうしたローランサンとの交際ゆえに、一部の人達から、「月光とピエロ」が堀口のローランサンへの情愛の吐露であると解釈されていることを僕はネット上から発見した。そうであったら面白いかも知れないと思って、僕はもっと周到に調べていった。本も取り寄せた。しかしながら残念なことにその可能性は低いことが分かった。
 ローランサンは確かに堀口を可愛がったようだ。しかし、9歳年上で、知り合った時には、すでに裕福なドイツ人貴族の妻となっていたローランサンに対して、堀口は終始控えめかつ従順に接していたというから、少なくとも対等な恋愛に発展した可能性は薄い。
 ある時彼女は、堀口にアポリネールという詩人の存在を教える。堀口は、それまでヴェルレーヌなどに傾倒していたが、アポリネールの詩に夢中になり、さらにそれをきっかけとして、サンボリズムから世紀末の詩人達の作品を経て近代詩へと興味の枠を広げていった。
 1918年、アポリネールが亡くなる。堀口の処女詩集「月光とピエロ」が発表されたのは翌年の1919年。僕は、ネット上で発見した、工学博士で熊本大学名誉教授の入口紀男氏が、ご自身のホームページで語られていることに信憑性を感じる。

 つまり、「月光とピエロ」は、尊敬する詩人アポリネールが終生マリー・ローランサンを思い続けながら世を去ったことに対する憐れみと惜別の歌である可能性が高い。すなわち、ピエロはアポリネール、コロンビーナとピエレット(ピエロの女性形)はローランサンである。

かなしからずや身はピエロ
月の孀(やもめ)の父無児(ててなしご)
月はみ空に身はここに
見すぎ世すぎの泣き笑い
 実際にローランサンもアポリネールも私生児であった。つまり「月のやもめのててなしご」なのである。そしてお互い、それぞれの境遇に同根のものを感じていたかも知れない。それを、堀口が思いやって詩の中に忍ばせたと思われる。
泣き笑いしてわがピエロ
秋じゃ!秋じゃ!と歌うなり

Oの形の口をして
秋じゃ!秋じゃ!と歌うなり
 この詩を三好達治はとても好んで、大学時代に絶えず口ずさんでいたという。曲がついていなくても、このように堀口の詩は愛されていたのだ。

 では月とは何であろうか?19世紀後半、「月の光」を書いたヴェルレーヌや、「月に憑かれたピエロ」を書いたアルベール・ジローのように、月をピエロと組み合わせて表現することが流行した。
 月は、詩作におけるアイテムとしては“狂気”のシンボルであり、同時に永遠に届かぬものへの憧憬である。それがピエロと組み合わせられると、ピエロという嘲笑の対象の自嘲的な悲劇性や孤独を強調することとなる。
 堀口が、アポリネールを知る前にヴェルレーヌに傾倒していたことは先ほど述べたが、ヴェルレーヌは、「コロンビーヌ」という詩で、コメヂア・デッラルテ(職業的旅の一座)のピエロ、アルルカンなどを登場させ、「月の光」で仮装した一座が月の中を通り過ぎている情景を映し出している。
 堀口も、異国的なピエロの世界に傾倒し、他の詩人達同様、月にこだわっていたのであろう。彼の最も評価された近代フランス詩の訳詩集に、彼は「月下の一群」というタイトルをつけていることからも、それは明らかである。
月の光に照らされて
ピエロ、ピエロット
踊りけり、
ピエロ、ピエロット

月の光に照らされて
ピエロ、ピエロット
歌いけり、
ピエロ、ピエロット
 これは、男女のピエロが楽しく踊っている情景ではなく、アポリネールとローランサンが運命の風に弄ばれている様を、円舞にたとえているのである。そこに月が光を投げかけていることによって、悲劇的な色を帯びているのである。これは月でないといけない。しかも満月だろうな。見つめているのは三日月でもいいけれど。

さて、その「月光とピエロ」から5つの詩を選び取り、無伴奏男声合唱組曲の傑作として世に広く紹介したのは作曲家清水脩氏である。大阪外国語大学フランス語科を卒業した清水は、ベルリーズの「回想録」の翻訳も行っているほどフランス語が堪能であったという。清水は、自身の長期留学の経験はないみたいだが、フランス語を武器に広くヨーロッパの文化に精通していた。
 その清水が「月光とピエロ」に飛びついたのも運命だったのだろう。この、異国情緒のピエロの詩と、清水のアカデミックな曲調とが相まって、ちょっとハイカラな風情が感じられるのが、この曲の魅力である。

 さて、今週からアカデミカ・コールの練習が始まる。もういちど楽譜を見て、ピエロの世界に酔い痴れてみよう。練習が楽しみだな。



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